憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

名前で呼ぶか,名字で呼ぶか

2007-07-27 22:41:07 | 生徒指導論
 教師が生徒を呼ぶとき,どんな風に呼ぶか。
 「山田」「鈴木」と呼び捨てか。それとも,「横山君」「大西さん」と「くん」「さん」とつけるか。あるいは,「健一」「まき」と名前を呼ぶか。いやいや「やっち」「ななちゃん」と愛称で言うか。
 いま4つの例を出したが,それぞれ教師によって呼び方がある。
 大まかな傾向で言えば,「鈴木」「山田」の<名字呼び捨て派>は,年配の男性教師に多いだろう。中堅以上の女性教員は,<「くん」「さん」派>が多い。
 私の場合。新卒のころは,基本的に<名字呼び捨て派>だった。しかし,面と向かって話すときや,何か改まって生徒を呼ぶときは,「くん」「さん」をつけていたりした。新卒4年目あたりから,名字の呼び捨てはどうもいかんなと思って,「なおき」「あかね」と名前を呼ぶようにした。周りの私と同年代の教師がみんな<名前で呼ぶ派>だったから,それにならったわけだ。けど,この名前で生徒を呼ぶのは私にはどうもあわなかった。ので,1年ほどでやめた。そして,現在にいたるまで,私は,すべての生徒に「大西君」「横山さん」の<「くん」「さん」派>である。
 ただし,教育相談などで話をするときや,お互いの関係性もじゅうぶんにできていると確信するときには,「啓太くん」「理恵さん」と名前で呼んだりする。けど,「健一」「まき」という名前の呼び捨ては,私にはありえない。
 そういうわけで,私は<「くん」「さん」派>なのだが,これは非常に楽である。誰でも彼でも「くん」「さん」だ。ほめるときも,叱るときも「くん」「さん」だ。わけ隔てなく,いつでもどこでも「くん」「さん」だ。私としては,これがとても楽チンだなのだが,今の学校では,私のような<「くん」「さん」派>は少数派のようだ。
 どうして少数派なのだろうかしらと考える。考えるに,やはり,よそよそしい感じがするからなのかなと思う。 
 ウチの学校での多数派は,「優子」「あきら」の<名前で呼ぶ派>だ。これが主流をしめている。
 もちろん,私としては他の教師が生徒をどう呼ぼうとかまわないのだが,教師間で生徒の話題で喋るときは,ちょっとだけ面倒になる。「健一がねえ…」と話題をふられたときに,私は,「健一」ってだれかなあ,ああ「山田健一」だなと,名字に変換をするわけで,時間がかかる。これが,面倒なことだ。
 若い教師の場合,これに「やっちがね…」とか,「さなぴいは…」とか<愛称で呼ぶ>派が加わるから,私は,「やっちってだれ?」と聞き返さなくてはならなくなるのだった。
 そういうわけで,現在の私は,マイノリティの悲哀を味わっているのである。
 私は「くん」「さん」をつけて呼ぶのが,最も有効だと思っているのだが,他の先生はそうは思っていない。
 私にとって,<名前で呼ぶ派>,ましてや<愛称で呼ぶ派>なんてのは,生徒指導するにはとてもやりづらいと思う。だから,<「くん」「さん」派>のよそよそしさで,かまわないと思う。
 他方,名前で呼ぶ先生は,生徒の信頼関係をしっかり持って指導を進めたいという考えなのだろう。そういう親愛の情をこめて,名前や愛称で呼んでいるのだろう。
 さて,この話題で私は何がいいたいのかというと,結局のところ,生徒をどう呼んでもいいのだということだ。<「くん」「さん」派>であろうが,<名前で呼ぶ派>であろうが,別に良くも悪くもないということなのだ。全くありきたりの主張なのであるが,ただ言えるのは,生徒の呼び方ひとつとっても,そこには教師のキャラクターが関わっているということだ。
 例えば,ウチの保健室の養護の先生は50代の年配教員であるが,女子生徒を「ちゃん」づけで呼ぶ。もし,これが私のような30代の男性教員だったら,気持ちが悪いだろう。せいぜい,休み時間の談笑のネタとして,呼ぶこともありえなくはないというところだろう。そんなことを考えると,私が自分のキャラクターを立てるまでに,新卒より5年くらいかかったということだ。私のキャラクターでは,<名字呼び捨て派>や<名前で呼ぶ派>ではしっくりこなかったのだ。<「くん」「さん」派>で,キャラと合致したのだ。
 そして,私のような<「くん」「さん」派>が今の学校で少数派ということは,私のようなキャラクターの教師が今の学校では少ないということだ。多くは,生徒との信頼関係を醸成しながら,指導を進めるキャラクターのタイプが多いようだ。また,生徒を呼び捨てにするような,高圧的な教師は,ウチの学校にはいない。
 私の場合は,必要に応じて高圧的にする。そういう態度を出すときは,名前ですら生徒を呼ばず「キミの考えはおかしいよ」などと「キミ」呼ばわりして,突き放して指導をする。「あなた」「お前」よりも,冷たい感じがして,私のキャラクターにあっていると認識しているからだ。
 ちなみに…,生徒は私のことをどう呼ぶか。今は,100%「桑原先生」だ。30歳を超えたあたりから,それしか呼んでくれない。まったくサミしい限りである。20代の頃のように,「ゆうちゃん」とか「ゆうたろう先生」とか,もう一度,呼ばれないかなあ…。


