憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

子供・子ども

2009-02-20 22:13:52 | フラグメンツ(学校の風景)
 表記についての2回目。
 前回は「しょうがい」についてでした。今回は,「こども」表記について。
 へえ「こども」の表記に違いがあるんですかね,と思った人もいるかも知れませんが,違いがあるのです。「こども」表記には,「子ども」と「子供」の2つの表記に分かれています。
 教育関係は,ほぼ「子ども」表記ではないでしょうか。
 無論,私も教育関係の人間ですので「子ども」と表記します。
 私が,教員養成系の大学に入って,手にとる本,論文,資料どれもが「子ども」表記だったので,教育学の文章では「子ども」って書くものなのだなと,理由もなく思いこんじゃった。なんでかなあ,と思ったこともあったろうけど,そういうもんなんだとあっさり納得していたのだった。
 なので,私が「子ども」と表記するのは,何ら深遠な理由やこだわりもなく,みんなそう書いているからという,実に浅はかな事情によっている。
 ただ,そうは言うものの,「子供」とは書きたくねえなあ,という感情的なわだかまりはある。
 なんでだろう…,と考えてみて,その一つに,「子供」の「供」がアテ字ということがいえる。
 そもそも,「こども」の「ども」は,複数をあらわしている。「野郎ども」とか「家来ども」の「ども」だ。「こども」も本来は,「子」の複数,つまり「子ども」だった。けど,いまじゃあ複数の意味はなくなった。一人でも「子ども」。複数いたら「子どもたち」「子どもら」だ。
 そして,複数の「ども」をあらわす漢字は,「共」である。つまり,「野郎ども」を漢字で書けば「野郎共」,「家来ども」は「家来共」だ。なので,「子ども」も本来は「子共」なのだ。けど,どういうわけか,「子ども」の場合だけ「子供」という字をアテた。どうしてかは,知らない。アテ字たる所以である。(そもそも,日本語の「ども」に漢字の「共」を当てていること自体「アテ字」なのだが,ここではそんな込み入った議論はしないし,私には無理。気になる方は日本語表記関係の書籍でもひっくり返して調べてください。ちなみに,私が今これを書いている際に開いているタネ本は高島俊男『お言葉ですが…4』2000年,文藝春秋です)。
 そういうわけで,「子供」の表記は,私にはしっくりこないなあという感じなのである。
 人によっては,「供」という字は,「お供(おとも)」するという字義を持つので,大人につき従うような意味を含んでしまう。なので使うべきではないと堂々と主張していたりする。どこで読んだかはすっかり忘れてしまったが,「供」を「ども」と濁って読ませる言葉は「こども」しかないというところから始まって,だから「供」の用法としては誤りであり,そのうえ「供」の字は良くない意味を持っているので,「こども」には使うべきではないという主張だった。
 けども,これもどうかなあと思う。そもそもアテ字なんだから,どうにでも理由はつけられるんだよね。
 「供」が「こども」だけ濁るのも,そもそも「こども」という言葉に「供」を当てたんだから,そうなんです。用法としては誤りなのも,そりゃそうでしょう。それに,「供」に「つきしたがう」という意味があるから,「こども」を見下すために「共」ではなく「供」をアテたというのは,うがち過ぎのような気がします。ましてや思想的な理由はないと思いますよ。たまたまのような気がします。おそらく,日本語研究の分野では解明されているんじゃないかしら。
 教育関係者が,「子ども」と書いているのも,アテ字を嫌っているという程度の理由によるものじゃあないかしらね。こどもの人権や平等に配慮しているからとは思えませんなあ。
 ということで,私が「子ども」と表記するのは,「供」がアテ字だからということ。「子供」という表記が,こどもの人権や平等の思想に反するからなんていう,オカド違いな理由じゃあありません。
 ところで,前回,私は「障碍」を「障がい」と書くような,いわゆる「まぜ書き」は嫌いだと述べた。そうなると,「子供」は何で「子ども」と書くのだということになる。言っていることが違うじゃねえかと思われるかもしれない。けど,「子供」を「子ども」と書くのは,「まぜ書き」ではありません。
 前回,「まぜ書き」というのは,「警邏」を「警ら」,「蔑視」を「べっ視」と書くものであると説明した。例えば,「べっ視」の場合,「べっ」をじーっと睨んだところで,「さげすむ」という意味はない。せいぜい遠くに唾を飛ばすような擬音語とか,何かの鳴き声の意味にしかならんだろう。「蔑視」と書いてはじめて「さげすんで視る」という意味を持つ。同様に,「障がい」の「がい」の字だけみても,「さまたげのある」という意味はない。「碍」という漢字があってはじめて,「さまたげのある」ということが理解できる。だから,「べっ視」と書かずに「蔑視」と書くのが好ましいと私は主張している。これが,前回の「まぜ書き」の主張の補足です。
 けれど今回出てきた「子ども」は違う。「子ども」の「ども」には,これだけで「いくつか(の状態)」という意味がちゃんとある。こういうのは,ひらがなで書いてもいい。違いがわかりましたかね。他にも,「米粒」なんてのは「米つぶ」と書いてもいいし,「湯煙」は「湯けむり」と書くのが一般的じゃないかしらね。「煙」と書こうが「けむり」と書こうが,意味は同じ。こういうのは「まぜ書き」とは言わない。
 私は,平仮名で書いて意味が通じるのであれば,できるだけ平仮名で書きたいなと思っている。つまりは「米つぶ」「湯けむり」派である。そういうわけで,この主張は「子供」と書かず「子ども」と書いている理由にもなりましょう。まあ,ただこれは,好き嫌いのレベルの話でしょうがね。