現代史から教える歴史の教師がいる。
…という話を、中学生の頃から今まで何度か聞いたことがあるけど、私はついぞお目にかかったことはない。
これは、変わりもの教師社会科版みたいな逸話で、歴史というのはそもそも時間の学問だから、人類の誕生から教えるのが常識なのだけど、そんな常識やぶりというか、あまのじゃくのような教師がいましたとさ、というネタの1つ。ただ、そういう変わりもの教師は、私はお目にかかっていないけど、実際には日本全国に存在したことだろう。けれど、高校教師ならいざしらず、現在の中学校教師だったら、もうそんなことはできやしないから、こういう変わりもの教師ネタもだんだんと消滅していくのだろうと思う。
歴史を、時間の流れにさかのぼって教える、という発想。実は、これ、単に変わり者ゆえの発想で済ますものじゃないだろう。歴史教育のやり方としては、十分に議論するに値するものと思う。
「さかのぼる」というのは、正確な表現ではない。正確にいうなら「現代史から教える」という歴史教育だ。
歴史とは、過去から現在にかけて因果関係を学ぶ学問。だから、過去から現代へと時間の経過にそって学んでいくのが、学習者にとっては理解がしやすい、という意見は正しい。常識としてはそうである。
けれど、歴史というのは、所詮は現代人の評価には違いがないのだ。古代史で山上憶良の「貧窮問答歌」を取り上げるのも、戦国時代に織田信長の長篠の戦いを取り上げるのも、それはわたしたち現代人が学ぶべき歴史として何らかの評価をしているからである。だから、これらが学校現場で、教育内容として取り上げられているわけである。少し前のことだけど、中学校の歴史教科書に「従軍慰安婦」が記載されて騒ぎになったことがあった。これは、わが国の中学生に学ばせる教育内容として、「従軍慰安婦」が妥当かどうか、まさしく歴史の評価が分かれたためといってよい。
こうした議論は「すべての歴史は現代史である」(クローチェ)ということには違いがない。しかし、だからといって、奈良時代の民衆の貧窮と、1990年代以降のバブル崩壊と、どちらが21世紀のわが国の社会につながっているかといえば、当然後者である。奈良時代の聖武天皇の治世があったから、現在の私たちの日本がある、ということは、言えなくもないが(だれも証明できないが)、1990年代以降のわが国の停滞と現在の日本社会は因果関係として成り立っている。
であるなら、現在に生きる私たちが学ぶべき歴史というのは、人類誕生の歴史からよりも、より現在につながりのある歴史からのほうが教育内容の配置として有効ではないか、というのが私の主張だ。これが「現代史から教える」ということだ。
では、どこから現代の私たちとの因果関係ははじまるのか。つまり、現代史はどこから始まるのか。
これには諸説あろう。私は、1853年のペリー来航から現代史は始まると考えているし、この出来事がわが国の現在にいたるまでの無数の因果関係の最初のエポックだったと思うのだけど、いいや違う、という人もいるだろう。いずれにせよ、歴史教育には便宜上時代区分は必要なのだから、こうした区分の議論は、それをもって大きな歴史教育の論点になるので、どんどん議論すればよいと思う。
それはともかく、いまさら進歩史観でもないだろうから、人類の誕生から教育内容を編成する必要性について考えてみたらいいんじゃないかと言いたいのである。いわゆる「大きな物語」的な発想自体、一度ご破算にしてみるのも、歴史教育をめぐる議論としては有効ではないかと思っているのでありました。
…という話を、中学生の頃から今まで何度か聞いたことがあるけど、私はついぞお目にかかったことはない。
これは、変わりもの教師社会科版みたいな逸話で、歴史というのはそもそも時間の学問だから、人類の誕生から教えるのが常識なのだけど、そんな常識やぶりというか、あまのじゃくのような教師がいましたとさ、というネタの1つ。ただ、そういう変わりもの教師は、私はお目にかかっていないけど、実際には日本全国に存在したことだろう。けれど、高校教師ならいざしらず、現在の中学校教師だったら、もうそんなことはできやしないから、こういう変わりもの教師ネタもだんだんと消滅していくのだろうと思う。
歴史を、時間の流れにさかのぼって教える、という発想。実は、これ、単に変わり者ゆえの発想で済ますものじゃないだろう。歴史教育のやり方としては、十分に議論するに値するものと思う。
「さかのぼる」というのは、正確な表現ではない。正確にいうなら「現代史から教える」という歴史教育だ。
歴史とは、過去から現在にかけて因果関係を学ぶ学問。だから、過去から現代へと時間の経過にそって学んでいくのが、学習者にとっては理解がしやすい、という意見は正しい。常識としてはそうである。
けれど、歴史というのは、所詮は現代人の評価には違いがないのだ。古代史で山上憶良の「貧窮問答歌」を取り上げるのも、戦国時代に織田信長の長篠の戦いを取り上げるのも、それはわたしたち現代人が学ぶべき歴史として何らかの評価をしているからである。だから、これらが学校現場で、教育内容として取り上げられているわけである。少し前のことだけど、中学校の歴史教科書に「従軍慰安婦」が記載されて騒ぎになったことがあった。これは、わが国の中学生に学ばせる教育内容として、「従軍慰安婦」が妥当かどうか、まさしく歴史の評価が分かれたためといってよい。
こうした議論は「すべての歴史は現代史である」(クローチェ)ということには違いがない。しかし、だからといって、奈良時代の民衆の貧窮と、1990年代以降のバブル崩壊と、どちらが21世紀のわが国の社会につながっているかといえば、当然後者である。奈良時代の聖武天皇の治世があったから、現在の私たちの日本がある、ということは、言えなくもないが(だれも証明できないが)、1990年代以降のわが国の停滞と現在の日本社会は因果関係として成り立っている。
であるなら、現在に生きる私たちが学ぶべき歴史というのは、人類誕生の歴史からよりも、より現在につながりのある歴史からのほうが教育内容の配置として有効ではないか、というのが私の主張だ。これが「現代史から教える」ということだ。
では、どこから現代の私たちとの因果関係ははじまるのか。つまり、現代史はどこから始まるのか。
これには諸説あろう。私は、1853年のペリー来航から現代史は始まると考えているし、この出来事がわが国の現在にいたるまでの無数の因果関係の最初のエポックだったと思うのだけど、いいや違う、という人もいるだろう。いずれにせよ、歴史教育には便宜上時代区分は必要なのだから、こうした区分の議論は、それをもって大きな歴史教育の論点になるので、どんどん議論すればよいと思う。
それはともかく、いまさら進歩史観でもないだろうから、人類の誕生から教育内容を編成する必要性について考えてみたらいいんじゃないかと言いたいのである。いわゆる「大きな物語」的な発想自体、一度ご破算にしてみるのも、歴史教育をめぐる議論としては有効ではないかと思っているのでありました。