通知票作成の時期である

2007-07-20 23:23:07 | フラグメンツ(学校の風景)
 1学期もそろそろ終わりだ。
 学校現場では,通知票の作成が終わったあたりだ。
 学期の終わりに子どもが手にする通知票。これは,学級担任が1枚1枚つくる。学習成績のハンコ押しをして,生活の記録にもハンコを押して,所見欄に文章記述をする。
 最近では,パソコン処理をして通知票を作成する学校も多くなってきているようだ。そうなると,ペタンペタンとハンコを押さずに,プリンターでさーっとプリントアウトして完了だ。所見欄も,担任の手書きではなく,ワープロで作成するようになってきている。ウチの娘は小学校2年生だが,娘の通知票はプリントアウトした単票を所見欄に貼りつけていた。また,直接通知票に所見をプリントアウトするという学校もあるらしい。
 これまで私が勤務してきた学校は,すべて昔ながらのハンコ押しと手書き。今年もそう。だから,学級担任は,成績欄にハンコを押したり,手書きで所見を書いたりという作業をやっていた。
 さて,この通知票作成で担任が頭を悩ますのは,なんといっても所見欄の文章記述である。学期ごと,すべての生徒に,それぞれ学期の様子を文章で記述する。学級40人もいれば,なかなかの仕事になる。書くことがないよー,という担任も嘆きも,どこの学校でもきかれるのではないか。
 私の場合,去年でいうと,1人あたり文章を考えるので3~15分くらい。学級は30人だったから,単純計算で3~5時間くらいかな。この文章をワープロに打ち込んで,それを手書きで通知票に記入する。この作業に1人約5分かけていたから,3時間くらいか。書いている最中に間違えたりして,修正するとやたらと時間がかかったりする。そんなこんなで,所見欄記入の作業時間としては6~8時間という計算だ。
 これが,新卒のころだと,もっともっと時間をかけていたのだろうと思う。
 この所見欄に,担任はどんなことを書くか。校内で,教えてくれる人は誰もいない。だから,新卒教師は,自分で考えることになる。そもそも学校現場は,基本的に仕事の中身について誰かに教えてもらうシステムになっていない。授業にしたって,新卒は教壇にあがったら自分で考えて授業を組み立てる。なので,新卒は,とにかく他の教師のやっていることを見よう見まねで覚えていくということになる。これはこれで,すごいシステムだなと,新卒の頃思っていた。広い意味でのサービス業のくせに,いわゆるマニュアルというものが存在していないというのが,学校現場の特徴だ。
