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憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

教師がたどる研修の道すじ

2012-11-18 18:56:29 | 学級経営論
 大学を卒業して教師になったものが、現場ではじめる研修といえば、まずは教育内容研究や教材研究であろう。現場経験がない以上、まずは机上でこさえることのできる研究ということだ。子どもの実態や教室の実態については、とりあえずほっかむりして、教育内容や教材の研究を進めていく。それが、「授業づくり」の本筋だと信じて疑わない。これが研修の第1段階。教師の資質や能力にもよるが、教師になって2年くらいは、ここの段階での研修を進めることになる。
 そのうち、教育内容や教材の研究をしているだけでは、カベにぶつかる。教育書に書いているようなすぐれた授業には到達しないことを実感する。どうしてだろうと考え、それは子どもの実態や教室の実態をつかんでいなかったという結論にひとまずは落ち着く。そして、子どもの実態や教室の実態を踏まえたうえで、授業を進める「技術」を向上させる必要性に迫られる。そこで、次に、授業「技術」の向上を目指して研修を進めるようになる。これが、研修の第2段階だ。
 ただ、授業の「技術」というのは、説明の仕方や指示の方法や声の大きさやリズムやテンポといった「シャベリ」に関係するのが、実はその大半を占めるので、そこの資質や能力に乏しい教師は、苦戦を強いられることになる。所詮、教育なんて言うのは「言語」による知識の伝達なのだから、それを手っ取り早く多数に伝達するのは喋ることなわけで、それをいかに有用にできるかが教師の授業技術なのだ。教師の教え諭す能力というのは、いかに「シャベリ」が巧いかにかかっているのである。「シャベリ」の技術以外でせいぜい思い浮かぶのは、板書といった書く技術や、子どもの発表を聞いてからその先の授業を進めていく情報処理の技術といったものだ。これらも、膨大な教師の「シャベリ」の技術に比べたら些細な技術といえよう。
 この第2段階も教師によるが、やはり数年間は研修の中心を占めることになる。ただし、教師によっては、この「技術」の段階で研修がストップする教師もいる。教師修行イコール技術向上ということだ。こういう教師は、一見、謙虚でストイックのようにも思えるが、私には思考停止にみえる。
 さて、多くの教師は第3段階の研修に進む。「教育内容」研究や「教材」研究、あるいは「技術」向上だけでは、教師の力量は上がらないと実感する。ここまできて、教師は、授業が「教育内容」や「教材」や「技術」以外の面で成り立っているということに気がつく。これを実感するのは、やっぱり経験を積まないと実感できない。だから、この段階は、早くても数年を要する。大体、10年くらいたったら、実感としてわかるのではないか。
 では、授業のそれ以外の面とは何か。それは、教師のパーソナルな部分である。パーソナルであるから、それこそ教師が違えば全て違う。けど、それでは研修にならないから、最近ではキャラクター別教師の力量アップ術みたいな感じで議論がされている。かなりお手軽である。お手軽であるから、研修の精度としてはイマイチ感がある。
 実は、この教師のパーソナルな部分というのは、芸事でいわれる個々の「アジ」みたいなもので、どうしたって理論化することはできないのだ。むろん、すぐれた教師による授業の「アジ」を研究すること自体は研究対象になるが、研究したってそれが自分の教師力に作用することはあり得ない。落語家の「芸」の研究者が落語家になれないのと同じ理屈である。
 しかし、現在の教育界では、ここの部分の教師力アップの議論がなされていたりする。私には、ここは理論化できる部分じゃないから、無駄だという思いが強いのであるが、いやいやそんなことはない、理論化できるはずだ、という教育書があふれている。これが私には不思議だ。
 そういうわけで、この第3段階に入ると、教師の道すじは2つにわかれる。ひとつは、研修をやめる道。だって、もう「芸事」の段階に達したのだから、研修しようがないとあきらめる。教師としてのアガリである。そして、もう一方は、ごく少数ながら「芸」の道を究めようと自分のパーソナルをとことん磨く教師である。こういう教師は、歳を取るにつれて「名人」だの「師範」だのになっていく。こうなると、自分の「芸」のためにやっていくので、こういう教師の授業研究というのは、有り難がる教師が多いのだけど汎用性は全くなくなる。
 私としては、大多数の中年教師が第3段階に入って研修をしなくなるのは、怠惰なせいでもなんでもなく、教育の研修の限界を体感したせいだと思っている。誰だって、授業がうまくなりたいのである。にもかかわらず研修をしなくなる。それを努力不足というのは簡単だけど、努力して力量が上がると実感できれば、努力もしよう。けれど、教育というのはそういう類のものではないということに気がつくのだ。
 とはいうものの、そんなことにも気がつかず、若い頃と変わらずに「教育内容」研究や「教材」研究や「技術」アップを目指して粛々と研修を続けるオッサンオバサン教師に対して、私は、皮肉でも何でもなく羨望を抱かずにはいられないのである。

