憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

心の折れた教師の行く末

2012-06-23 16:57:02 | 発達障害の窓
 先日、発達障害者の就労支援を進めているNPOの方から、元教師も参加していますという話を聞いて、衝撃をうけた。
 支援をする側ではない。支援される側である。もともと普通学校の教師だったけど、心が折れて教師を辞め、就労を支援するNPOのサービスを受けているということだった。しかも、2人もいるという。2人とも中年のオッサンだという。ついでにいえば、うち一人は妻帯者だという。
 心が折れる教師は、今日び何もめずらしくはないし、辞めていく教師も少なからずいる。辞めた教師のなかには、重いうつ症状の者もいるだろう。そうして、心療内科や精神科で診療を受ける中で、発達障害と診断を受けるということなのらしい。
 この話は、まだ私の頭のなかで整理されないままである。話を聞いて衝撃を受け、その後は混乱したままの状態だ。
 混乱している理由は、こんな感じだ。
 1つめ。発達障害者の就労支援であるから、イメージとしては若者をターゲットにしているはずなのに、元教師のオッサンが混じっているということ。
 2つめ。恐らくは20年くらい教師をやっていたオッサンが、支援をうけたところで、零細のブルーカラー(古いなあ)の職種で働けるとは思えないこと。そんな割り切りのできる人間なら、そもそも心は折れないだろうと思うのだが。
 3つめ。仮にも教師だった人間が、心が折れて精神科を受診して、そうして発達障害という診断を受けて、精神障害者手帳を交付してもらっているということ。精神障害者手帳は、うつ病患者には交付はされない。発達障害であるという診断によって、手帳が交付され福祉サービスを得られる仕組みになっている。しかし、曲がりなりにも教師として20年くらいやってきた人間に、何をいまさら障害者手帳認定なのだろうかと思うし、そういう制度は、おかしいんじゃないかとも思ってしまう。
 4つめ。心が折れて教師を辞める人に対して、私は少なからず同情はするけれど、だからといって福祉サービスを受けるのは、どうも制度の使い方が違うんじゃないかということ。20代だったらまだ許容できるが、私のようなオッサンはダメだろう。結婚をして妻もいて、発達障害者の就労支援サービスじゃあないだろう。行くべきはハローワークだろう。
 と、いうことが整理されないままでいるのでありました。

日記帳

2011-12-03 21:58:58 | 発達障害の窓
 日記帳に日記を毎日つけている。小学校3年生の正月から始めたから、かれこれ30年続けている。はじめたころは縦書きの当用日記だったけど、今は博文館の横線自由日記である。こいつを十数年にわたって、年末に買い求めている。この横線自由日記はそんなに需要がないらしく、書店を回ってやっと買い求めたこともあったが、ここ数年はネットで注文しているから、そんな面倒はなくなった。
 筆記具は小学生の頃は鉛筆だったが、中学校にあがってからは万年筆だ。今、キーボードの横に転がっているのは、13年前からの使用の品。モンブランなのだけど、手入れなんてしないから、インクですっかり汚れている。
 書き終えた日記帳は、段ボールに突っ込んである。引っ越しの度に段ボールに詰めて、そのまま開けることはない。だから、過去の日記帳を読み返すということはしたことがない。書き終わったら、それでおわりである。これからも、開くことはないだろう。

 6年前からは、10年日記もつけはじめた。だから、ここ7年間は毎日2種の日記を書いていることになる。10年日記というのは、過去の日記を読み返すのが目的で、そのために毎日つけるという種類の日記帳だ。なので、最初の1年目こそつまらないが、年を経るごとに書き溜まるので、年々楽しくなってくる。今では、毎日、6年分の一日を読み返すことができる。そうか、6年前の今日は、こんなことがあったかと、記憶がよみがえることもある。

 日記文学というジャンルがあるが、あれは私には理解できない。文学研究とか歴史文献としての価値はあろうかと思うが、純粋に文学として面白いとは思わない。だから、全く関心がない。

