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憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

道徳の教科化について

2013-02-23 19:41:59 | 教育時評
 政府の教育再生実行会議で、道徳を教科にしようとする議論がなされている。
 といっても、これは教育関係者でなければ、いまひとつピンとこない話題かもしれない。

 今でも、学校には小学校1年生からちゃんと「道徳の時間」はある。これは、皆さんご存知であろう。ただ、戦後、「道徳の時間」(いわゆる「特設道徳」という)については、昭和33年に成立するまでの過程で紆余曲折があった。また、成立以後も現場では多くの教員が反対の姿勢を示した。だから、時間割に道徳があっても、授業がなされなかったり、せいぜいテレビ視聴でお茶を濁していたりとかという感じだった。けれど、そんな現場での「特設道徳」の混乱を知っている世代の教員もいなくなっているから、今では、どの学校でも担任教師が授業準備をして、そこそこの道徳授業をやっていることだろう。
 教科じゃないので、教科書はないけど、文部科学省がすべての子どもに無償配布している「心のノート」という冊子があって、道徳の時間には活用することになっている。また、多くの学校では教材会社や教育委員会の作成している副読本を用意して、こちらも道徳の時間に活用していることだろう。
 これが、現行の「道徳の時間」。これを、社会科とか国語科という「道徳科」にしようというのが、今回の道徳の教科化の議論。
 じゃあ、教科にすることによって、何が変わるのか。
 現場レベルでいえば、大きいのは教科書と評価評定ということになろう。
 教科にする以上は、検定を受けた教科書によって授業を進めることになるだろう。現在すでに「心のノート」を授業で活用しているという実績があるから、教科化すれば新たに教科書の検定をして、そいつで授業せよという方針をとるだろう。ただ、教科書で教えるといっても、「国語」や「数学」といった教科書のイメージではなく、「音楽」とか「保健体育」といった実技教科のような扱いになると思われる。ただし、「道徳科」を実技教科のような活動中心(ボランティアとか、アクティビティとか、ディベートとか)にするのか、座学でこんこんと価値注入をはかるのかは、今後の議論によるだろう。
 それから、評価評定をどうするのかというところで、大きな議論となるだろう。特に、中学校現場では、道徳の評価については大反対がなされるだろう。そのときに、教科推進側がどこまで強く評価評定を推していくかによって、評価評定化は決まるだろう。ただし、もし「道徳科」で評価評定することになったとしても、具体案が現場に下りてくるまでに、さまざまなセクションで骨抜きにしてしまうことだろう。
 つまりは、現場レベルでは、教科化によって道徳の教科書は配られるものの、実際の授業は現行の「道徳の時間」と大きく違わないだろう、というのが私の予想だ。
 今回の「道徳」教科化の議論には、現行の「道徳の時間」が年間35時間なり設定されているものの、どうも現場では35時間きちんと授業していなくて、それはいかん、という理由もあげられていよう。
 しかし、たとえ教科になって35時間きちんと授業しようにも、他の教科や領域を減らすには現実には無理なので現場では手練手管を使い、これまでのような扱いで済まそうという思惑がはたらくだろうと思われる。

 そのような制度上の議論はともかくとして、道徳の教科化の議論で私が期待するのは徳目の中身である。ありていにいえば、「道徳科」で何を教えるのか、ということだ。
 道徳教育推進派は、現在の「いじめ」問題に乗じて、命の大切さをきちんと教えるべきだという主張もあったりするが、これはバカな話だ。もし、教育研究者の肩書きでそんなことを言っているのがいれば、そいつは、研究者ではなくただの政治屋だ。バカにしていい。
 「いじめ」問題の解決は、子どもへの価値注入ではなく、教師の学級経営力の問題である。かっこよくいえば、教師が教室の中をいかにマネジメントするか、という問題なのだ。あるいは、教師集団の組織性の問題としてとらえてもいい。「いじめ」を解決できない力のない教師をどう学校全体でフォローするか、という教師組織の問題だ。こうしたことは、教育関係者なら常識の議論である。
 もし、道徳教育を推進することで「いじめ」が解決できるなら、現場はこれほど楽なものはない。だいたい「いじめ」問題が、そんな簡単なことではないことなんて、問題の深刻さから考えればわかるだろう。
 また、家庭の教育力が弱まってきているから、それを学校教育で補おうという発想で、道徳の推進をはかろうとする主張もあるが、これについても教師は反対をするべきだ。
 わが国のような、これほどまでに教育に関心の高い国で、果たして本当に家庭の教育力が弱まってきているのか、という根本の議論ももっとなされるべきであると思うが、それは措くとして、そもそも家庭教育と学校教育は別ものであると、きちんと教師は発言するべきなのだ。「しつけ」と「教育」の違いを教育のプロとして発言をすることが必要だ。もちろん、そんなもの線引きができないことなんてわかっている。けれど、家庭で身に付けるべきものを、何でもかんでも学校で受け入れているから、現場は混乱しているのである。
 昨今の「体罰」問題に絡めていえば、「体罰」をするなんていうのは教育のプロに徹していないから、他人であるはずの児童生徒に暴力をふるうのである。教師は、親ではなく、近所のおじさんおばさんでもない。職業人としての教育のプロなのである。教師の「体罰」というのは、職業人としての逸脱行為なのだ。何が「愛のムチ」だ。学校は躾をする場ではない。教育者に、そんなものはいらん。
 道徳に話を戻すと、そうした教育のプロの立場で、学校教育で子どもに注入すべき価値は何か、ということを議論すべきなのだ。
 そう考えると、戦前の「修身」の徳目は、現在の学校教育にそぐわないものが多いだろう。道徳推進派の多くは、「修身」を復活させて忠節とか孝順なんていう徳目を「道徳科」に載せるのが悲願なのかもしれないが、そういう徳目を現在の学校教育で受け入れるとデメリットの方が多くなると言っておこう。
 私は、道徳教育で教える徳目には、まさに学校でなければ培うことができないであろう徳目を、優先的に取り上げていくべきと考える。そして、その学校でなければ培うことのできない価値とは何か、について議論することが有用であると思うのだ。
 たとえば、道徳教育の議論で常に俎上にあがる「国を愛する心」なんていうのは、その筆頭である。これは、学校教育によってしか培うことはできない。「家族愛」とか「郷土愛」というのは、そこで生活をしたり住んでいたりすれば、おのずと培われるものである。家族を愛することのできない子ども、というのは、家庭教育に何らかの問題があるのであり、ごくごく普通の家庭であれば「家族愛」というのは育まれる。しかし、「愛国心」については、普通に生活していて育まれる、ということにはならない。 これは、教育による知識とともに価値の注入が必要になる。それによってはじめて「国を愛する心」が育まれるのだ。
 道徳教育の議論については、たとえば、こうした議論がもっともっとなされるべきなのだ。
 「命を大切に」とか「みんな仲良く」なんていう価値議論は、そりゃ価値としては大切だけど、そんなものは学校教育としては当たり前の話で、議論としてはあまりに低俗である、と言っておこう。

