憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

やさしいテレビ

2010-01-28 22:05:20 | 発達障害の窓
 大宅壮一がテレビを一億総白痴化と批判して、もう50年以上がたった。今では、白痴なんて言葉もすっかり使われることはなくなったね。
 大宅壮一がテレビを白痴化の根源と批判したのは、放映されている番組が低俗であるということもさることながら、テレビというメディアが、想像力や思考力の低下を招いているとの主張ともいえる。これは、おそらく幼児教育学や発達心理学あたりの研究でも大方のところは実証されていることだろう。ただ、少し考えればわかることだけど、テレビが書籍なんかの文字ツールよりも想像力や思考力を必要としないメディアだというのは、当たり前ちゃあ当たり前のはなしだと思うけどね。
 けれど、最近はテレビの視聴時間も昔とくらべて減少しているともきく。おそらく、ネットやケータイを使いこなしている若年層ほどテレビというメディアを見限り始めているんじゃないかしら。
 そんななか、私が、今後テレビが生き残る術として主張するのは、ずばりテレビのバリアフリー化である。
 すなわち、テレビが想像力や思考力を必要としないということは、それだけ高齢者やハンディキャップを持った人に対してやさしいメディアであるということでもあるのだ。
 たとえば、テレビドラマというのは、自閉症者にとっては、実にわかりやすく編集されているという(ニキ・リンコ『俺ルール!』)。画面に映っていることは、すべて意味がある。意味のないことは画面に映らない。だから、視覚認知としては、この上なくわかりやすいということ。ウラを返せば、メディアリテラシーとして議論できる話題でもあるが、それはともかく、自閉っ子からみると、テレビのそういう編集というのは、とてもバリアフリーに違いない。
 それから、私がこれはいいなあと思うのは、バラエティやニュースの画面でダラダラっと流れるテロップ。テレビの画面で喋っていることが、一字一句たがわず、えんえんテロップで流れるという、あれ。特にバラエティ番組では、カラーだったり、それらしいフォントを使っているやつも一般的だが、ああいうのはデコテロップというらしい。
 あれは、テレビの視覚効果をねらったものだろうけど、はからずも、視覚優位の認知スタイルの人にとっては、とても親切なことだ。音声とテロップと両方で認知できるわけだから。耳が遠くなりはじめた高齢者にもいいことだろう。あれをみてウザッたいと思う人も多いと思うけど、あれはテレビのバリアフリーのスタイルとして有効だろうと思う。
 もう、若年層のテレビ離れは、不可避だろう。そうであれば、今後、テレビは人にやさしいバリアフリーメディアとして生き残りをかけるしかないんじゃないかと思うのが、私の主張だ。
 けれど、それにしては、肝心の番組の内容がちっともバリアフリーじゃないことが気にかかりますが…。

30代は「助けてと言えない」世代か?

2010-01-22 23:31:27 | フラグメンツ(学校の風景)
 我々30代は「助けてと言えない」世代だという。
 NHK『クローズアップ現代』では昨年、32歳でリストラされて、ネットカフェ生活をしている男性を紹介し、そのインタビューで、「自分が悪いからこういうことになった」という男性のコメントを放映した。番組後、この男性のコメントに共感した30代が多数いたという。先日、その続編をたまたま観たのだが、我々30代は「自己責任」を強く感じており、社会が悪い、政治が悪い、と嘆くよりも前に「自分が悪い」と思ってしまいがちになるという。そして、30代は仕事につまずいても「助けてと言えない」世代と結論づけていたのだった。
 このような世代論が市民権を得るかどうかは、わからない。ただ、同じ30代としては、共感しつつも、ちょっと違うなあと思ったりもした。
 私は、30代といっても後半にあたり、この世代は一般には「団塊ジュニア」と呼ばれている。社会にでたのは、バブルの後。いわゆる就職氷河期にあたり、バブル絶頂期に社会にでた前世代の「新人類」と比較して「貧乏クジ」世代とも言われた(ただし、これは定着しなかった)。就職氷河期を経験しているから、ホネがあるのかいうと、そういうわけでは全くなく、安定を求める傾向が他の世代と比べて格段に強い。そりゃあそうだ。就職してからこのかた、好景気の恩恵を受けていなくて、働いていても成果主義やリストラに翻弄されながら、なんとか今の仕事にしがみついて生活しているのだから。そのため、消費への欲望も低く、そこそこの生活で満足を得ようとする。
 こうした子羊のような心性が1970年代生まれの30代には顕著といえるだろう。
 けれど、だからといって我々が「助けてと言えない」世代と結論づけていいかというと、それは疑問。
 同世代としていえるのは、社会に出ようとしたちょうどその時期、バタバタと銀行が倒産し、それに関連して企業の倒産も相次ぎ、しまいには負債を抱えた証券会社の社長が記者会見で大泣きしているのをテレビで見せつけられたのだ。あの映像をみて、我々は氷河期を乗り越え会社に入ろうとしたそのときに、「会社をアテにしちゃいけないんだ」と思わされたことは間違いない。つまり、自分の生活は自分で守るしかないと強く思ったことだろう。だから、「助けてと言えない」というよりも、「助けてと言ったところで、どうしょうもない」という心性を強く持っているのだ。
 つまり、ハナから社会や政治に期待をしていないのである。
 そこから「自己責任」が強いと言われると、それはそうかと思う。ただ、「自分が悪い」と責める心性は、うつの症状の特有の傾向。だから、それは世代論というよりも、子羊のような30代がリストラに遭い、うつの症状を示しているという状況なのだと思う。
 なので、私としては、番組タイトルをもじるとすれば、我々30代は「助けてと言えない」世代というよりも「助けてと言わない」世代という方が、より世代論としては近いような感じを受けるのだった。