 そういうわけで,所見の書き方なんて誰も教えてくれない。そこで,新卒の私は,他の教師がどんな風に所見を書いているのか勝手に拝見させてもらうことにした。このとき私は,担任を持っていなかった。来年度,担任を持ったときに備えて,今のうちに所見の書き方を知っておこうと思ったのだ。2学期のある日の夜だった。通知票が保管してある学校の金庫を開けて,通知票を見たのである。当時の勤務校は,大規模校だったから,私にとって関心のある教師の作成した通知票を見て,所見記入欄の内容の参考にさせてもらったのだった。
 傾向としては,若い教師ほど,所見欄の分量が多い。枠をはみ出して書いていたりするのもある。こと細かに,1人1人生徒の様子を書いていた。一方,ベテランの教師になってくると,所見欄の文章が短くなってくる。それに,同じ文章表現があちこちにある。私が,金庫から引っ張ってきたのは,あこがれている教師ばかりだ。そういう教師にして,文章表記の簡潔なのが意外な感じだった。
 そんなことをしながら,2年目になり私も所見の記述をした。相当時間をかけて記入したのを覚えている。ただ,なにぶん初めてのことだから,わりと楽しんで書いたのではないかと思われる。一方,学級がうまくいかなかった年の通知票作成は,苦痛でしようがなかった。というか,この年は,学級通信書くにも苦痛だったけれども。そういう経験を通しつつ,最近では全くのルーティンワークとして通知票の作成にとりかかるのであった。
 ベテラン教師の所見欄の文章記入が簡潔(短くて,記入の内容もありきたりな文面になる)になるというのは,今では意外でも何でもないと思うようになった。それは,ベテランになると,手を抜いて適当に仕事をするということも少しはあると思うが,それよりも,所見欄の記入で何か教育効果を狙わなくても平気である,という自負が生まれているのだろうということだ。
 所見欄は生徒と保護者が読む。その所見欄を読んで,生徒や保護者が「あんまり,詳しく書いてくれていないなあ」とか,「担任は子どものことをたいして見ていないのではないか」とか,ネガティブな印象を持ったとしても,それによって学級経営なり,生徒指導なり,保護者との関係なりが,揺らぐとことはないという自負があるのだ。だから,所見欄が簡潔でもベテラン教師は,へっちゃらなのであろう。
 そもそも,所見欄をしっかり書くことによって,保護者との信頼関係を築いていこうなどということ自体が浅ましい。所見欄なんてたかだか数行程度ではないか。その記入と言うのは,教師の教育活動のなかのほんの些細な仕事だ。そういう仕事の相対化もベテラン教師はしているだろう。
 とはいうものの,この所見欄記入に頭を悩ます教師が多いのも事実なのだな。悩みながら,ちまちまと記述内容を考えるわけである。
 ちなみに,私の所見。分量はわりと多い方だと思う。そして,ちっこい字で枠いっぱいに書く。書く内容についても,頭を悩ますことはなくスルスルと書いていく。
 そりゃそうだ。ブログにこんな駄文を書いているのだもの。そんな奴が,所見書くのを嫌がっていたら,まさしく笑止千万でしょう。
 