キャリア教育雑感

2013-02-09 16:51:21 | 教育時評
 安藤美冬『冒険に出よう』(ディスカヴァー21、2012年)を読む。売れているようだ。売れているのは、25歳以下の就カツ前後の若者を購買層にしているものの、私のようなオッサン層も読んでいるからだろう。
 著者のフリーランス体験をベースに、会社組織からはなれて、自分のやりたいことをやって冒険しよう、というメッセージ。
 安藤は、「ソーシャルメディア」「フリーランス」「セルフブランディング」「ノマド」が自分を表すキーワードだという。この4つのキーワードについての詳しいことは、本書を読んでもらうとして、「ノマド」とはまさしく、存在様式なのだということを確認する。最近、ちょくちょく目にするが、こいつは「働く形態」なのではない。形態であれば「フリーランス」だ。そうじゃなく、「ノマド」は「存在様式」なのだ。安藤の言う「生き方」そのものだ。そこを、しっかり読みとらんと、冒険には出られまい。

 安藤を読んだあとは、木暮太一『僕たちはいつまでこんな働き方を続けるのか』(星海社新書、2012年)を読むとよい。こちらもターゲットは就カツ戦線の若者層だ。こちらは、冒険にでなくてもいいから、会社組織のなかでの自己実現を目指すやり方について主張している。したたかな組織人を目指せということか。
 安藤、木暮の主張は、一見、正反対のようだが、そんなことはない。どちらも、自己実現するために働くとはどういうことか、という意識に貫かれている。

 ちなみに、安藤、木暮ときて、まだ余力はあれば今野晴貴『ブラック企業』(文春新書、2012年)を読むとよい。これ、前にも紹介したけど、企業が新卒社員を使い捨てていく有様をルポしている。もちろん、わが国の企業がすべてとはいわないけど、若年層の雇用が従来のそれより大きく変貌してしまっていることは間違いがない。ブラック今野を読んで、わが国の若年層が置かれている厳しさを知ったうえで、ノマド安藤、マルクス木暮を読むといいだろう。

 教育の話題である。
 キャリア教育の充実と言われて久しい。
 おそらく日本全国すべての学校で、規模の程度はあれ、キャリア教育の実践がなされているだろう。一昔前までの進路指導とは違う、新しい実践が行われていることと思う。
 1つ1つの実践について、私はあかるくないけれど、キャリアについて子どもに教えるのであれば、安藤、木暮は読んでおくべきだろうとは思う。

 では、それだけで、キャリアを指導できるかといえば、それは不十分である。
 次に教師は考えるのである。
 安藤も木暮も言っていることは、等しく「自己実現」である。働くことは「自己実現」のためだ、と主張する。この主張は、なかなか魅力的だ。キャリア教育にはうってつけと思う。けど、それだけでいいか。働く目的は、「自己実現」であることは事実なのだけど、実は、それだけではないのだ。
 私は、働く目的を「自己実現」だけに求めるキャリア教育は間違っていると思うし、それだけ教えていてもうまくいかないと、ずーっと考えている。
 私のいうキャリアとは、次の3つだ。
 一つは、「生活」。つまり、食うためだ。食うために働く。そりゃそうだ。働かなくても食えるのなら、誰も働かない。これが、キャリアのおおもとだ。けど、そんなこと誰もがわかっていることなので、わざわざ学校で教える必要はない。
 次が「自己実現」。ここが、キャリア教育の大きな柱だ。おそらく、学校ベースで研究、実践されているのは、ここの部分だろう。けど、もうひとつ、キャリアで大切なことを教えるべきだ。
 それが、「社会貢献」だ。この「社会貢献」のないキャリア教育はおかしい。
 そして、こいつこそ、学校教育でゴリゴリ教えるべきと思うけど、どうにも、私の主張は少数派のようです。

 ここから先は、4年前、私が2009年に掲載したキャリア教育についてのお喋り。
 この歳になると、4年前に喋っていたことと、今、考えているととに、大きな隔たりはない。それは、主張の一貫性とかいう格好のいいものではなくて、単に、成長がなくなったということに過ぎない。
 それはともかく、再掲します。

 中学校の社会科公民分野には,経済と労働とのかかわりで,「終身雇用制」や「年功序列賃金制」や「ワークシェアリング」などを教えるところがある。
 私が社会科教師だったころ,ここの部分はこんな風に授業を流していた。
「はじめにきくが,何で,人は働くんだい?」
 生徒からは,答えはすぐに出る。
「給料をもらう」「お金をかせぐ」「生活をする」など,表現は違えどおおむねこんな答えが返ってくる。私は,「そうだね」などといいながら,黒板に「収入を得る」と板書する。
「まだ,ある。さあ,何だ」
 ここからは,すんなりとは出てこない。「考えろ」と言って,少しの時間,考えさせる。
 さーて,皆さんも考えてみてください。いうなれば「労働の意義」です。「収入を得る」ほかに,「労働の意義」って何でしょうか。
 授業では,なかなか出てこない場合は,「みんなは,収入を得るためだったら,どんな仕事でもいいのかい」などと,ヒントを与える。
 そうするうちに,「夢をかなえる」「自分のやりたいことをする」などの答えがやっとでる。そこで,「自己実現」と板書をする。
「さて,2つでた。実は,人が働くのはもう1つ理由があるのだ。わかるか」
 この最後はまず答えられない。私の記憶では,過去に1~2人の生徒が答えたくらいだったはずだ。皆さんはわかりますか?
 正解は,「社会に役立つため」。
 以上,「収入を得る」「自己実現」「社会に役立つため」の3つが「労働の意義」である。

