憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

不適格教員は存在する

2010-11-26 20:45:03 | 教育時評
・不適格教員は存在する
 
 毎日のように教師の不祥事がマスコミを賑わしている。全国的なものから地方のベタ記事程度のものにいたるまで、教師の不祥事は実に多い。
 ところで、教師の不祥事のなかで、いちばんニュースバリューがあるのは何だろうか。それは、何と言っても教師のハレンチ行為じゃないだろうか。そのなかでも、教え子に手を出すなんていうが、不祥事のなかでは最たるものだろう。その次に、出会い系やらで中学生や高校生を買春する教師だろう。
 ハレンチ行為の他にも、トンデモ教育もマスコミに取り上げられやすいだろう。イジメに荷担したり、生徒に「死ね」とか言うのも、かなり世間的にはインパクトが強いだろう。
 こうしたモンダイ教師のニュースには事欠かないのが、現在の教育現場だ。
 さて、私が不適格教員に対する主張はこうだ。いたってシンプルである。
 触法行為に及んだ教員は、すみやかに処分するべきである。
 ただ一口に処分といっても、クビを指す懲戒免職から昇給にかかわる戒告まで、軽重はさまざまだ。それは触法行為の軽重によって決定するべきであろう。
 といっても、この主張は、目新しいことでも何でもなく、現行の教育公務員の行政処分はそうなっている。基本的に何らかの触法行為があった場合は、教師は行政処分を受ける。そして、私が教師になってから、その処分はずっと厳罰化に向かっている。つまり、15年前だったら訓告で済んだ触法行為(これは、頭をひっぱたくといった体罰など)が、現在では減給や停職となる。あるいは、停職や諭旨免職だった事案が有無を言わさぬ懲戒免職になっているということである。
 この厳罰化の流れは、今後より厳しくなることはあっても、今よりも緩くなることはないだろうし、これだけ教師の不祥事が多くなっていることからしても、当然の流れであろうと思う。

・不適格教員はなくならない

 では、このような厳罰化の方向によって、近い将来、モンダイ教師を教育現場から駆逐することはできるだろうか? 
 私は、残念ながら、今後も不適格教員は増え続けると思っている。たとえば、ハレンチ行為で捕まるモンダイ教師。この類は、今後特に増え続けるだろうと思う。
 私がいつも思うのは、ハレンチ行為で一線を越えた教師というのは、要は自分の欲望を抑えられなかったということであり、もしわが国の社会が教師という職業に対してもう少し誇りを持たせてくれるのであれば、ハレンチ教師はグッと減っていくだろうにということである。
 ただ、これは教師の甘ったれた戯れ言に過ぎないだろう。われわれ教師だって、風当たりが強いことはよくわかっている。だから、教師のプライドは何かと問われても、口をつぐんでしまう。そんなプライドのないところに、矜持を持てといっても、ムリな話。いきおい、一線は越えやすくなる。
 教師に、教師としての誇りを持たせることは、結果的に児童生徒を不幸にさせないことになるのだけれど、わが国は、そういう方向には向かわないであろう。これが、ハレンチ教師の減らないと予想する理由である。
 例えば、5年ほど前に、北海道では度重なる教師の不祥事への対策として「教職員の服務ハンドブック」というのをすべての教職員に配布した。
 これが、行政の発想を端的にあらわしている。
 服務についてのハンドブックであるから、地方公務員の心構えやら職務専念義務やらが書かれてある。そして、懲戒処分の事例も数頁にわたって記載されている。当時、どのような不祥事で、どのような処分が出されたかが記載されているのだ。
 こういう事例を載せる発想というのは、こういうことをやったらこういうヤバいことになるからやったらダメだよ、ということ。
 そこには、教職としての崇高な職務を担っているとかの記述は何もない。身の破滅をしたくなかったら、こういう不祥事は起さないことだとう発想に貫かれているのである。
 他方、学校現場には、教職員が新聞に載るような不祥事を起した場合、ほぼ必ず再発防止の通知が教育委員会から降りてくる。その多くは、交通違反によるものが多いのだが。USBメモリーが紛失してしまったときの処分一覧とか、もちろん窃盗やハレンチ行為とかそんなものについても処分一覧もある。これもまた、とにかく触法行為をすれば、ヤバいからやめさないという再発防止の発想に貫かれているのである。