 ところで、ここは教育Blogなのだから、教育の話題と関連づけよう。
 この「自己責任」論。これ、教師一般でいうと、こういう心性を持つ教師はかなり多いと私は思う。特に、デキる教師ほど顕著だ。つまり、学校現場でつまずいても、子どもが悪い、保護者が悪い、と嘆くより「教師である自分が悪い」と責めるのだ。こういう教師は、ハタから見れば何て謙虚な教師だろうと思うけど、程度の問題だと思う。
 あまり強く自分を責めると、精神が病んでしまうことにもなりかねない。だって、それはうつの症状の特有の傾向なのだから。
 もちろん、デキる教師だったらそんな心配は無用。どんどん自分を責めなさい。けれど、自分が普通の教師だと思うのであれば、自分を責めすぎないほうが自分のためですよ、と団塊ジュニアの30代教師は思うのであった。
 

視覚優位・聴覚優位

2010-01-15 23:04:03 | 発達障害の窓
 LD(学習障害)に関する議論のなかで、視覚優位と聴覚優位というものがある。
 読んで字のごとし。視覚優位とは、ものごとを認識する際に、目から入ってくる情報のほうが耳で聞く情報よりも認識しやすい特性のことであり、聴覚優位とはその逆で、耳で聞くほうが目から入る情報よりも認識しやすい特性のことである。普通、私たちは、視覚と聴覚をバランスよく使ってものごとを認識しているわけであるが、どちらかに偏ってしまうと、学習する際のハンディとなろう。そこから、LDについての議論では、どちらがこの子どもは優位性があるのか、といった議論になる。
 LDにかかわらず、誰もがそんなに大きく偏らずとも、視覚か聴覚のどちらかに優位性はあるといえよう。自分は、説明を聞いて理解するのは苦手で、書いてあることを読むほうが得意だなあという人は視覚優位。反対に、本を読むのは苦手で、どっちかというと人の話を聞いて理解するほうが得意だなあという人は聴覚優位、といった具合である。
 教師にだって、視覚に優位性のある教師と聴覚に優位性のある教師にわけることができよう。
 授業中、やたらと板書をする教師。生徒は、ノートをとるのが大変。こういう教師は、おそらく本人は認識していないでしょうが、視覚優位なのでしょう。
 また、授業中、やたら説明が長い教師。生徒は、くどくて疲れてしまう。こういう教師は、やはり本人は認識していないでしょうが、聴覚優位なのでしょうね。
 さあ、皆さんの周りにいる教師は、一体どちらでしょうか?
 私の場合は…、自分では視覚優位と思っているのですが、あまりに板書の字が汚いので、できるだけ字は書かないようにしていましたね。お陰で、くどくど説明過多の授業だったように思います…。

今年の所感はこんな感じ

2010-01-08 19:45:24 | 教育時評
 昨年末の話題から。
 年末、大掃除の合間に新聞を読む。
 この時期にきまって報道される教育関係の記事はこれ。

『公立校教員:精神疾患で休職5400人 過去最悪、16年連続の増加』
 うつ病や適応障害、統合失調症など精神疾患で08年度に休職した公立学校の教員は過去最多の5400人(前年度比405人増)と、初めて5000人を超えたことが文部科学省の調査で分かった。増加は16年連続。病気休職者全体に占める割合も63・0%(同1・1ポイント増)と過去最高だった。文科省は「教育委員会などがメンタルヘルスに関する取り組みを進めているが、なかなか休職者の数が減らない。深刻な問題だ」としている。
(2009年12月26日付 毎日jp)