「ニート」「フリーター」の増加というのは,今おさえた「労働の意義」についての3つ目「社会に役立つため」すなわち「社会貢献」という意義がスッポリ抜けているせいだ,と私は考える。なので,授業でもそんなことを生徒に話していた。     
 ときには,「職業に貴賤なし」ということについて教えたり,当時売れていた村上龍の『13歳のハローワーク』を話題にして,「あれは「労働の意義」を「自己実現」に特化してんだよ,あんなもの読んだら「ニート」になるぜ」などと,脱線していた。

 いわゆる「キャリア教育」を「総合的な学習の時間」などでおこなう学校が増えた。
 「総合的な学習の時間」の導入がなされた時,私は当時の勤務校で研修を担当しており,ご多分にもれず「キャリア教育」の年間計画をつくり,3年生の生徒を「職業体験」と称して地域に放した。
 「キャリア教育」のねらいを,「ニート」や「フリーター」にならないように中学生のうちから「労働」について体験させておく,とするのは極論に過ぎようが,「ニート」や「フリーター」の増加が社会問題化したとき,教育界ではにわかに「キャリア教育」の必要性が議論されたわけでもあるから,あながち間違いではないであろう。ただ,計画を立ててみればわかることだが,「キャリア教育」というのは,「労働の意義」を「自己実現」とすることに大きくウェイトをおいている。つまり,中学生のうちに自分のやりたいことや適性がわかれば,大人になったらしっかりと働くだろうという理屈となっているのだ。
 けど,当時の私は,「労働の意義」を「自己実現」に特化しているから,「ニート」は増加しているのだと思っていた。すなわちここでも「労働の意義」として「社会貢献」という視点は抜け落ちていたのだ。
 担当として計画を立てながら「キャリア教育なんてのは,高校に入ってバイトをやってみれば,すぐにわかることなのに,それをわざわざ中学校で授業時間削ってやる意義はねえよなあ」などと,うそぶいていた。けど,実際にやってみたら,消防署へ体験に行った生徒が集合時間にほんの少し遅れただけで,署員から「そんな気持ちでは消火活動はできるか!」と説教をうけたりして,それはそれで,地域に放すのはいいことだと思った。

 そうこういっているうちに今じゃあついに「派遣切り」のご時世だ。
 そもそも派遣社員というのは,正社員になれなくて仕方なく派遣で糊口をしのいでいるのだという主張もあり,そういう労働者も多いだろうことは想像に難くないのだが,ともかく「労働の意義」の3つのうち「収入を得る」ことが大きなウェイトとなっていることはいえるであろう。「派遣」が「自己実現」としての労働というのは無理のある主張と思われるし,ましてや「社会貢献」の意義は正社員より小さいだろうと考える。
 ただ,今回の「派遣切り」問題は,労働者側の自己責任とはとても言えない。
乱暴な議論を承知で言うなら,「労働の意義」を「収入を得る」だけでいいと労働者ならず雇用主までもが認識した結果が,今のような冷酷な惨状となっているのではあるまいか。
 雇用側が,派遣をあっさりと切るのは法的には問題はないのであろうが,倫理的には大いに問題であろう。ああやって平気で人をクビにする風景を見せられて,会社はなんのためにあるのかと思った人も多かったろう。
 そういうなかで,現在,派遣切りで職を失った者への救済は労働運動的発想でしか議論が生まれていないが,そもそも倫理的に考えて会社の方に非があるという議論も多いになされるべきであろうと思う。
 すなわち,雇用主も「労働の意義」として「社会貢献」の意識を持つことが,今回の雇用問題の議論には必要なことだと思う。

大阪市立高校体罰事件の余波あれこれ

2013-01-27 17:29:14 | 教育時評
 余波、その1。
 旧聞になるが、尾木ママこと尾木直樹氏が、橋下市長の打ち出した桜宮高校体育科の募集停止を支持したということが話題になった。多くの人は、あの「子ども第一主義」の尾木ママが、橋下強権主義に汲みしたことを意外に思ったようだ。
 これについては、私も意外であった。
 これまでの尾木ママであれば、「入試できなくなった受験生が可哀そう。橋下氏の大人の都合によって、子どもの人生を変えるのは許されない」程度のコメントを言ったろう。けれど、今回は、「橋下市長に賛成します」と明確に言ったわけではないけど、募集は停止すべきと言ったことで、結果、橋下氏の政策に賛成するのと同じになってしまった。
 これを、尾木ママの変節とみることもできよう。
 けれど、私は、尾木ママが変節をしたというよりも、尾木ママはこれまでよりも自身の言動が格段に世論に影響をもたらすことを自覚したゆえに、発言がより慎重になってきたのだと考える。自分の思想信条に基づいてオカシナことを言うのではなく、世の中のことをよく考えて、発言するようになったのだ。なので、今回については、体質としてこれまで左に大きく振れていた尾木ママが、自分の言動がわが国の世論に影響を与えていることを自覚し、発言がニュートラルな地点にやってきた、とみている。つまり、言っていることがマトモになったのである。
 そんな風に考えると、尾木ママのテレビでの賞味期限も、そろそろ終わりかもしれないなあ、とも思ったりした。
 以上、尾木直樹氏が読めば100%否定するであろう、私の戯言でした。