・自分の子どもをまもる方法
 
 なお、保護者にとっては、こういう不適格教員、とくにハレンチ教師は、即刻排除して欲しいと願っていると思われる。ましてや、担任になって、我が子に万が一のことがあったら…、と思うと、恐ろしいと思うことであろう。
 このようなモンダイ教師に対して、自分の子どもを守る方法をお知らせしておく。
 現在、公立小中学校では、保護者に「学校評価」のアンケートを実施している。これは、学校教育について、保護者がどう評価しているかをアンケート方式でおこなっているものである。小中学校に子どもを通わせている方であれば、見た記憶もあるだろう。
 これに、自由記述欄があるから、そこにそのような危惧をしていると書くことである。これは、間違いなく管理職が一枚一枚読むから、管理職の監督責任において何らかの措置が講じられよう。
 あるいは、この学校評価には、児童生徒が書くものもある。「あなたは学校が楽しいですか」とか「あなたは授業がわかりますか」とかを、調査する用紙である。これに、質問項目として「あなたは先生からセクシャルハラスメントを受けたことがありますか」という項目を加えてもらうことである。このような要望は、学校側にとってそんなに面倒なことではないので、すぐに要望は聞き入れてくれるはずである。この項目が学校評価に加わるだけで、十分な抑止効果はあるはずである。


『教師力BRUSH-UPセミナー』のお知らせです

2010-11-19 20:51:40 | その他
 私も参画させていただいております、『教師力BRUSH-UPセミナー』の案内でございます。
 『教師力BRUSH-UPセミナー』につきましては、力量のある教師の方々が精力的に活動をしておりますが、ここでは、私に関係する「教師力BRUSH-UPセミナーin名寄」と「第31回 教師力BRUSH-UPセミナーin札幌」の2つのセミナーをお知らせいたします。


教師力BRUSH-UPセミナーin名寄
日 時:201011月27日(土)
場 所:ふうれん地域交流センター(愛称/風っ子ホール) (名寄市風連町本町62番地2) 参加費:3000円
主 催:教師力BRUSH-UPセミナー
後 援:北海道教育委員会
「言語活動の充実」が声高に叫ばれ,道研や局の講座も全道各地で行われている中,皆さんも「言語活動を取り入れた授業をしな
きゃ」と思っていませんか?「ただ闇雲に『言語活動例』として示されているものを授業の中に取り入れても…」と思っていませ
んか?そこで,言語活動を充実させるためには,なぜその言語活動を行うのか(WHY)ということ,そして,そのためにはどのよう
なことをすればよいのか(HOW)ということを意識しておく必要があります。その両方を主要4教科の模擬授業を受けながら,一緒
に考えてみませんか?
【日程】
9:00- 9:15 受付
9:15- 開会セレモニー
9:20-9:50 オリエンテーション
「言語活動の充実に向けた国語科教師から各教科への提言」
堀裕嗣(札幌市立北白石中学校)
9:50-10:20 グループワーク
「言語活動の充実に,私たちはどんな課題を抱えているのか洗い出そう」
司会 太田充紀(名寄市立智恵文小学校)
10:30-11:00 模擬授業1
「言語活動(話すこと・聞くこと)を取り入れた国語科授業」
授業者 大西陵公(名寄市立中名寄小学校)
11:00-11:30 模擬授業2
「言語活動(話すこと・聞くこと)を取り入れた算数科授業」
授業者 山口淳一(札幌市立藻岩北小学校)
11:30-12:30全体協議 「言語活動(話すこと・聞くこと)」についての検討
司 会  細山 崇(名寄市立智恵文小学校)
指定討論者  石川 晋(上士幌町立上士幌中学校)
高橋裕章(札幌市立藻岩小学校)
高橋正一(稚内市立富磯小学校)
12:30-13:30 昼食休憩
13:30-14:00 模擬授業3
「言語活動(読むこと・書くこと)を取り入れた社会科授業」
授業者 太田充紀
14:00-14:30 模擬授業4
「言語活動(読むこと・書くこと)を取り入れた理科授業」
授業者 細山 崇
14:30-15:30全体協議
「言語活動(読むこと・書くこと)についての検討」
司 会  山口淳一
指定討論者   山下 幸(札幌市立上篠路中学校)
南山潤司(札幌市立南小学校)
桑原 賢(北海道鷹栖養護学校)
15:40-16:40 全体シェアリング
司 会  桑原 賢
指定討論者  堀裕嗣,石川晋,南山潤司,高橋裕章,山下幸,高橋正一
16:40- 閉会式
17:30-19:30 懇親会
【お申し込み先】
名寄市立智恵文小学校 太田充紀(おおたみつのり)
FAX 01655-3-4613
Email mitsuohta1974@gmail.com