 けれど、例えば、村上春樹の『風の歌を聴け』のなかの、こういう箇所には惹かれる。この小説は19歳のときに読んだ。
 主人公の「僕」が以前、人間の存在理由をテーマにした小説を書こうとして、全ての物事を数値に置き換えずにはいられなくなるという性癖にとりつかれてしまい、…「当時の記録によれば、1969年の8月15日から翌年の4月3日までの間に、僕は358回の講義に出席し、54回のセックスを行い、6921本の煙草を吸ったことになる」…。

 あるいは、こういうエッセイも楽しい。高島俊男のタイトルもズバリ「正しい日記の書き方」である(『ほめそやしたりクサしたり』所収、大和書房、1998年)。
 氏は、日記を業務日誌のように書いて、ひまなときに記事を拾い出すという。例えば、「病気」という主題で、過去数年間の日記から記事を拾い出して引きうつす。どういう症状だったか、どこの病院に行ったか、医者は誰で、どういう薬をくれて、どういう経過だったか。これを一覧にするという。他には、「電気器具の買物」「車関係」「コピー機のメンテナンス」「テレビで観た寅さん映画」等を数年分の日記から拾いだして一覧にするのだという。これを高島氏はシナ文学研究者らしく「紀事本末」なんて言っているのだけど、何のことはない、データベースをせっせと作っているわけだ。

 ああ、そうか。私は、日記にデータベースを求めていたのか。
 と、いうことを、実は、昨日はじめて理解した。そうか。だから、10年日記を買ってつけてみたり、20年以上も前に読んだ村上の小説のほんの一部分を強烈に記憶していたり、高島のエッセイに惹かれたりしていたのか。

 と、いうことで、昨日、日記帳ソフトを購入した。予想通り、私が必要としているデータベース型の日記帳ソフトは数多く販売されていて、手頃なのをダウンロードした。
 なので、今日から、私の日記はモンブランからキーボードに変わる。30年来、毎夜欠かさず書き続けた日記帳は、昨日をもって終わりにした。今日からは、PCにデータとして打つことになる。ただ、10年日記は、まだ続けてみようと思う。

 自閉症者で日記を書く人は比較的多いことだろう。継続性があるということと、朝何時に起きて何を食べてといったフォーマットがはっきりしていることが、その要因だろうと思う。日記の内容は、その日の自分の気持ちや感想を書き記すというよりも、業務日誌に近いだろう。しかし、データとしての価値はどうだろう。多分、彼らは、起きる時間も、朝食べたものも、年間を通して変わらないんじゃないかと思う。
 職業柄、自閉症者の日記(のようなもの、も含む)はいくつか見たことがあるが、それは何かを書き残すためというよりも、決まった時間に決まったことを書く(または、キーボードを打つ)ことが目的のようなものが多かった。
 一方、ADHD傾向の人の日記は読んだ記憶がない。一体、どんな内容なのか興味は尽きないのだけど、そもそも毎日書き続ける行為自体、彼らにとって価値は低いのだろうと思う。

今日の酒の席でのバカ話

2010-09-03 22:58:35 | 発達障害の窓
 今日の酒の席でのバカ話。

 発達障害の子ども達というのは、教室のなかで少人数だから、困り感があるのであって、教室の生徒みんな発達障害の子どもだったら何も困ることはないだろう。そして、その中に正常発達の生徒がいれば、その生徒は困り感でいっぱいになるに違いない。
 
 ただ、高機能自閉ばかりの生徒の教室は、日課変更があったら崩壊するだろうし、告知をしない抜き打ちの避難訓練があったら誰も避難しないだろう。
 
 子どもの数でいれば、高機能自閉学級は50人でも対応できるだろう。けど、ADHD学級は10人学級でないと崩壊してしまうだろう。
 
 なんてことを、特別支援学校の教師が飲みながら話をするのでありました。
 これは、一読、差別的に読めるかもしれませんが、全くそんなことはありません。発達障害も正常発達も同じ視点で見ている我々ならではのバカ話なのであります。