 余波その2。
 これも旧聞であるが、部活動での体罰問題について、元プロ野球投手の桑田真澄氏が体罰反対派としてテレビなどでコメントを求められ、そのいくつかが話題になっていた。
 そのなかの最初期のコメントとして、アマチュアは勝利至上主義よりも、人材育成主義であるべきという主張があった。この主張は明快であったし、多くの賛同を得たようだ。
 しかしながら、この主張は明快ではあるのだけど、残念ながら空論に過ぎないと、私は思った。
 学校現場の活動が人材育成主義であるべきというのは、至極当然のことである。それは、部活動だって同様であり、指導する教師もそんなことは自明である。教師は、生徒の良き成長のために部活動指導をしている。勝つためだけに指導をしている、という教師はいるわけがない。今回、事件当事者であるバスケット顧問ですら、勝利至上主義とは言わないだろう。少なくとも、人材を育成するために、体罰を加えていたに違いがない。
 しかし、部活動には大会があり、そこには勝ち負けがある。そうなると、やはり勝つための指導がなされるというのも、仕方がないのだ。生徒や保護者だって、勝利至上主義とはいわないが、勝負に勝てる強い指導者を求めるのは当然だろう。そういう部活動の場に、指導者の体罰を許す土壌ができてしまうことは、否めないことなのだろうと思う。
 私は、普通中学校教師だったころ、長らく吹奏楽部顧問をしていたが、この世界には吹奏楽コンクールという全国大会につながる大会が開催される。吹奏楽部に所属している以上、このコンクールの勝ち抜けを目指して、練習をする。近年では、テレビでも放映されていたから、関係者以外でも結構なじみになったようだけど、コンクール時期というのは、全国の吹奏楽部はいわばコンクール至上主義となる。
 こうしたコンクール至上主義を、あれは音楽ではない、と否定するプロの演奏家は何人もいる。口には出さないけど、苦笑している演奏家も多くいることだろう。否定する理由はそれぞれあって、私は、それぞれもっともだと思うし、私に限らず、多くの指導者もそう思っているだろう。また、自分たちの指導していることは実は音楽から相当離れているよなあと、自嘲している指導者も多いと思う。しかし、そんな自嘲する指導者が、コンクール至上主義を否定して、コンクールに出場するのをやめるか、といえば、そんなことはないだろう。つまり、コンクール至上主義は、今後もなくなることはないだろう。その理由は、明快で、毎年コンクールがあるからである。
 もし、コンクールがなくなるのなら、こうした至上主義は消えるし、プロの演奏家たちの言う本当の音楽が部活動で指導されるかもしれない。しかし、しばらくは、わが国からコンクールがなくなることはないだろう。
 それと同様に、運動部から大会がなくなることはありえないし、大会がある以上、勝利至上主義でいくしかないのである。
 今回の体罰事件を教訓とするなら、勝利至上主義でも何でもいいから、きちんとコーチングの手法を学んだ指導者を育成することだ、と主張しよう。すなわち、指導者の人材育成である。

 余波その3。
 今回の事件に関連して、学校教育としての部活動を見直そうという議論も高まってきた。
 私は、そうした動きについて、改革するのは良いとは思うが、肝心の教師からは改革の機運が高まらないだろうと予想しよう。
 部活動は教師の負担が実に大きい。教師の時間外勤務に頼っているというのが現状である。その時間外勤務にしても、金銭的な手当ては無きに等しいから、結果、教師の心意気に拠っているのが実情なのだ。こうした状況が、体罰のような非教育的活動のまかりとおった遠因であることは事実だ。だから、今回の事件を契機に、これまでの教師の心意気によっていた部活動の在り方を改革していこうという議論がなされるのも、自然な流れであろう。
 では、改革の議論としてどういうものがあるかというと、大きくは2つだ。1つは学校教育としての部活動を縮小するという考え方。グラウンドや用具は学校にあるものを使っていいけど、指導者や運営は地域でやって、という考え。すなわち、部活動を学校教育から社会教育に移譲するということだ。
 もう1つは、外部指導者を積極的に登用するという考え方。教師の心意気ではなく、地域住民の心意気に期待しようという考えだ。
 これらは、どちらも教師の負担を軽減する発想にもとづく。この2つが現在、部活動の見直しで議論されている潮流である。
 けれど、このどちらも、教師はあまり乗らないだろうと私は思う。その理由は単純で、教師は部活動が好きなのだ。好きな理由は、次回以降ここでおしゃべりしようと思うけど、好きだから、無償だろうが、時間外勤務だろうが、指導してしまうのである。そして、そういう教師の心意気をいいことに、これまで部活動については、議論としてあまり触れないようにしていたというのが現状である。
 だから、私の今後の予想としては、今回の体罰事件をめぐって、部活動の在り方について議論が深められるかもしれないが、そうしたところで結局、何も変わらないだろう。これが私の予想その2だ。
 ただし、中学校の部活動に限っていえば、今後のわが国は、中長期的にみて少子化になっていくから、学校が統廃合されるとともに、部活動も統廃合されていくだろうと思う。そして、学校単位での運営が難しくなって、広域の社会教育に移譲されていくことになるだろうと思う。つまり、放っておいても、いずれ部活動は学校から消えるだろうというのが私の予想その3だ。

部活動無期限停止のことなど~体罰自殺事件~

2013-01-19 17:25:42 | 教育時評
 大阪市立高校体罰自殺事件の続きである。

 橋下大阪市長が、この高校の入試制度や教師の人事権に介入し、改善がなければ予算を執行しないという強行姿勢を打ち出している。
 こうした橋下市長の権力発動について、橋本市長のやっていることは、教師の暴力による権力行使と構造としては同じであり、結果として今回の体罰教師と同じことをやっているという論調がある。それはその通りである。やっていることは、暴力が介在していないだけで、同じ構造だ。
 私は、橋下市長の今回の権力発動に積極的に賛成はしないけど、否定的でもない。それは、今回の体罰自殺事件のようなエキセントリックな事件に対しては、エキセントリックな対応こそがふさわしいという論理にもとづく。橋本市長のような奇矯な政治家には、今回のような事件は、実に相応しいといえよう。
 それと、もうひとつ。これは、現場にいる者としてきちんと主張したいのであるが、今回は教育現場で尊い命が失われているのだ。これは、何にもまして重い事実だ。だから、当該高校の部活動の無期限停止は当然として、私は廃部もやむなしとまで思っている。なぜなら、あそこで行われていたのは教育活動ではなかったのだから。そういう活動をしていた組織は一度解体して、教育現場から排除すべきであると考えるのだ。これを突き詰めていくと、廃部にとどまらず、高校そのものを廃校にするという意見にも続くだろう。私は、廃校にするまではどうかなあとは思うけど、こうした意見は橋下市長のいう体育科の募集停止という措置にも通じていこう。であるから、私は、橋下市長の強行姿勢に積極的ではないけど、一応はうなずけるのだ。
 そういうわけで、今回、橋下市長のとっている権力介入について、教育関係者が批判的な論調を示していることについて、私は、おやっと思っている。