第31回 教師力BRUSH-UPセミナーin札幌
特別支援教育の現在~ 現場から発信する、特別支援教育 ~

 教師力ブラッシュアップセミナーが満を持して行う特別支援教育セミナーです。
 講座のほとんどに実際に映像資料を活用し、わかりやすく提案します。

○日 時 2010年12月19日(日)9:30~16:00
○場 所 札幌市・白石区民センター 1F会議室
  札幌市白石区本郷通3丁目北1-1
○主 催 教師力BRUSH-UPセミナー
○後 援 北海道教育委員会
○参加費 2000円
   ○定 員 30名
【日程】
9:00~9:20  受け付け
9:20~9:25 開会セレモニー
9:30~10:20
 第一講座「インクルージョン発想で学級・授業を創る」
  NPO「授業づくりネットワーク」理事 石川 晋
10:30~11:20
 第二講座「インクルージョン発想で支援学級を創る」
  留萌市立東光小学校教諭  梶 倫之
11:30~12:20
 第三講座「インクルージョン発想で交流の場を創る」
  札幌市立中央中学校教諭、NPOにわとりクラブ  柏葉 恭延

昼食

13:20~13:50
 第四講座「特別支援教育をめぐる論点を整理する-到達点と課題、方向性-
  北海道鷹栖養護学校教諭  桑原 賢
14:00~14:30
 第五講座「個別支援とお友達支援‐支援学校の視点から」
  北海道紋別養護学校教諭  湯藤 瑞代
14:30~15:00
 第六講座「個別支援とお友達支援‐一般校の視点から」
  砂川市立砂川中学校教諭  平山 雅一

15:10~16:00 第七講座:講師陣に何でも聴こう Q&A
  答える人  講師陣
  ファシリテーター:洞爺湖町立とうや小学校教諭  水戸 ちひろ

 詳しくは、下記をご覧ください。
http://new-brush-up.blogspot.com/2010/11/in20101219.html

【お申し込み方法】
 以下の7点をお書きの上,石川晋まで下記Eメールにて御連絡ください。
1.氏名/2.勤務校/3.郵便番号/4.住所/
5.電話番号/6.FAX番号(ない場合には「なし」と明記)
6.メールアドレス