成果主義でも日本の教師は大丈夫だ

2007-07-13 23:13:35 | 教育時評
 教育現場にも成果主義の波がおしよせてきた。
 この流れは,いまさら不可避なのだろう。われわれ教師はどんなに抵抗しようとも,遅かれ早かれ教師の指導の成果が何らかの形で問われるようになるのだろう。
 
 先日の新聞に,東京の足立区の小学校で,学力テストのときに「ズルいこと」をやって平均点を上げたのではないか,という記事があった。
 足立区では,区内の小中学校に独自の学力テストを実施して,その結果を公表し,学校間のランクづけをしているとのこと。で,この「ズルいこと」をしたらしい小学校,2年前は,44位。そこで,1年かけて学力向上に取り組み,去年は何と第1位。一番にまでなった勝因は,学力テストの過去問をひらすら子どもに解かせたらしい(で,今年は,出題傾向が変わったので,また大幅にランクダウンをしたらしい)。
 テストの当日は,担任は机間指導をしっかりとおこなう。そして,間違いを見つけたら,子どもの答案を指でさして,間違いに気づかせる。校長も,各学級をまわり,間違いに気づかせるよう,指でおさえる。このあたりが「ズルいこと」。そのうえ,この校長,情緒障害の3人の児童の答案を全体からはずしたとのこと。これも「ズルいこと」でしょうね。
(なお,新聞記事をさらに読んでいくと,どうも,この足立区は,小中学校に対してランクづけをした後,学力の高い学校には予算を厚くし,低い学校には予算を少なくするという。これも,詳細は知らないけど,よくわからからん話だ。学力の低い学校に予算を厚くするのだったらわかる。非常勤講師などを拡充して学力向上を目指すというように。けど,足立区は逆だ。低学力の学校の予算を減らしてどうすんだろうね)
 さて,足立区のこの小学校の話に戻る。これは,実に特異な事例であろうし,これをもって学力テストの悪弊を主張するつもりはない。この小学校のやったことは,かなりクレイジーといってもいいだろう。しかし,教師というのは,クレイジーなこととわかっていても,校長には従順であるということは,知っておいたほうがいい。他方,このクレイジーな校長も,恐らく足立区の教育委員会から,強烈な圧力を受けたのであろう。そこで,学校を挙げての学力向上作戦となったのだ。そのなかで,禁じ手を使ったのだ。つまり校長というのは,クレイジーだとわかっていても,教委の圧力には屈するしかないということは知っておいたほうがいい。ついでに,この足立区,東京23区内で学力テストの成績が小中学校とも最下位(2004年)だったという。そういうなかで,足立区教委が各学校に圧力をかけたことは疑いえない。
 まあ,足立区教委だって,とっくにわかっているのである。ウチの区の子どもの学力が最下位なのは,何も校長や教職員のせいではないということを。もちろん,教委のせいでもない。原因は別のところにあるのだということを…。でも,そんなことは言ってはいけない。だから,学校現場に学力向上のための圧力をかけるのだ。
 もちろん,足立区の学校現場だってわかっている。ウチの区が最下位なのは,現場の教員だけのせいじゃないということを…。でも,そんなことは,現場では言ってはいけないというのが建前だ。
 だから,みな口をつぐむ。そこで何とか学力を向上させようと頑張るのだ。
 さて,成果主義である。日本の教員はどんなにクレイジーな指示にだって従順であり,校長は圧力に屈する存在だ。そういうなかで,教育行政は,今後,学力向上に本格的に乗り出してくる。
 そこに,成果主義が加わるとどうなるかわかるだろうか。
 私の予想はこうだ。
 行政主導の学力向上プランは,間違いなく大成功をおさめるのだ。
 なぜなら,従順な教師は,学力向上に奔走する。そして,これは言っている人はほとんどいないけれど,日本の教師の教える技術は世界でダントツでトップだ(そもそも,40人の子どもを一度に教えることができること自体,他の先進国ではありえんのだ)。そんな上質な技術を持っているクセに,行政に従順なのが教師なのだ。言われたことは,完璧にこなすのだ。つまり,学力が向上するに決まっているのだ。
 ついでに言うと,インドの算数教育の本がバカ売れしてしまうほど,わが国は教育に関心の高い国なのだから,世論も学力向上を後押しする。
 官民あげての学力向上熱がやってくる。その熱に,教師はひるむ必要は全くない。いままで通りのウデで,行政の言われた通りやれば,成果は上がるだろう。
 成果主義の波がおしよせてきても,わが国の教師は大丈夫だというのが私の意見だ。
 
 