やさしいテレビ

2010-01-28 22:05:20 | 発達障害の窓
 大宅壮一がテレビを一億総白痴化と批判して、もう50年以上がたった。今では、白痴なんて言葉もすっかり使われることはなくなったね。
 大宅壮一がテレビを白痴化の根源と批判したのは、放映されている番組が低俗であるということもさることながら、テレビというメディアが、想像力や思考力の低下を招いているとの主張ともいえる。これは、おそらく幼児教育学や発達心理学あたりの研究でも大方のところは実証されていることだろう。ただ、少し考えればわかることだけど、テレビが書籍なんかの文字ツールよりも想像力や思考力を必要としないメディアだというのは、当たり前ちゃあ当たり前のはなしだと思うけどね。
 けれど、最近はテレビの視聴時間も昔とくらべて減少しているともきく。おそらく、ネットやケータイを使いこなしている若年層ほどテレビというメディアを見限り始めているんじゃないかしら。
 そんななか、私が、今後テレビが生き残る術として主張するのは、ずばりテレビのバリアフリー化である。
 すなわち、テレビが想像力や思考力を必要としないということは、それだけ高齢者やハンディキャップを持った人に対してやさしいメディアであるということでもあるのだ。
 たとえば、テレビドラマというのは、自閉症者にとっては、実にわかりやすく編集されているという(ニキ・リンコ『俺ルール!』)。画面に映っていることは、すべて意味がある。意味のないことは画面に映らない。だから、視覚認知としては、この上なくわかりやすいということ。ウラを返せば、メディアリテラシーとして議論できる話題でもあるが、それはともかく、自閉っ子からみると、テレビのそういう編集というのは、とてもバリアフリーに違いない。
 それから、私がこれはいいなあと思うのは、バラエティやニュースの画面でダラダラっと流れるテロップ。テレビの画面で喋っていることが、一字一句たがわず、えんえんテロップで流れるという、あれ。特にバラエティ番組では、カラーだったり、それらしいフォントを使っているやつも一般的だが、ああいうのはデコテロップというらしい。
 あれは、テレビの視覚効果をねらったものだろうけど、はからずも、視覚優位の認知スタイルの人にとっては、とても親切なことだ。音声とテロップと両方で認知できるわけだから。耳が遠くなりはじめた高齢者にもいいことだろう。あれをみてウザッたいと思う人も多いと思うけど、あれはテレビのバリアフリーのスタイルとして有効だろうと思う。
 もう、若年層のテレビ離れは、不可避だろう。そうであれば、今後、テレビは人にやさしいバリアフリーメディアとして生き残りをかけるしかないんじゃないかと思うのが、私の主張だ。
 けれど、それにしては、肝心の番組の内容がちっともバリアフリーじゃないことが気にかかりますが…。

視覚優位・聴覚優位

2010-01-15 23:04:03 | 発達障害の窓
 LD(学習障害)に関する議論のなかで、視覚優位と聴覚優位というものがある。
 読んで字のごとし。視覚優位とは、ものごとを認識する際に、目から入ってくる情報のほうが耳で聞く情報よりも認識しやすい特性のことであり、聴覚優位とはその逆で、耳で聞くほうが目から入る情報よりも認識しやすい特性のことである。普通、私たちは、視覚と聴覚をバランスよく使ってものごとを認識しているわけであるが、どちらかに偏ってしまうと、学習する際のハンディとなろう。そこから、LDについての議論では、どちらがこの子どもは優位性があるのか、といった議論になる。
 LDにかかわらず、誰もがそんなに大きく偏らずとも、視覚か聴覚のどちらかに優位性はあるといえよう。自分は、説明を聞いて理解するのは苦手で、書いてあることを読むほうが得意だなあという人は視覚優位。反対に、本を読むのは苦手で、どっちかというと人の話を聞いて理解するほうが得意だなあという人は聴覚優位、といった具合である。
 教師にだって、視覚に優位性のある教師と聴覚に優位性のある教師にわけることができよう。
 授業中、やたらと板書をする教師。生徒は、ノートをとるのが大変。こういう教師は、おそらく本人は認識していないでしょうが、視覚優位なのでしょう。
 また、授業中、やたら説明が長い教師。生徒は、くどくて疲れてしまう。こういう教師は、やはり本人は認識していないでしょうが、聴覚優位なのでしょうね。
 さあ、皆さんの周りにいる教師は、一体どちらでしょうか?
 私の場合は…、自分では視覚優位と思っているのですが、あまりに板書の字が汚いので、できるだけ字は書かないようにしていましたね。お陰で、くどくど説明過多の授業だったように思います…。