 石川 晋(いしかわ・しん) E-mail:zvn06113@nifty.com




なぜ研修する場をつくるのか

2010-11-12 20:28:46 | その他
1 きっかけ

 私が、ブラッシュアップのような、いわゆる民間研修団体にコミットするようになったきっかけはというと、今を去ること一四年前、うら若き青年教師の頃にさかのぼる。
 当時、新卒教師の私のもとには、とある先輩教師から、研修案内が毎年郵送されてきていた。
 それは、授業づくりネットワーク大会の案内。しかし、当時の私は部活動の主顧問の身の上。休日に研修に参加するなんていうのは無理な話。なので、送られてくる案内に目を通しながらも、そのままほったらかしにしておくのが常だった。
 しかし、この先輩教師からは、毎年きちんと授業づくりネットワーク大会の案内が送られてくる。また、ネットワークの案内だけではなく、この先輩教師が主宰しているサークルの例会案内やら例会報告やらも送られてくることもあった。さらに、サークルの例会案内やら例会報告やらにとどまらず、その先輩教師が発行している個人通信までもが送られてくることもあった。
 これが続くこと三年間。この間、私は、一度もこの先輩教師と顔を合わせることはなく、また、お礼の葉書一枚出すこともなかった。
 私が転勤をしたのは新卒から数えて四年目のとき。この年の七月に、この先輩教師の主宰するサークルにふらりと顔を出したのが、現在の私につながる出発点であった。
 確か、この時は、お互い顔を知らなかったから、名乗りが最初の一声だった。
 なので、私が民間研修団体にコミットをしはじめたきっかけというのは、三年間ひたすら私を誘い続けたこの先輩教師によることは間違いない。
 ただ、そこから先は、自発的にサークルに賛同して活動しているわけであるから、「なぜ研修する場をつくるのか」の一つ目は、月並みであるが「自分の向上のため」ということに尽きるだろう。

2 活動に参加して

 さて、実際に活動に身をおいてみたら、どうなったか。
 まず、気分としては、とても勉強したような気になった。それから、ああ、参加してよかったなあという、充実感に満ちた気分にもなった。
 当時の私は、自分の未来は拓けていると理由もなく思っていた、向上心溢れる二十代の若手教師。はやく一人前になりたくて、闇雲に仕事をしていた。
 勤務地は山並みの映える過疎の町。学校現場では失敗ばかりを繰り返し、同僚とはけんかをし、にもかかわらず尻ぬぐいをお願いし、遅くまで同期の連中とだらだらと生産的であり非生産的でもある仕事をし…という、ポジションは一人前だけど、力量は半人前であたふたしていた、という毎日を送っていた。
 もちろん、学級経営や教科経営や生徒指導はうまくいくはずもなく、いっぱい悩みを抱えて、民間研修に参加していた。
 この頃、民間研修に参加するのは楽しかった。今、振り返ると、あの頃が私の教員人生の中で、もっとも幸せだったかもしれない。
 民間研修の場には、道内道外の、その名の知らぬものは誰もいない、超一流の教師が講師としてやって来ていた。まさしく綺羅星のごとくトップスターが私の目の前にいたのである。
 参加するたびに興奮していた。そして、自分はいっぱい勉強した気分になっていたのだった。
 現在でもなお、このブラッシュアップでご一緒させていただいている諸先輩方とも、この時期に出会った。いまから、十年前の話である。
 そういうわけで、「なぜ研修する場をつくるのか」の二つ目は、これもまた月並みではあるが、「一流の教師から学ぶため」である。