荒れた学級荒れた学校

2007-07-06 21:52:47 | フラグメンツ(学校の風景)
 私の同期の研究授業を参観する機会があった。
 彼は,いわゆる荒れた学校に勤務していた。3年生を担任しており,その受け持ちの学級で授業をした。
 教室に入ってすぐ,こりゃ荒れているなとわかる学級だった。
 授業の号令はいい加減,授業には参加しない生徒多数。横を向いて後ろの生徒とお喋りの女子生徒。不規則発言が飛び交うなか,同期は,何とかかんとか研究授業になるように進めていた。
 しまいには,終了のチャイムが鳴ると「はやく終われよ」と言う叫声の飛び出す始末。同期は授業のまとめをして,やっとこさ終わったという感じであった。
 研究授業でこれだもの,普段の学級の様子を思うと大変だと思った。
 研究授業が終わると,参観した教師が集まって,研究協議というのをおこなう。授業の反省会みたいなものだ。その研究協議での助言者のあいさつがふるっていた。助言者というのは,研究授業について文字通り助言をする者で,主に指導主事とか学校長とか大学教官などがその任にあたる。
 私としては,どんな風に今回の授業をまとめるのかなあと興味深く聞いていたのだが,助言者である市内の学校長は,次のように言った。
「授業者は生徒の不規則発言をサラリとかわしていて,とてもうまいと思った。私だったら,ああいう態度をとる生徒には説教をしてしまったりして,研究授業どころではなくなるのだが,授業の本筋を失うことなく,進めていたのはすばらしい」
なるほど,うまいあいさつだ。助言者の人柄によっては強烈な皮肉になるところだが,この助言者は,その反対の人柄のようだ。ユーモアセンスにあふれる内容に,私は感心してしまった。
 さて,私の同期の受け持っているような学級を荒れた学級といい,こういう生徒が多数いて,教師が生徒指導に明け暮れる学校を荒れた学校という。
 荒れた学級,荒れた学校というのは,日本全国いたるところに存在する。
 私の現在の勤務校というと,落ち着いた学校といえるだろう。もちろん,生徒指導が何もないというわけじゃあないが,荒れているというわけでもない。だから,荒れた学校に勤務している同期に対しては,気の毒としかいいようがない。
 研究授業が終わった帰り道,もし,私が同期のような荒れた学校に勤務することになったら,どうなるだろうと,ぼんやり考えていた。
 私も,過去に,荒れた学級,荒れた学校に勤務していたことがある。私が荒れた学級にいたのは,教師になって4~6年の頃だ。20代の終わり。
 この当時,私は勤務をしていて何を思っていたかというと,とにかく自分の力のなさだ。いわゆる力量不足というものだ。もう悔しいのだが,この学級の荒れの原因は,自分のせいなのだ。これは,どうしょうもない。自分の力量不足が原因で,荒れたのだ。
 あるいは,他の学級に授業にいく。見事に授業が成立してくれない。生徒は,授業を真面目になんか受けやしない。授業を抜け出すとか,立ち歩くということはなかったが,授業を聞いていないし,注意も通らない。授業不成立といっていいだろう。これは私の授業だけではなく,実のところ他の教科でも不成立になっていたのだから,何も私の力量不足だけというわけではないのだが,とにかく,当時の私は授業を成立させるのはどうしたらいいか,とにかく悩んでいた。
 さて,そんな力量のない教師も,経験年数だけは増えていく。今年は,教師になって12年目。もう,35歳のおっさんだ。
 これくらいの歳になると,だんだん自分の力量もわかってくる。というか,自分のキャラクターに応じた学級経営なり,生徒指導なり,教科指導なりができてくる。何も努力をせずとも10年以上もやっていれば,そこそこ指導技術も向上していく。
 そして,再びぼんやり考える。もし,私が,同期の勤務校のような荒れた学校に勤務したらどうなるだろう。
 とにかく,荒れを最小限にするためにあれやこれやと腐心するだろう。だけど,授業を成立させるまでにはいくだろうか。いろんな場面で,“前線の後退”を余儀なくされるような感じはする。“前線の後退”というのは,こういうことだ。教師は,理想の状態というのをイメージする。しかし,現実はというと,授業不成立の崩壊の状態。そこで,教師としては,ノートとらなくてもいいし,教科書開かなくてもいいから,とにかく不規則発言だけはやめるようにさせようとか,現実を前にどんどん理想を後退させていく。これが,“前線の後退”だ。そうやって,なんとかかんとか授業が成立させようと腐心するのだろうと思う。
 そういう後退を味わいつつ,20代の頃のように自分の力量のなさに悔しい思いをするだろうか,と自問する。
 いやあ,そうは思わないだろうな。生徒が悪いから荒れるのだと思うだろうな。力量不足がすべてじゃないよと思うだろうな。
 荒れた学級,荒れた学校というのは,日本全国いたるところに存在する。この荒れの原因は,すべてが教師の力量不足ととらえる必要もないし,すべて生徒のせいだということもないだろう。
 ただ,生徒のせいにしたって,荒れた学級が改善するわけではないので,それを教師が主張したところで,メリットは何もない。だから,教師は生徒に原因を求めるよりも,自分の力量をあげるしかないのだ。そういうわけで,もういい歳になってしまっても,やっぱりそれでも力量をあげるしか道はないのだなと思うのであった。