中島義道氏と高機能自閉症

2009-06-26 22:40:48 | 発達障害の窓
 ちょっとした用があって,家にある中島義道の著書をひっくり返す。
 私が,氏の著書のなかで最初に読んだのは,『孤独について』(文春新書,1998年)のようだ。特段,読んで衝撃を受けたわけではなかったけど,なんとなく気になるライターのひとりになって,それから氏の著書はほぼ購入しているというのが,私の氏への遍歴である。
 1998年からだから,かれこれ10年以上になる。この『孤独について』のなかで,私がいちばん印象にとどめているのは,氏が小学生だった頃を回想したくだりである。
 今回,読みなおしてみてやっぱり,おもしろかった。
 こんな感じだ。
「なにしろ毎日が苦しかった。私は遊ぶことの嫌いな,遊ぶことができない少年だった。『晴れた日は外で遊びましょう』と黒板に書かれる日々,私は教室から追い出される。しかし,太陽の照りはえている広い校庭は恐ろしい。昼休み中,理科室の片隅にじっとしていることもしばしばであった。
 …一年生の最後の日に,その先生(担任の女性教師)が教室に入るなり満面笑みを浮かべ子供たち見渡して言った。『みんな,笑う二年生になりましょう。さあ,ワッハッハ。ワッハッハ…』。そして,大きな身体を揺さぶるようにして,腹を抱えて笑うしぐさをした。教室中の子供たちがそれにならった。私はとまどった。だが,どうしてもみんなと同じように笑うことはできない。彼女はふと豪快な笑いをやめて私のほうに向き直り『中島君。なんで笑わないの?』と聞いた。『馬鹿らしいから』と私は答えた」
 私は教師なので,こういうくだりを読むと,氏にも共感するし,担任の女性教諭にも共感ができる。だから,10年たってもとても印象に残っているのだ。
 氏の著書には,これに限らず,いたるところにこういう自虐的な表現が散りばめられていて,私には抱腹絶倒ものである。氏の哲学のテーマとつながっているので,著書によっては,ずーっと悲惨な回想が延々述べられているというのもある。悲惨な自分を書かせたら他の追随を許さない,ぶっちぎりで優勝できる圧倒的な筆力である。その一途さがおもしろくてたまらない。つくづく哲学者というのはすげえなあと思う。
 ここまで,壮絶に書いてしまう氏の自虐性もさることながら,一方ではその怨念を他者へ向けるエネルギーも並大抵ではない。この屈折した怨念が,氏の仕事や執筆活動の根源となっていることは間違いない。かくいう氏も60歳を過ぎて,社会的地位も安定し,一定の愛読者も得て,かなりまるーくなったようですが。
 もしかしたら氏は,うつ病かもしれないし,精神不安定で精神安定剤を常時服用しているかもしれない。そういう可能性は否定できないが,私はそうじゃないと思う。うつ的な状態で,あれほどまでのエネルギーを表出はできないだろう。氏は,ああゆう自虐的部分を冷静に回想しつつ,そのうえ読者をきちんと想定して嬉々として書いていると私は確信している。精神が錯乱してちゃあ,あそこまで読者を喜ばす筆致にはならんだろう。
 じゃあ,氏は何者かというと,とどのつまり高機能自閉症なのだと思う。というか,氏の著書をどっからどうよんでも,もう高機能自閉症の症状が明らかなのだけど,氏の著書をひっくり返しても,氏は自分が自閉症と告白していないのだ。そこが,とても引っかかるのだな。どうして告白しないんだろう。まさか,高機能自閉について知識がないわけじゃないだろうしね。
 氏は,引きこもりで,チック症で,夜尿症で,ありとあらゆる自己診断を下しているけど,自分は自閉症とは言っていない。氏の父親も恐らく高機能自閉症なのだけど,著書で明言していない。そこだけ,氏はとても慎重なのだった。
 それはともかく,私はある時期から,氏を高機能自閉症者の告白集として氏の著書を読むようになった。そして,氏の幼少期の回想を読むことで,高機能自閉の少年は学校生活についてこういう息苦しさを抱えてんだなあと思うようになった。
 1998年当時は,まだ高機能自閉症やアスペルガーなんてのは,学校教育の言説では一般的じゃあなかった。だから,当時は私も高機能自閉の告白集なんて読み方はしていない。けれど,学校教育で発達障害についての言説が浸透するなかで,私の中では中島義道の著書がリンクしはじめた。そんな10年間だった。
 氏の著書を読むたびに,高機能自閉の生徒は無理して教室に居なくてもいいと思う,特別支援担当教師特有のメンタリティが私のなかに醸成されていくのであった。