教室が「戦場」という発想はキツいだろう

2012-08-05 19:13:18 | 学級経営論
 小学校教師の土作彰はその著書『若手教師のための力量アップ術』(日本標準、2008年)で次のように言う。
「晴れて教師になる。教壇に立つ。夢と希望で胸は一杯のはずである。
しかし、多くの場合、その夢と希望は、大きな絶望にとって代わられることになる。理由は簡単である。教育の専門家として必要な技術も思想も何ら身につけずに、教室たる「戦場」に送り込まれるからである。つまり丸腰なのである」
 そして、丸腰の若手は学級を崩壊させてしまうと「予言」し、次のようにまとめる。
「原因は教師が丸腰で戦場にノコノコ赴いたこと。これ以外にない」

 「教室」を「戦場」にたとえたのは、土作氏だけではなく他にもあったかもしれない。しかし、学級崩壊の憂き目にあうであろう若手教師を「丸腰」と言ったのは氏がはじめてではないか。よくぞ言ったものである。
 では、「丸腰」で「戦場」に向かい学級を崩壊させた若手教師の行く末はどうなるか。
 それは、「戦死」である。
 本当に、死んでしまう。「休職」や「退職」を通り越して、「自殺」である。(久富善之・佐藤博『新採教師はなぜ追いつめられたか』(高文研、2010年)には、教師1年目で自殺した3人の女性教師のルポがある)。であるから、土作氏の比喩はブラックジョークではなく、学校現場の厳然たる事実なのである。

 他方、教師のおかれた状況を「サバイバル」と称したのもいた。
 中学校教師の赤田圭亮は『サバイバル教師術』(時事通信社、1998年)で、荒れた現場での教師の奮闘を記録した。当時、教師になったばかりの私は、この著書のタイトルに惹かれた。そして、学級崩壊が全国あちこちで席巻をし始めていたあの当時、まさしく教師はサバイバル戦に突入したことを体感していた。

 さて、こうした状況は現在もかわらない。
 教室は「戦場」であり続けている。教師は「戦死」しないために、技術や思想の「武器」を身に付けるべく修行をする。あるいは「サバイバル」戦に生き残るために、日々スキルアップに励む。
 しかし、その「武器」とは何なのだろう。私には、その「武器」が教師の一生を保障する心強いアイテムとはとても思えない。どうにも機関銃のタマのような消耗品にしか思えない。
 つまり、教師の「武器」とて、常に補充が必要なものなのじゃあないか。あるいは、常にバージョンアップが必要なものではないのか。
 そうなると、教師は常に「武器」を調達し続けなくてはならなくなる。つまり、これからもずーっと、「戦場」で生き残るために、戦い続けなくてはならないのである。
 この私の主張は、現場の教師にわりと共有できるのではないかと思っている。
 事実、学級経営はいまや完全に守りの思想ではないか。気を抜かず、集団に眼を配る。一瞬のスキが自分の生命を危険にさらす。そんな感じである。
 最近の学級経営論である、堀裕嗣『学級経営10の原理・100の原則』(学事出版、2011年)も、主張は同じだ。この本を開いたいっちばん最初の小見出しはこうだ。「失敗が許されなくなった」。
 まさしく、この本は失敗しないための学級経営の思想に貫かれている。

 しかし、こうした現実はあまりにキツい。
 学校現場が「戦場」であるというのは、どこかで白旗が上がらない限り、戦いに終わりがないということなのだ。教師は「戦死」したくなければ、戦い続けなくてはいけないということだ。
 「サバイバル」と言えば、もっとわかりやすいだろう。現場は、生き残りをかけた戦いなのだ。「サバイバル」戦である以上、教師の誰かは必ず脱落をする。それは、自分かもしれないし、同僚かもしれない。そんな過酷な状況なのだ。
 教師は、脱落していった同志を横目で見つつも、自分は生き残るべく戦い続ける。日々「武器」を調達する。そして、自分の後から続く後輩の教師には、「丸腰」はヤバイぞ、「武器」を持て、とアドバイスをする。これが現況である。

