憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

道徳の教科化について

2013-02-23 19:41:59 | 教育時評
 政府の教育再生実行会議で、道徳を教科にしようとする議論がなされている。
 といっても、これは教育関係者でなければ、いまひとつピンとこない話題かもしれない。

 今でも、学校には小学校1年生からちゃんと「道徳の時間」はある。これは、皆さんご存知であろう。ただ、戦後、「道徳の時間」(いわゆる「特設道徳」という)については、昭和33年に成立するまでの過程で紆余曲折があった。また、成立以後も現場では多くの教員が反対の姿勢を示した。だから、時間割に道徳があっても、授業がなされなかったり、せいぜいテレビ視聴でお茶を濁していたりとかという感じだった。けれど、そんな現場での「特設道徳」の混乱を知っている世代の教員もいなくなっているから、今では、どの学校でも担任教師が授業準備をして、そこそこの道徳授業をやっていることだろう。
 教科じゃないので、教科書はないけど、文部科学省がすべての子どもに無償配布している「心のノート」という冊子があって、道徳の時間には活用することになっている。また、多くの学校では教材会社や教育委員会の作成している副読本を用意して、こちらも道徳の時間に活用していることだろう。
 これが、現行の「道徳の時間」。これを、社会科とか国語科という「道徳科」にしようというのが、今回の道徳の教科化の議論。
 じゃあ、教科にすることによって、何が変わるのか。
 現場レベルでいえば、大きいのは教科書と評価評定ということになろう。
 教科にする以上は、検定を受けた教科書によって授業を進めることになるだろう。現在すでに「心のノート」を授業で活用しているという実績があるから、教科化すれば新たに教科書の検定をして、そいつで授業せよという方針をとるだろう。ただ、教科書で教えるといっても、「国語」や「数学」といった教科書のイメージではなく、「音楽」とか「保健体育」といった実技教科のような扱いになると思われる。ただし、「道徳科」を実技教科のような活動中心(ボランティアとか、アクティビティとか、ディベートとか)にするのか、座学でこんこんと価値注入をはかるのかは、今後の議論によるだろう。
 それから、評価評定をどうするのかというところで、大きな議論となるだろう。特に、中学校現場では、道徳の評価については大反対がなされるだろう。そのときに、教科推進側がどこまで強く評価評定を推していくかによって、評価評定化は決まるだろう。ただし、もし「道徳科」で評価評定することになったとしても、具体案が現場に下りてくるまでに、さまざまなセクションで骨抜きにしてしまうことだろう。
 つまりは、現場レベルでは、教科化によって道徳の教科書は配られるものの、実際の授業は現行の「道徳の時間」と大きく違わないだろう、というのが私の予想だ。
 今回の「道徳」教科化の議論には、現行の「道徳の時間」が年間35時間なり設定されているものの、どうも現場では35時間きちんと授業していなくて、それはいかん、という理由もあげられていよう。
 しかし、たとえ教科になって35時間きちんと授業しようにも、他の教科や領域を減らすには現実には無理なので現場では手練手管を使い、これまでのような扱いで済まそうという思惑がはたらくだろうと思われる。

 そのような制度上の議論はともかくとして、道徳の教科化の議論で私が期待するのは徳目の中身である。ありていにいえば、「道徳科」で何を教えるのか、ということだ。
 道徳教育推進派は、現在の「いじめ」問題に乗じて、命の大切さをきちんと教えるべきだという主張もあったりするが、これはバカな話だ。もし、教育研究者の肩書きでそんなことを言っているのがいれば、そいつは、研究者ではなくただの政治屋だ。バカにしていい。
 「いじめ」問題の解決は、子どもへの価値注入ではなく、教師の学級経営力の問題である。かっこよくいえば、教師が教室の中をいかにマネジメントするか、という問題なのだ。あるいは、教師集団の組織性の問題としてとらえてもいい。「いじめ」を解決できない力のない教師をどう学校全体でフォローするか、という教師組織の問題だ。こうしたことは、教育関係者なら常識の議論である。
 もし、道徳教育を推進することで「いじめ」が解決できるなら、現場はこれほど楽なものはない。だいたい「いじめ」問題が、そんな簡単なことではないことなんて、問題の深刻さから考えればわかるだろう。
 また、家庭の教育力が弱まってきているから、それを学校教育で補おうという発想で、道徳の推進をはかろうとする主張もあるが、これについても教師は反対をするべきだ。
 わが国のような、これほどまでに教育に関心の高い国で、果たして本当に家庭の教育力が弱まってきているのか、という根本の議論ももっとなされるべきであると思うが、それは措くとして、そもそも家庭教育と学校教育は別ものであると、きちんと教師は発言するべきなのだ。「しつけ」と「教育」の違いを教育のプロとして発言をすることが必要だ。もちろん、そんなもの線引きができないことなんてわかっている。けれど、家庭で身に付けるべきものを、何でもかんでも学校で受け入れているから、現場は混乱しているのである。
 昨今の「体罰」問題に絡めていえば、「体罰」をするなんていうのは教育のプロに徹していないから、他人であるはずの児童生徒に暴力をふるうのである。教師は、親ではなく、近所のおじさんおばさんでもない。職業人としての教育のプロなのである。教師の「体罰」というのは、職業人としての逸脱行為なのだ。何が「愛のムチ」だ。学校は躾をする場ではない。教育者に、そんなものはいらん。
 道徳に話を戻すと、そうした教育のプロの立場で、学校教育で子どもに注入すべき価値は何か、ということを議論すべきなのだ。
 そう考えると、戦前の「修身」の徳目は、現在の学校教育にそぐわないものが多いだろう。道徳推進派の多くは、「修身」を復活させて忠節とか孝順なんていう徳目を「道徳科」に載せるのが悲願なのかもしれないが、そういう徳目を現在の学校教育で受け入れるとデメリットの方が多くなると言っておこう。
 私は、道徳教育で教える徳目には、まさに学校でなければ培うことができないであろう徳目を、優先的に取り上げていくべきと考える。そして、その学校でなければ培うことのできない価値とは何か、について議論することが有用であると思うのだ。
 たとえば、道徳教育の議論で常に俎上にあがる「国を愛する心」なんていうのは、その筆頭である。これは、学校教育によってしか培うことはできない。「家族愛」とか「郷土愛」というのは、そこで生活をしたり住んでいたりすれば、おのずと培われるものである。家族を愛することのできない子ども、というのは、家庭教育に何らかの問題があるのであり、ごくごく普通の家庭であれば「家族愛」というのは育まれる。しかし、「愛国心」については、普通に生活していて育まれる、ということにはならない。 これは、教育による知識とともに価値の注入が必要になる。それによってはじめて「国を愛する心」が育まれるのだ。
 道徳教育の議論については、たとえば、こうした議論がもっともっとなされるべきなのだ。
 「命を大切に」とか「みんな仲良く」なんていう価値議論は、そりゃ価値としては大切だけど、そんなものは学校教育としては当たり前の話で、議論としてはあまりに低俗である、と言っておこう。