発達障害と児童虐待

2008-09-05 23:30:30 | 発達障害の窓
■親から虐待を受けた子どもは,発達に障害を持ってしまいがちになるという。
■乳幼児期に受けた虐待の心的外傷体験がもとになって高機能自閉症を誘発したり,解離性障害に悩まされるということは,十分にありえることだろう。また,虐待によって脳の発達に障害が生じ,結果,ADHDと診断されるというデータも出てきている(杉山登志郎「『発達障害』をどう捉えるか」『発達』115号,ミネルヴァ書房,2008年)。虐待と発達障害を結びつけるこのようなデータは,誰しもが予想できることでもあり,そうだろうなあとアッサリ納得できるものだろうとも思う。
■そこで思い出されるのは,私が研修で訪問した養育園の園長さんによる講話である。養育園とは,何らかの事情で親が育てられなくなった子どもを養育する施設のことで,昔で言うところの孤児院だ。そこの子どもも,昔で言えば「施設の子」なんていう言い方もあった,あの施設のことである。
■この園長さんの話が,私にとっては意外な内容だった。園長さんによれば,ここで養育する子どもというのは,経済的な事情や親の死別で身寄りがなくなった子どもよりも,親の育児放棄によるものが圧倒的だという。そして,施設では,各地域の児童相談所からの要請によって子どもを受け入れるわけであるが,もう対応できない状況にあるという。ここまでは意外でもなんでもなく,私としても,そうだろうなあと思いつつ聞いていた。
■しかし,その続きが意外だったのだ。園長さんは言う。「昔は反抗的で不良と言われるような子どもが多くやってきました。しかし,最近はLDやADHDが増えてきました。まあ,こういう子どもだから,親は育てるのを放棄して,ここの施設にあずけるのかもしれません」。園長さんは,サラリと言ったのであるが,私は,なるほどなあと思わず感嘆してしまった。
■この園長さんは,虐待を受けたから発達障害になるのではなく,発達障害だから虐待(ここではネグレクトをいう)を受けたという議論を展開している。これが私には,意外だったのだ。ただし,この議論は「ニワトリと卵」であり,どちらが正しいか鑑別するのは,不可能であるし,意義があるとは思っていない。私が感嘆したのは,ともすれば虐待した親を擁護するような議論を展開しつつも,言われてみれば十分に予想できてアッサリと納得できる内容だったということと,それを話したのが,子どもを保護する立場である園長さんであったということである。こういう発言は,普通一般になかなか言えない。子どもを保護する立場の人だから,言えるのだと思う。なので,こういう立場の人の発言というのは,シビアであればあるほど,重いなあと感じたのでありました。