 「休職者過去最悪」といったって、毎年「過去最悪」なんだから、いまさら特に驚きはない。もう、年末の風物詩といった感じの記事である。
 多分、ここにある文科省のコメントも、毎年同じだろう。

 もう一つ、年末の報道から。
 こんな報道があった。

『自殺者:3万人超す 前年上回る恐れも 1~11月』
 警察庁は25日、11月の自殺者数が2494人だったと公表し、1~11月の累計は3万181人(昨年同期比445人増)となり12年連続で3万人を超えた。12月もこのペースで推移すれば、統計の残る78年以降で最多だった03年の3万4427人よりは少ないものの、08年の3万2249人を上回る見通し。金融危機が深刻化した昨年10月以降長引く不況で、経済的要因による自殺が増えているとみられる。
(2009年12月25日付 毎日jp)

 わが国の、自殺者が3万人を超えたという報道。
 もう12年連続というのだから、こちらも毎年のことだ。なので、別に驚くことではないし、先の教員の休職者同様、ニュース性もすっかり薄くなっている。私のような中高年のオッサンが、うつ的症状から精神を病んで自死にいたる場合が多いのだろう。

 年末から正月にかけての報道といえば、年越し派遣村のニュースというのもあった。年越しに住むところのない800人を保護したという。鳩山首相ほか、政府の要人は、元旦に派遣村を視察していた。この人たちは、正月から、仕事しているんだな。
 それはともかく派遣村だ。これ、来年以降も状況は何も変わらず、今後毎年、開設されることになるだろう。
 私は、年末年始6日間の休暇をもらい、正月はダラダラとテレビをみて、ぬくぬくと過ごした。仕事が始まっても、冬休み中はこれといった仕事もないので、年休をとってさっさと退勤する日もあった。
 年越しに仕事だけではなく、住むところさえも失っている人からみれば、教員なんてのは、実に恵まれた職種だろうと思うだろう。
 けれど、自殺者3万人のなかに、教員もある程度の割合でいることは間違いない。

 教員の休職者が過去最高だということも、派遣村で年を越さなくてはならない人が多数いるということも、自殺者が3万人を超えたということも、私には、ことの根本は同一と思われる。
 端的にいえば、労働分野のセイフティネットの欠如ということだ。
 だから、年末年始に流されるこれらの報道は、私には別々の話題には思えないのである。

 …というようなことを、実は、去年も一昨年もこのBlogで私は年頭にお喋りをしている。
 つまり、私の考えていることというのは、3年の間、全然進歩していないということだね。長いことBlogをやっていると、自分の進歩のなさがよくわかるというものだ。
 けれど、それは、私が3年間、進歩ないということもさることながら、わが国の状況に変化がないということでもあるのだ。
 つまり、教師の休職者が16年間増え続けているにもかかわらず、行政はこれといった手を打つことなく、また、12年間自殺者が3万人超えていることについても、やはり行政はこれといった手をうつことなく、過ぎているということなのである。
 ここから導き出されることは、この先も、おそらくわが国は、労働者へのセイフティネットを整備することはないだろうということであり、教師も休職者は過去最悪を更新しつづけ、自殺者は3万人を超え続け、派遣村は年末になると開設され続けるということだ。
 つまり、行政に頼ることなく、自分の身は自分で守らなくてはならないということだ。
 というわけで、今年もまた、これまでと何ら変わりのない結論に至るのでありました。
 せめて、今年は16年連続で増加している教員の休職者数が少しでも減少するように望みをかけて、年頭の所感といたしましょう。

年が明けました

2010-01-05 22:36:04 | その他
 年が明けました。
 2010年の始まりである。
 このBlogも4年目に突入した。
 まだまだ書きたいことはいっぱいあるので、今年もまた誰に請われることなく、勝手気ままに週に1回の更新を重ねていくことと思う。
 今年の正月は、ダラダラ過ごしているうちに終わってしまった。買いためた本を読みあさったり、ちょっとした書きものをしたりと、いろいろと計画を立てていたのだが、何も手を付けないまま仕事はじめとなってしまった。多分、今年は、例年以上にダラダラの年になるのだろうと思う。
 こういう年頭のBlogで、多くの方は今年の抱負などを書き連ねるのでしょうが、私の場合は、このような場でおおやけにするような、たいそうな抱負もありませんし、それにそんな大仰な抱負を持ったところでそのように一年を過ごすことなんてできっこありませんので、毎年のことながらソロソロと始動していこうと思います。
 そういうわけで、今年もよろしくお願いします。