 今回の橋下市長の権力介入について、「入学を希望していた受験生がかわいそう」「通っている生徒に罪はない」という意見がある。それは、その通りであろう。受験生や在校生には罪はない。だから、生徒が不利益を被るのは、おかしいことだし、可哀そうなことであろう。それは、その通りである。けれど、そういうときこそ、教育者を含めた大人は、きちんと生徒に次のように諭すべきなのである。
 世の中に不条理というものは、つきものなのだ。今回、せっかく受験しようとしていた体育科が、あたかも大人の都合で募集停止になるというのは、不条理には違いない。けど、世の中というのは、そんな条理にあわないことが溢れているのだ。だから、今回は、そういうものの一つなんだよと、受験生には説明すればよい。あるいは、お前が希望していた高校は、あれは教育機関じゃねえ、入学前にわかって良かったと思え、バカ、と身も蓋もなく一喝して終わらしてもいい。
 バスケット部ほかすべての部活が無期限停止になってしまった、ということについてはどうか。部活動が高校生活の糧であった生徒も多いことだろう。まさしく、命懸けで部活に取り組んでいた生徒もいたことについては、現場の人間として理解している。そうした、生徒の生きる糧を奪っていることについて、どう説明するか。
 高校生活の部活動だけがすべてじゃあないのだと、大人は諭すべきだろう。バスケットやバレーが本当に好きなら、高校卒業した先でも続ければいいだけの話だ。この先も、大好きなバスケやバレーに命を懸けて熱中できる時間も場所もちゃんとあるから、安心しろ。それに、もし、生徒に才能や資質があるのであれば、高校卒業したって十分に開花できる。あわてることはない。
 それに、高校生活が部活動一色になってしまうのは、生徒の成長にはよくない。熱中するのはよいが、それが生活のすべてになっては弊害がでる。もっと、部活を相対的に考えるべきである。部活動だけが高校生活のすべてというのは、あまりに淋しいと考えよ。その分、勉強しろ。勉強しないのであれば、バイトしろ。あるいは、人生の愉しみの一つがなくなっただけと思え。部活がなくなった分、他の愉しみをみつければ、いいでないか。大人は、そうして生徒に諭すべきだ。
 私は、社会経験の豊富な大人が、生徒と一緒になって部活ができないのは可哀そうと言っているのをみるにつけ、どんどん視野狭窄をおこしているように思える。そうした部活動のとらえ方自体が、今回のいたましい事件につながっていると、どうして考えないのだろう。
 たかだか部活動ではないか。
 という、相対的な視点を教師も生徒も持つことができたのであれば、今回のような体罰自殺事件もおこらなかったのになあと、つくづく思う。

お気楽予想2013年 日本の教育はこうなる

2013-01-04 16:56:00 | 教育時評
 2013年のはじまりである。
 今年は、どのような年になるだろうか。

 教育行政については、安倍政権になって、大きく変わっていくことだろう。なんといっても、6年前の第1次内閣で教育基本法を改正させてしまうくらい教育改革には熱心なのだから、今回の第2次内閣も教育については短期的長期的ふくめて改革をしていくことになるだろう。
 教育現場はどうだろう。現場は、さほど大きく変わることはないのではないか、と思っている。
 そんなことも含みつつ、今年の教育はどうなるか、気楽に予想してみました。
 題して「お気楽予想2013年日本の教育はこうなる?」。

 その1。いじめ防止法が成立して、学校への警察権力の介入が認められるようになる。
  
 これが、今年前半の教育行政の大きな話題になるのではないか。賛否ともども大いに議論したらいいと思う。法律については、今年中に成立するのではないか。そして、成立をすれば、学校現場に警察権力の介入を認めることになるだろう。学校現場への影響は、来年以降になると思うが、この法律が施行されるまでに、すべての教師は大小の研修を受けることになるだろう。
 また、法律の内容次第といえるが、この法律が成立したからといって、残念ながらいじめの件数が減少することはないだろう、と大胆に予想しておこう。

 その2。教員志望者の減少傾向がさらに進む。
 
 とくに大阪は深刻になるだろう。全国的に、大卒だけではなく、社会人からも志望者を大いに募ることをするだろう。ちなみに、民主党政権下ですすめられていた、教員養成6年制構想は頓挫し、今後は現職教員の研修は増加し、服務規律は一層厳格になるだろう。研修が増えることにより、教員の多忙化に拍車がかかるだろうが、残念ながら問題化するまでにはならないだろう。
 また、第1次安倍政権下では、教育再生会議というのを組織して、そこで指導力不足教師についてクビにさせてしまおう、という議論がなされたが、今回は同様な会議が組織されたとしても、教員の淘汰議論には行き着かないだろう。それほど、教師のなり手不足が深刻化するのではないか。

 その3。教員の休職者は高止まり傾向のまま。

 これは、毎年12月の末に発表がされるのだけど、休職者が5000人を切ることはないだろう。そして、新卒者の退職者については微増することだろう。つまり、教師をとりまくキツい現状は残念ながら変化しないということである。

 その4。学力の向上が見られた一方で、学力の格差が深刻になる。

 ゆとりから学力向上にシフトしているが、今年は、はやくも揺り戻しがくることだろう。
 まず、今年はPISA国際学力調査が発表になる(と思う)。そのときに、日本は前回よりも学力は向上しているだろう。もしかしたら、V字回復くらいのはっきりとした学力の向上がみられるかもしれない、と大胆に予想しておこう。
 国内でやっている全国学力調査についても、ゆとりから決別している分、学力の向上は数値となって表れるだろう。
 しかしながら、今年は、学力向上がみられた代わりに、低所得者層の低学力問題が問題化されるのではないか。ここに、所得格差や高校の無償問題も絡んできて、学力格差議論が活発になるのではないかと予想しよう。

 その5。愛国心教育が進む。
 
 安倍政権になったということで予想。手順としては、憲法改正論議を含む国内世論の動向をみながら、近隣諸国に対する安全保障という議論のなかで、国を愛する心の醸成を打ち出すだろう。具体的には、領土教育の充実や、道徳教育の強化、この延長線上に他国に負けない強い国民の育成という流れで学力向上政策が出てくるだろう。
 また、こうした政策がうまく時流にのれば、来年以降になるが学習指導要領の改正をして愛国心を強化する教育内容にも手を出していくだろう。そして、その先は、私の希望だけど、教科書検定制度を含む、抜本的な教育課程の制度改革を目指してほしいと思っている。

 さて、どれだけ当たるでしょうか。
 というわけで、今年もよろしくお願いします。
 このBlogもなんと7年目。ずいぶんとまあ、続いたものです。
 今年も、毎週更新を目標に続けていきたいと思います。どうぞ、ご愛顧のほどを。

教師は「排除の論理」を主張してはいけない

2012-12-09 17:24:27 | 教育時評
 前回からの続きである。

 ここ数回にわたる私のお喋りは、端的にいえば現場に一定数存在するダメ教員はどうしたらいいのか、という話題であった。
 そして、この話題についての私の主張は、「現場は、そういう教員がいることを前提にして、組織として指導できる体制を組め」というものであった。
 ダメ教員といっても、研修や経験によってマシな教員になる場合もあろう。そういう場合であれば、問題は解決するので、それはそれでよいだろう。私が問題にしているのは、研修や経験によってマシにならない教員はどうするのか。そして、そういう教員が一定数存在している現場を今後どうするのか、ということである。これが問題なのである。