自閉系と注意欠陥系

2008-08-01 22:30:18 | 発達障害の窓
 大学生の頃,一般教養のコマであった近代文学の講義のなかで,担当教授が「人間というのは,程度の差はあるにせよ,サディスト傾向とマゾヒスト傾向のどちらかに二分することができる」と言っていた。随分とまあ,下らねえことを言うもんだとその時は思ったが,今となって思い返してみても,やっぱり下らない。大体,どちらか一方に人間を分けてみようという,二分法の発想自体が安直だ。
 ただ,いくら下らないといっても,十数年たった今でもしっかり記憶に残ってしまっているわけで,そうなると,この二分法は話のタネ程度には面白いかもしれないね。私は,サドとマゾのどっちの傾向が強いのかなあなんてフト考えてしまったりしてね。
 さて,このような人間をどちらか一方に分けようとする安直な二分法。私だったら,こう分けてみたい。すなわち自閉系と注意欠陥系という二分法だ。
 自閉系というのは,根気強くこつこつと粘り強く取り組むタイプの人間だ。興味対象の幅は狭いが,これぞというものには飽くことなくやり遂げる。いうなれば一点突破主義だ。読書傾向でいえば,一冊の本を最初のページから読み進めていく。そして何時間でもずーっと読み続けられるようなタイプだね。あるいは,学校のテストでいうなら,最初から問題を解いていって,後になって時間が足りなくなり最後まで解くことができないタイプだ。
 一方,注意欠陥系は,興味対象への集中力はものすごいが,残念ながら長続きしない。すーぐ別なことへ興味が移っていく。瞬発力で生きているタイプの人間だ。パワーはあるが,ムダも多い。読書傾向でいえば,乱読,多読。片っ端から読んでいくが,途中で放り投げてしまう。テストだったら,ものすごい速さで問題を解いていくが,解答欄を間違えたり,問題をよく読まずに解いてしまったりと,とにかくウッカリミスで点数を落とすタイプ。
 どんなものかね,結構,人間の分類として面白いとは思うけどね。ただ,ネーミングはすこぶる悪いね。発達障害をバカにしていると怒る人もいるかもしれないし,不快な気持ちになる人,あるいは,傷ついたなんていう人もいるかもしれないね。
 けど,特別支援教育に携わっている私としては,そういう意図は全くなくて,むしろ逆の発想なんだよね。つまり,自閉や注意欠陥なんて,程度の差があれ人間だれにもそういう傾向はあるんだよと言いたいんだよね。また,今現在,広汎性発達障害と診断されている子どもにしたって,そんな傾向は程度の差はあれ普通一般誰にでもあるわけであるから,そんなに気にしないで,どんどん社会性を身に付けたらいいよという思いもあるわけです。
 けど,やっぱり人権派の人たちには受け入れられないかなあ。
 そうか,人権派と権派という二分法も面白いかもしれないね。ちなみに,私は,誰が何と言おうと,バリバリの人権派タイプの人間だと思っていますがね。

イッセー尾形の一人芝居

2008-07-25 22:05:43 | 発達障害の窓
■イッセー尾形の一人芝居を観はじめてから,かれこれ10年になろうとしている。私の住んでいる地方都市には毎年2回公演があり,今年も先月観てきたところであった。
■様々な市井の人々を演じる氏独特の一人芝居について,ここで改めて説明をする必要はないだろう。今年も,わが町での3日間の公演は大入り満員だったようだ。氏の芝居のコンセプトは氏が一人芝居を始めたときから不変であり,果てしなきマンネリズムと言ってしまうとそれはそうなのだが,毎年2回の公演は飽くことはなく,毎回新しい発見がある。ただ最近,氏の演じる人物について,私の受け取り方が変化してきている。
■それは,「ああ,この氏の演じる人物はもしかしたら,コミュニケーションに障害があるのではないか」と思ってしまうことだ。昔ながらのバーテンやタクシー運転手やサラリーマンなら,安心して観ていられる。しかし,ここ数年の氏の演じる人物には,引きこもりやストーカーの設定があったりして,時代性を感じずにいられない。
■氏は,スポットが当たった初めの数秒で,演じている人物の強烈な個性を打ち出し,観客を引き込ませようとする。その強引ともいえる個性の打ち出し方が,私を不安にさせるのだ。一体この人は,世の中を渡っていっているのだろうかと心配をさせるのだ。もう,つまずきっぱなしの人生を送っているのではないかと,ドキドキしてしまうのだ。しかし,そのドキドキも杞憂となる。ストーリーが展開していくにつれて,演じる人物が,実は結構したたかであることがわかってくる。その辺りで,私は安心して芝居を楽しむことができるようになる。
■この辺りの演出も当然ながら計算のうちなのであろう。つまり,氏は,ワザと「境界線」を感じさせるように演じているのだろう。そういうわけで,今のところ私は,まだ氏の一人芝居を楽しめることができているのだが,そのうち,本格的に楽しめなくなったらどうしようと思ってもいるのであった。