3 現在

 教師を十年もやると、たいした努力もしなくとも、普通の教師なら普通に一人前になる。そりゃあそうだ。三十代の半ばにもなって、自分はまだまだ半人前ですなんて思っているのがいれば、そんなの教師辞めちまえというものである。
 ここでいう一人前というのは、こういうことだ。
 それは、生徒指導なり学級経営なり、大きなミスもなくつつがなく仕事をし、学級経営に関しては、この先、絶対に学級崩壊はしないという保障はないが、多分、しないと思われ、あるいは、崩壊学級の後任を任されたとしても、嫌だけれども断わらず、学年・学校経営も、与えられた仕事は無難にこなし、何か提案せよといわれたら、自分なりの方策を持って提案する…、という、何のことはない、ごくごく普通の平々凡々の教師のことである。
 私も三十半ばとなって、ごくごく普通の教師となった。
 そうなると、これまでコミットしてきた民間研修との関係はどうなるか。
 それは、私のなかでのプライオリティが急降下するのである。
 そもそも教師の仕事自体、私の人生の中でのプライオリティが下がる。できることなら、さっさと家に帰りたいし、年休とってサウナに行きたいし、休日は子どもを連れて動物園に行きたいし、夏休みは家族旅行をしたい。
 家庭や余暇のほうが、仕事よりもずっと大切になる。
 そんなところに、民間研修が入り込む隙間なんていうのは限りなく狭くなる。
 それに、三十代半ばともなると、自由に使えるカネがほとほと少ないというのも現実だ。
 民間研修に参加するというのは、実際、少なからずカネがかかる。この研修の参加費というのは、家計の支出項目でいうと、食費を削ってそれに充てる、というわけにはならんだろうから、恐らくは教養娯楽費のなかで充当するというになる。そうなると、民間研修に参加するか、子どもと動物園に行くか、という選択を迫られるケースが生まれるわけで、こういう選択になってしまうと、絶対に民間研修には参加できないということになってしまうのだ。
 こうした理由により、ここ数年間、私は民間研修にほとんど参加しなかった。特に、去年までの丸二年間は、まったく参加しなかった。
 参加しないで、何か、学校の業務に差し障りがあったかというと、何もない。
 もう、研修に参加しなくとも、つつがなく仕事ができる歳になったのだ。仕事で悩みを抱えるなんてこともなくなった。仕事上の課題はすべて、すでに経験していること。だから、なるようにしかならんという、極めて現実的な結論となり、悩むまでに至らないのである。
 つまりは、教師としてアガってしまったわけで、何を今さら民間研修かという気分なのであるが、こんな不埒な教師にもかかわらず、こうしてブラッシュアップの同志の皆さんから、声をかけていただけるのであるから、実にありがたいことである。
 私は、ブラッシュアップのメンバーのなかで、現在、もっともココロザシが低いと自信を持って言えるのであるが、そういう私でも、こうしてこの場にコミットしているのは、やっぱり十年以上に渡る諸先輩方を含めた仲間と繋がっているという僥倖による。こうやって、ひねくれたことを言ってはいても、仲間と繋がっているというのは、何より嬉しいものなのだ。
 そういうわけで、「なぜ研修する場をつくるのか」の三つ目は、これもまた月並みであるが、「仲間と繋がるため」である。
 以上、「なぜ研修する場をつくるのか」には、「自分の向上のため」「一流の教師から学ぶため」「仲間と繋がるため」の三つをあげる。

教育の失われた10年

2010-11-05 18:10:43 | 教育時評
 新学習指導要領が、小学校では2011年から、中学校では2012年から完全実施されるわけであるが、現行の学習指導要領でおこなわれた10年間の学校教育というのは、「教育版 失われた10年」と言ってしまっていいだろう。文部科学省は、路線変更とは絶対に言わないけれど、今回の指導要領改訂は現行の「ゆとり」路線からの訣別に他ならないわけであるし、そういったことからも、この10年間の教育施策はトータルでみて失敗だったということなのだろう。

・「総合的な学習の時間」とは何だったのか

「ゆとり」路線は、1992年の学習指導要領からはじまっているから、何もここ10年をみて失敗というのはおかしいとする向きもあるかもしれないが、やはり教育現場としては10年前の指導要領の改訂が「ゆとり」路線を決定づけるものという認識を持ったし、その象徴として「総合的な学習の時間」の導入が大きなインパクトだった。
 私たち教師は、膨大な時間をかけてこの創設に向けて準備をし、導入後も膨大な時間をかけてこの時間の運用にあたった。「総合的な学習の時間」は授業時数も半端じゃなかった。「総合的な学習の時間」の授業時数を確保するため、国語や算数をはじめ各教科は授業時数を削られたのだった。
 そして10年。今回の学習指導要領で、「総合的な学習の時間」の時数は大幅に削減され、再び各教科の授業時数が増えることになった。
「総合的な学習の時間」とは、何だったのだろう。
 私たち教師は、試行錯誤しながら、10年間もの間、中学校では年間約100時間を使って「総合的な学習の時間」を進めてきたのだ。なのに、その10年間の「総合的な学習の時間」について何か総括しようとする機運はない。そして、削減されるにいたった「総合的な学習の時間」に対する建設的な批判もまた、ついぞきかれなかった。今回の指導要領の改訂で、この時間の時数が減ったことで、これからの子どもの「生きる力」はどうなるのか、なんていう議論は現場からは全く起きそうもない。
 つまり、学校現場はこの「総合的な学習の時間」をとっくに見切っていたわけである。
 乱暴な物言いをすれば、現場教師にとって「総合的な学習の時間」は、どうでもよかったのである。