 さて、こうしたダメ教員について、もっとも簡単な解決方法は何か。それは、クビにする、という方法だ。クビというのが下品でれば「排除の論理」なんていってもいいだろう。
 この「排除の論理」。現場でも、実は、ごく普通にみんな思っていることだ。
 ダメ教員が仕事でミスをして、周りの足を引っ張る。あるいは、ダメ教員が仕事をしないおかげで、周りの仕事が増える。そうなると、周りの教員は、「あいつのせいで、とんだとばっちりを食っちまった」とか、「おれたちが忙しいのは、あいつのせいなんだよな」とか思い、いつしか「あいつ、使えないなあ」とか「辞めちまえよな」とか思ったりもする。
 こうした心情というのは、理解できる。というか、教師の世界にかかわらず、組織で動いている職場であれば、どこの世界にもある心情であろう。日常の職場風景といっていいだろうと思う。
 そして、ある時は愚痴や悪口となって吐きだされることもあれば、ある時は、職場の空気が澱んでいくことにもなったり、職場内でのイジメやイビリに発展したりということにもなるだろう。こうしたダメ人材に対する普通一般が持つ心情というのは、組織で仕事をする職業人の性というようなものだから、今後もなくならないだろうし、すみよい職場環境にするためにあれこれと考えることはいいけれど、心情として否定することでもないだろう。
 しかし、この「排除の論理」を、心情としてだけではなく、あるいは、愚痴や悪口として周りにしゃべっているだけではなく、本当に論理的に主張する教員がいるのだ。こういう教員は、自分のことを棚にあげて、他人への愚痴や悪口をぺちゃくちゃしゃべるといった類の教員とは違う。自分の仕事はしっかりできるし、周りにも気配りができる。つまり、デキる教員だ。そういうデキる教員が、論理的に、ダメ教員の排除を主張する。
 ダメな教員というのは、職場にとっては有害でしかないのだから、クビにしろということを、大真面目にかつ論理的に主張するのである。もちろん論理的なので、筋は通っているし、情緒的でもない。誰もが、その通りと納得してしまう。
 こうした、普通であれば愚痴話で終わらせるべき内容を、わざわざ論理だてて主張する教師の心情を私なりに察するとすれば、こうだ。こうした教師は、デキる教師ゆえに、教師の仕事に強い誇りを持っているのだろう。そして、高いプロ意識があるのだろう。であるから、教師の仕事を貶めるようなダメ教員に対して、許されないという思いがたち、結果、寛容になれないのだろう。
 しかしである。そうしたデキる教師が主張する「排除の論理」は、結局のところ、教師の仕事を貶めることになっているのだ。この逆説的ともいえる論理を理解したうえで、そうした主張をしているのか。その点が私には疑問なのである。

 私の言いたいことは、こういうことだ。
 すなわち、教師という仕事にもっとプロ意識を持て、プロになれないようなダメ教員は辞めてしまえ、というような主張をしたとする。これは、一見、高邁な主張のようにみえる。しかし、よく考えてほしい。プロ意識の低いダメ教員をクビにすると、その分、どこかから代わりの人材を補充する、ということになる。この代わりの人材というのは、当然ながらプロ教師でもなんでもなく、ただのオトナである。つまり、この高邁な主張の背後には、教師の代わりの人材なんていうのは、他にどこにでもいるんだよ、という主張が潜んでいるのだ。所詮、教師なんてのは、代わりのいくらでもきく程度の仕事なんだよ、と言っているのと同じなのである。
 つまり、ダメな教員はクビにしろ、という主張は、プロ意識に拠った高邁な主張でも何でもなく、教師なんてのは誰でもなれる程度の仕事である、といっているのと同じなわけで、結果、私たち教師の存在を貶めていることになるのだ。
 だから、私は「排除の論理」にくみしない。私のようなものでも、教師の仕事に誇りを持っているし、プロ意識もある。だからこそ、教師の「排除の論理」には賛同するわけにはいかないのである。
 繰り返すが、心情としては、理解できる。それは、組織で動いている以上、「ダメなやつは辞めちまえばいいのに」とネガティブな思いを抱くこともあるだろう。そうした心情については、否定するものではない。しかし、論理的な主張はしてはいけないのだ。それは、自分自身を貶めることになるからだ。この論理に、デキる教師ははやく気づいてほしいというのが今回の私の主張である。

 なお、現場以外の人間のいう「排除の論理」についても、同様である。
 教師でない外野席にいる人間からも、時折「ダメ教員はクビにしろ」という意見を言うのがいる。しかし、教師は、そういう意見にやすやすと乗ってはいけない。自分の職場を見渡して、つい、そうだそうだ、とうっかり賛同してしまいそうになるが、それは誤りである。
 それは、組合的互助会的な同胞意識のよるものではない、というのはこれまで言った通り。そうではなく、教師という職業が他の職業から貶められているということに他ならないからだ。であるから、教師以外の人間のいう「ダメ教員はクビにしろ」という意見には、教師は全力で反論をするべきなのである。
 とはいうものの、その前に、わたしたちに「教師は、すぐに代わりがきく程度の仕事じゃない」と言える程の、プロ意識があることの方が先なのですがね…。

「指導力不足教員」は「研修」では解消しない

2012-12-02 19:08:51 | 教育時評
 話のテーマは、前回からの続きである。

 堀裕嗣氏の新著『スペシャリスト直伝 教師力アップ成功の極意』(明治図書、2012年)に、「指導力不足教員」問題について、重要な提案がある。「指導力不足教員」というのは、要するに、授業も学級経営もヘタくそな教員ということだ。昨今、社会問題となった「いじめ問題」についても、解決に導くことのできないような、しょうもない教員ということ。
 そうした「指導力不足教員」について、氏は、「指導力不足教員に必要なのは研修であって排除ではない」と提言し、次のように主張する。