版画家M・C・エッシャー

2008-07-04 22:10:47 | 発達障害の窓
■前回は,自閉症者と音楽についてお喋りをしたが,今回はアートの分野での話題を。こちらは,自閉症者のアートというのがある。いわゆるアール・ブリュット(アウトサイダーアート)というものだ。
■厳密には,アール・ブリュット=自閉症者アートというわけではなく,あくまでも,アール・ブリュットの一分野というところであろうか。詳しくは,各種サイトを参照して欲しいが,いずれにせよ現代は,自閉症者の一連のアートが芸術作品として確立した(?)ということだ。
■私も,彼らの絵画作品や塑像作品を巡回展で接したことがあるが,いかにも彼らの心のうちを示しているようで興味は尽きなかった。創作漢字を5ミリ大の大きさで紙びっしりに描いた(書いた)作品,空想都市を鳥瞰図で事細かに描いた作品(左上から描きはじめたと思われるデッサンだった!),あるいは,同じデザインの10センチ大の人形を100体くらい並べた塑像作品など,いかにもといった作品が並んでいた。
■さてさて,版画家M・Cエッシャーである。オランダ生まれの彼は,だまし絵で有名。永久機関やメビウスの輪をヒントにしたリトグラフや,幾何学模様を芸術作品に仕上げたグラフィックアートのはしりともいえる作品を数多く残している。私が子どもの頃にみた児童書の挿絵なんかにもエッシャーの版画が紹介されていたりして,そんなことから私は親しみを持っていた。ちなみに,私の職員室のマグカップのデザインは,エッシャーのだまし絵。かれこれ10年近く割れずに愛用している。彼のユーモアのある作品から,私は結構人間的な人物だと思っていた。
■しかし,彼の作品群を観る機会があって,そこで私の彼への心象は大きく変わることになる。子どもの頃の児童書の挿絵にあった,ユーモアのあるだまし絵に出会えてそれはそれで嬉しかったが,その一方で,多くの幾何学作品に私は驚いたのだった。何と,細かい。何と,緻密。現在のCGを使えば,それ以上の緻密な作品ができるのであろうけど,エッシャーの場合は,すべて手書きのデッサン。そしてリトグラフだ。その作品群を目の当たりにすると,その細かさに圧倒される。さすが名を残す芸術家。こういった作品は,作家のインスピレーションで一気呵成に書き上げる類のものじゃあないから,とにかく根気強さが必要になる。おそらく,エッシャーは,これらの作品を描き上げるのに,毎日何時間も,あるいは十時間以上も幾何学模様をひたすら描き続けたに違いない。
■そんなことを考えて,ああ,そうかと思ったのが,冒頭に上げたアール・ブリュットなのだ。私は,エッシャーの作品群と,アール・ブリュットのそれらとに親和性を見出さずにいられない。エッシャーは,多分,広汎性発達障害すなわちアスペルガー症候群じゃないかしらね。名声を得ながらも,晩年は,奥さんに愛想つかされ(別に,浮気をしたわけじゃあないでしょう),一人になって養老院で寂しく亡くなったというエピソードもいかにもという感じ。ただ,エッシャーの幾何学模様を眺めながら,これ程までに熱中できる根気強さは,それはそれでうらやましいと思ってもいるのだけどね。