・「総合的な学習の時間」は学習の時間として扱ってもらえなかった

 中学教師にとって、自分の拠って立っているもの、換言すれば、教師たらしめているもの、というのは、恐らく、教科だろうと思う。つまり、国語教師であること、社会科教師であること、音楽、美術、保健体育、何でもいいけど、その教科の教師であるということが、中学校教師にとってはアイデンティティとなっていると思う。ここが、小学校教師と若干違うところだろう。
 中学校では、先輩教師が後輩教師に、学級経営や生徒指導や授業技術について助言することはあっても、他教科の内容に口を出すということはない。あるいは、校内研究でおこなった研究授業の討議でも、他教科の教師が授業について意見をすることは、技術レベルに終始してしまう。
 そんな風土があるから、中学教師は自分の教科については、なおのこと誇りを持つようになる。これが、高校だったらなおのことそうだろうと思う。
 自分は、○○教科の教師であること。これが、中学教師のいちばんのアイデンティティである。
 では、次に、自分が教師たらしめているアイデンティティなるものといえば、それは教師によって違うのではないか。部活動指導だったり、学級経営だったり、生徒指導だったり、あるいは、研究部での研究だったりするだろう。
 そんなアイデンティティを持つ中学校教師にとって、「総合的な学習の時間」は自分の教科時数を侵害した異物だったことには違いない。そして、教科の授業の準備時間を圧迫する厄介者でもあったのだ。
 それでも、異物といったってこいつは年間約100時間もあるものだから、学習計画を立てる必要はある。もともと、学習計画なんて、自分一人で立てていたものだったが、こいつにいたっては、他の教師といろいろ話しあって立てなくてはいけないということでもあった。そこからして、中学教師はネガティブな印象を持ったりした。
 そうして、計画を立てて準備をして授業をこなしてみたものの、中学教師にとって、「総合的な学習の時間」は、自分の教科の授業とくらべて、まったく授業というにはお粗末な時間だったろう。学習の時間というよりも、特別活動や学校行事に近かったことだろう。そこに、生徒の学力形成としての手応えを持つのはとても難しかったはずである。
「総合的な学習の時間」が生徒の「生きる力」をつけるものだとして、真っ当に対峙できた教師というのは、自分の教科指導に揺るぎない自信のあった一握りの教師だけだった。大多数の教師は、生徒の学力形成は、「総合的な学習の時間」よりも、自分の教科によるものだという自負を抱いていたに違いないのである。
 つまり、「総合的な学習の時間」は、学習の時間にもかかわらず、どうしたって各教科よりも低く見られ続けるものだったのである。であるから、こいつは学習の時間のはずなのに、特別活動や学校行事と同じように並べられる時間であったのも中学校では仕方がなかったと、今にして思うのである。
 そして、今回の指導要領での授業時数の削減。
 現場教師は、10年もの間、多くの時間を使い「総合的な学習の時間」の様々な独創的な授業を創りあげたパイオニアであるはずなのに、そんな自負や矜持を持つこともなく、「いっそのこと、なくなっても良かったのになあ」なんていう本音を隠しながら、今回の指導要領の改訂を眺めている、というのが現場の実相ではなかろうか。