「仮に、ここに『指導力不足教員』と認定された教師がいて、研修を受けさせることになったとします。その教師に職場復帰したいという意欲さえあれば、私はその教師の『指導力不足』状態を3ヶ月から半年程度で改善できる自信があります。集団を統率しながら一斉授業や学級経営をくずさない程度に行える技術など、決して難しいものではありません。身につけるのにそれほど時間がかかるものでもないのです。基本的に、私が『学級経営10の原理・100の原則』『生徒指導10の原理・100の原則』(ともに学事出版)の二著で書いた事柄について、ロールプレイで研修を繰り返せばまず間違いなく『指導力不足』状態は改善します」(88頁)

 この主張はすごい。氏の「自信」はどこから来るのか。おそらく、氏は、氏の職場にいたであろう「指導力不足教員」をそれこそ氏の「指導力」で改善させた経験が、一度ならず何度もあるのだろう。そうした経験から導き出された主張なのであろう。

 私は、氏の提言である「指導力不足教員に必要なのは研修であって排除ではない」について、「排除ではない」という部分には賛同する。すなわち、「指導力不足教員」を排除しても問題は解消しないのだ。
 少し考えればわかることだが、「指導力不足教員」と認定した教員をクビにした場合、クビにした分だけ、新しい教員を補充しなくてはいけない。つまり、質の低い教師を排除しても、その分だけ教師経験のない、教師としての質が未知数の新人教師を補充しなくてはならないのだ。冗談めかしていえば、「指導力不足教員」を排除すれば「指導力不足教員」が補充される、ということなのだ。
 また、現場に未経験者が増えるということは、それだけ現場に混乱をきたすということは目に見えていよう。それに、新人教員が増えるということは、一時的にせよ、教員全体の質が低下することは避けられないだろう。
 さらに言えば、今後の傾向として、教員志望者が減少していくというのは、各種統計から明らかにされている(ソースは各自探してください。このブログのどこかにもあります)。教師の門戸はどんどん広がっていくのである。そうなると、これまでだったら採用試験に落ちていたはずの新人も晴れて教師になるということである。つまり、放っておいても今後、教師の質は残念ながらトータルとして下がっていくのである。そういう現場で、ダメ教師は排除せよという主張は、現実的ではないといえるだろう。

 そういうわけで、「排除」については私も否定するけれど、では「研修」で改善というのは、どうか。
 これについて、私は懐疑的なのだ。
 果たして「指導力不足教員」は「研修」で改善されるのか。そんな研修プログラムがあるなら、私も受けてみたいものである。けれど、教師の仕事というのは、そんなプログラミングされたものをロールプレイして向上していくというようなスキルに収斂されるものではないことは、誰だってわかるだろう。
 もちろん、私は「研修」の意義を否定しない。教師の世界を見渡してみよ。いたるところ「研修」だらけではないか。初任者研修から始まって、年数を重ねるごとに研修があり、指導要領が変われば研修があり、各教科・生徒指導・学級経営、ありとあらゆる「研修」が教師のまわりにプログラミングされている。もし、「研修」に意義がなければ、教師のまわりに、これほどまで「研修」がセットされないだろう。だから「研修」の意義について一定程度は認められよう。しかし、そんな「研修」だらけの教師の世界にかかわらず、それでもなお、「指導力不足教員」は一定数存在しているのだ。これは何を意味するのかといえば、やはり「指導力不足教員」は「研修」での改善は難しいという証左といえまいか。
 私は、堀氏の「自信」が、どうにもわからない。
 本当に、氏の力で「指導力不足教員」を改善させたのか?氏が「指導力不足教員」と思っていた教員というのは単に新人同様の「経験不足教員」に過ぎず、自分の努力と経験で指導力不足状態から脱したのではないか。

 私が「研修」によって教員の指導力不足が解消することに懐疑的なのは、私がこれまで出会った「指導力不足教員」の「指導力」というのが、どうみてもスキルではないところの力が決定的に不足しており、そうした力というのは「研修」でどうにかなるというレベルではなく、人格とか人間性とか、そういうメンタルな部分に拠っていると確信的に感じているからである。
 こうした力は、「研修」でどうこうする範疇ではく、その教師の人格や人間性そのものなのだから、どうにもならないものだ、ととらえるしかないと思うのである。
 だから、堀氏の「排除」よりも「研修」という提案については懐疑的なのだ。
 今後は、この提案の具体的な方策が望まれる。

 なお、私の「指導力不足教員」問題に関する提案はこうである。
 それは、現場に一定数の「指導力不足教員」がいることを前提として学校運営にあたれ、ということだ。
 今後わが国の現場は、このまま何の対策をしないのであれば、先に言ったように、教師の質は低下する。
 そうなると、今後は、高い確率で学級崩壊をさせてしまうであろうにもかかわらず、担任を持たざるを得ない教員が存在するようになるということだ。あるいは、いじめを解決する指導力がない教員が一定数存在するようになるということだ。今後といわずとも、現在でも、すでにそうなっている現場は多いことだろう。
 そして、そうした「指導力不足教員」を「研修」させたところで、限界はあろうということ。であるなら、今後は、そうした「指導力不足教員」がいることを前提として、それでも学校現場が混乱しないような学校運営をしていけということだ。
 では、具体的には、どういう方策があるか。
 大枠としては、学級の解体だ。すなわち、30人の子どもを1人の教師が見るという現在の担任制をやめるという方策だ。この方策の根本にある発想は「指導力不足教員」の足りない指導力をまわりの教師がカバーすべきということ。
 具体策の一つは、習熟度でも選択別でも何でもいいから、子ども集団をよりフレキシブルにする。中学校の部活動も有効だ。とにかく、学級以外の子ども集団を学校内に意図的につくるということだ。もう一つは、複数担任制の導入だ。30人の集団を複数で指導するというやりかたである。チームティーチングの学級経営への導入だ。これらの方策について前者は主に中学校で、後者は小学校の低学年で実践されていよう。こうした方策をもっと積極的に導入することで「指導力不足教員」を目立たなくせよというのが、私の意見だ。

 ちなみに、こうした方策を進めることで教師の世界には、どのような問題が浮上するか。それは、実は教員の心の病による休職者の増加である、というのが私の予想なのだけど、これについては、ここまで読んだ皆さんは多分「??」だろうと思う。
 この点については、また、いつかの機会におしゃべりができたらと思う。