 けれど、やはり、これはキツい。
 どんなに「武器」を持てとアドバイスしても、「戦死」する教師はなくならない。恐らく、アドバイスする側もわかっているはずである。一定数の教師が「戦死」することを。だって、「戦場」なのだから。
 私は、この状況はどうにもおかしいと思う。そもそも、教室の子どもにとって、自分たちの居場所が「戦場」扱いされている状況こそ不幸なことだろう。
 そろそろ教室を「戦場」とする思想はやめにできないか。
 そろそろ戦いから降りる手段を教師は提案してもいいのではないか。
 これが、今回の私の主張である。

 教師が戦いから降りるとは、どういうことか。
 それは学級づくり、集団づくりから降りる、ということだ。
 すなわち、ゆるやかな学級解体の提案である。
 それは、少人数学級でもいいし、複数担任制でもいいし、習熟度別編成でもいい。私は、小学校低学年は現在のような学級体制であるべきと思うが、学年が上がるにつれて、学級のしばりを緩やかにしていくような学習集団編成を模索するべきと思う。
 あるいは、学級以外の子ども集団を学校のなかで作るという発想も有効だろう。学年が上がるにつれて習熟度別学級や他学年との複式学級を取り入れるというのはどうか。中学校になれば、今以上にさまざまな集団でのコミュニティをつくるように編成するといいだろう。現在では、学級と部活動が生徒の主要なコミュニティとなっている。2つだけだけど、これでも小学校よりも、ずっといい。学級の居心地が悪くても、部活という別のコミュニティに居場所があることで救われている生徒は少なくないはずだ。私が言うのは、学級以外の部活動のようなコミュニティを意図的に作れないかということだ。習熟度や、小集団活動、あるいは縦割りの集団での体育芸術科目の学習もいいだろう。あるいは、現在学級単位で行っている、ホームルームや給食や清掃や特別活動を縦割りや小集団にするという発想もあるだろう。

 けれど、こうした提案はサバイバル戦の勝者からは出てくることはないだろう。だって、現況の戦いに勝った者なんだから。
 しかし、そういう強者にこそ、脱落しそうな同志を助ける提案をして欲しいと思うのだ。後輩に「武器」を配るだけではだめだ。なぜなら、「武器」を調達できなかった教師は「戦死」しか残されていないのだから。
 とはいうものの、どうにも、まだしばらくは「もう戦いはやめにしようぜ」という声は聞こえてきそうもないのが現状である。

学級経営セミナーに参加しました

2012-04-01 17:14:31 | 学級経営論
 年度末、中学校教員向けの民間セミナーに参加をする。
 テーマは「新年度学級びらき」。中学校の学級びらきに関するあれやこれやのセミナーであった。