田中真紀子の文部行政

2012-10-13 16:59:29 | 教育時評
 田中真紀子が文部科学省の大臣になった。
 年内に解散がなかったとしても、来年の夏には総選挙があろうから、1年足らずの任期のなかで、一体何ができるのかとも思うが、一方で、短期政権とわかっているからこそ、何するかわからんという気もしている。
 田中真紀子がこれまで文部行政でやらかしたことといえば、15年ほど前に教員免許取得に対して、7日間のボランティア(介護等の体験という)を義務づけたことである。これは、予算の計上が必要とされなかったこともあったためと考えるが、すんなり法案が通ってしまって、当時の私は、そんなものが制度化されたことすら知らなかった。
 これが田中真紀子の采配と知ったのは、特別支援学校に勤務するようになってから。毎年、特別支援学校には、教員免許を取得するための学生が2日間やってきているのだ。ボランティアといっても義務化であるので、意識の低い学生が少なからずいる。受け入れるこちらも義務であるので、教育実習とは違ってお客さんの扱いである。もちろん、受け入れに際しての業務はある。大学側も業務はある。困った学生に対して、大学側と現場側の双方に軋轢も生じる。軋轢が生じても、大学と特別支援学校には利害関係は何ら生まれないので、軋轢だけが残る。
 そういうわけで、現場にいるものとして、この介護等体験制度は、あまり意義のある制度には思えない。廃止しても、誰も困らない。
 私としては、田中真紀子の文部行政というのは、こうした印象である。やはり、政治家が何かやろうと思ったら、何かしらの予算をつけんと、たいしたことはできないし、現場がとばっちりを食うということなのだろう。
 今回、田中真紀子は文部大臣になったとしても、末期といっても民主党政権には違いないので、彼女の保守的な教育思想が実現できる余地はないだろうと思う。けれど、短い任期とわかっているからこそ、何をしでかすかわからないということに、現場にいるものとしては一抹の不安を覚えるのである。

カツカレーと教育

2012-10-06 20:44:54 | 教育時評
 旧聞になるが、自民党総裁選のとき安倍晋三氏が3500円のカツカレーを食べて、その値段が庶民感覚とかけはなれていると、ちょっとした話題になった。
 たしかに3500円は、庶民の食うカツカレーの値段じゃあないだろう。だから、庶民感覚とかけ離れているという指摘も正しかろう。けれど、そのことで安倍晋三をバッシングの対象にしたがる庶民というのは、いったい自分たちがどれだけ「さもしい」のか、わかっているのだろうか。
 おそらくは、そんな「さもしさ」も気にしないまま、庶民は3500円のカツカレーを食う安倍晋三にネガティブな感情を持ったのだろう。
 私は、こうした庶民の為政者に対する「さもしさ」感情の醸成というのは、ここ20年くらいのものではないかと思っている。
 20年前のバブル期、あの狂乱の時期の為政者が3500円でも1万円でもなんでもいいが、そんなカツカレーを食ったとしてもバッシングはおろか話題にもならんかったろう。私はバブル期がわが国にとって良い時期だったというつもりはさらさらないが、少なくとも、今のような「さもしい」感覚からほど遠かったであろうことについてならば、国民感情としては今よりマシだったと思う。
 3500円のカツカレーを食う為政者に対して、不景気で低収入の庶民の生活とかけ離れている、とバッシングするよりも、そういう俺たちにも3500円のカツカレーが食えるように景気をよくしろ、という主張の方が、よっぽど健全だと思う。もし、そんな成長神話なんてとっくに信じられないというくらいに、わが国は成熟したというのであれば、そんな成熟なんて、国民感情という感情のレベルでいえば、健全ではなかろうと反論しよう。
 さて、教育現場である。
 教師が、為政者が3500円のカツカレーを食うことについて、学級の子ども達に、どう伝えよう。
「私たちが普段食べることのできない3500円のカツカレーを政治家は普通に食べるんだから、日本という国はおかしいよね」とネガティブに伝えるか。
 それとも、「3500円のカツカレーって、すげえよな。普通の生活じゃあ食べられないよな。みんなも、そんなカツカレーが食えるような大人になるために、がんばれよ」と伝えるか。
 こういうのって、実は、教師の教育観の根幹にかかわることでもあって、教師の皆さんは自問するのも結構面白いと思うよ。

安倍晋三氏が自民党の総裁になった

2012-09-30 21:18:16 | 教育時評
 安倍晋三氏が自民党の総裁になった。
 元首相の再登板である。
 安倍氏が前回首相を辞任した日について、私はよく覚えている。普通中学校の勤務の頃、ちょうど文化祭の準備をしていて、生徒らとパソコン室にいた。そこでネット開いたらYahoo!ニュースに一報が流れたのだった。辞めるにはあまりのタイミングの悪さに、驚いた記憶がある。
 あれから5年がたっての再登板である。ガチガチ保守の人々は再登板に大喜びしているが、私としては、保守議員というのは氏の他に人材はいないのだろうかと思ってしまう。どうにも、氏に頼るしかないのか。

 当時の安倍内閣を振り返ると、教育分野の政策には積極的だった。なかでも最大の功績は教育基本法の改正である。
 この改正があったから、民主党政権になっても、わが国の教育政策の理念は揺るがなかった。こういう理念法というのは、政権が変わっても一定の効力を持つことが大切なことであり、それは政権交代でよくわかったと思う。
 ただ、一方で、教育再生会議といった現場教師にとってはハタ迷惑でムダな会議も設立していたから、教育政策については、すべてが良かったわけでもなかった。

 現在、教育分野の政策に積極的なのは、橋本徹日本維新の会である。今後、安倍氏の教育施策と橋下氏の日本維新の会のそれを比べるのは、教育の議論としては意義のあることだと思う。
 どちらも保守派だけに似通っているといえようが、品位の差は歴然としていよう。例えば、両氏共に卒業式に国旗掲揚、国歌斉唱を義務づけることに異論はなかろうが、安倍氏が校長に口元チェックを要請するとは思えない。

 さて、安倍新総裁が、来るべき選挙で勝って、再び首相になったら…。国政の最優先課題とはならないものの、それなりに教育改革を進めていくことだろう。まずは、時宜として国民の賛同を得られやすい愛国心教育に向かい、次いで強い国家をつくるため一層の学力向上を目指すだろう。当然、学習指導要領の改正をして教育内容にも手を出していくだろう。もしかしたら、教科書検定制度を含め、抜本的な制度改革を目指すかもしれない。もちろん、教育改革を進める以上は、並行して氏の悲願である憲法改正にも向かうだろう。
 と、予想するものの、現在の原発再稼働方針とTPP参加を改めない限り、選挙での自民党の勝利は遠く、そうなると、安倍氏が首相になることは難しいだろう。