 新年度当初の学級経営の重要性を「黄金の3日間」と呼んだのは、向山洋一氏である。かれこれ、20年程前のことだ。当時は、「学級崩壊」という言葉こそ生まれていなかったものの、小学校で、新卒の教師が受け持った学級が6月になると崩れるのは、新学期最初の3日間に学級経営のあれやこれやを怠ったからだという、向山氏の主張はたいへんな説得力を持つものだった。
 この向山氏の主張に触発されて、小学校ならず中学校もこの「黄金の3日間」の重要性を認識して、学級担任は新学期の準備をしてきた。その後、小学校教師の野中信行氏がこの「黄金の3日間」の主張の発展として、「3・7・30の法則」を提案し、さらにこの提案を中学校向けに応用するものとして、中学校教師の堀裕嗣氏が、「3・7・30・90の法則」を提案し、現在に至っている。
 今回、私の参加したセミナーも、こうした20年来にわたる「学級びらき」の重要性の議論を敷衍するかたちで、いくつかの新たな提案がなされていた。
 今回、セミナーで私が感じたのは、この「学級びらき」に関する提案について、随分と洗煉されたなあということだ。「黄金の3日間」から始まった「学級びらき」の諸実践が、追試や改編するなかで、今日にまで現場でバージョンアップされたということなのだろう。学校現場は、20年前よりも、ずっとずっときめ細かい配慮のもと、新学期の準備については進められるようになったということだ。
 しかし、こうして洗煉された提案に接するほど、私は、どうにも窮屈な気持ちになる。
 それはなぜかといえば、つまるところこういう提案が「学級経営に失敗しないため」になされているということだからである。
 それはそうである。
「黄金の3日間」から、そうした主張だった。教師が学級経営に失敗しないために、この3日間を綿密な準備のもと全力であたれ、という主張だったのだから。その後の「3・7・30の法則」も「3・7・30・90の法則」も、そうした主張を発展させたものであった。すなわち主張の根底には「失敗しないため」という「守り」の思想が貫かれている。ここでの「失敗」というのは「学級崩壊」ということだ。学級は機能しなくなり、教師は苦悩し、挙げ句の果てには休職や退職や自殺までに至ってしまうという地獄への道ということだ。こうした現実が現在の学校現場に存在しているからこそ、「失敗しないため」の「守り」の学級経営は何より優先される。「失敗」が地獄であればこそ、「失敗しないため」にしっかり「守り」の学級経営にあたれということだ。
 そうした実感が伴っていることもあり、こうした「失敗しないため」の「学級びらき」については、どんどん議論が細かくなり、学級づくりは精緻なものへ、システマティックなものへとなっている、というのが現状であろう。
 こうした現状を20年来の進歩と言ってしまえば格好がいいけど、私には、学校現場がどうにも強迫神経症的な症状を示している感じがするのだ。つまり、「失敗」をしないために、そしてその「失敗」というのは教師の人生を狂わすほどの強烈なものだけに、それを回避するために、細かく議論され、どんどん精緻になり、システマティックなものになり…と、何かを恐れながらまるで神経症的に「学級びらき」について議論しているように思えるのである。

 堀裕嗣氏の近著『必ず成功する「学級開き」魔法の90日間システム』(明治図書、2012年)を開くと、最初の3日間には「生徒たちとの心理的距離を縮める」とある。
「心理的距離を縮める」。新学期、はじめて顔を合わせた生徒達との心理的距離を縮めるにはどうするべきか。何か、教師の失敗談でも話そうか。教師の自己紹介でギターを弾いて歌を歌おうか。グループエンカウンターをしようか。…、これらの例は、「学級びらき」で生徒たちとの心理的距離を縮めるために、これまでに提案されてきたものだ。しかし、堀氏の著書には、そんな提案は一切ない。あるのは、生徒に「安心感」を与えよという主張なのだ。その主張に沿って、入学式に「安心」して参加できるように、入場の歩き方の練習を紹介し、明日からも「安心」できるように、プリントの配布のやり方について提案をしている。これが「生徒たちとの心理的距離を縮める」という提案なのだ。
 恐らく、「学級びらき」で、入学式の入場の練習や、生徒へのプリントの配布の仕方について提案したのは、堀氏が初めてに違いない。別に堀氏は、入学式の入場やプリントの配布が、「学級びらき」には重要なのだということをこの著書で主張しているのではない。そうでなく、こうした入学式の入場やプリント配布という些末な部分にまで、教師は細心の注意をはらって、最初の3日間を過ごせと言うことを主張しているのだ。
 こうしたきめの細やかさ(著書には「最大限の丁寧さ」と表現されている)を求める主張は、20年来の学校現場で議論された「学級びらき」の集大成といえば格好がいいけれど、どうにも私には、学校現場が強迫神経症的な症状を示している感じがするのだ。だから、今回の堀氏の提案が、果たして、本当に生徒に「安心感」を与えるかどうかについては、今後も議論が必要であろうと考えている。 

 そして、こうしたきめの細かさが必要であるという主張は、やはり教師にとっては、相当なプレッシャーになっていくことだろう。それは「失敗してはいけない」という「守り」の思想に貫かれているゆえの宿命ともいえよう。

 なんてことを考えた年度末でした。

「守り」の学級経営

2010-07-23 21:12:16 | 学級経営論
 学級経営というのは、教師からみていまや完全に「守り」に入ったということなんだろう。そんなことを、今さらながらに気がついた。
 「守り」の学級経営というのは、何か目新しいことをして学級を活性化するのではなく、当番活動をはじめとする最低限のルーティンをかっちりやっていくといった学級経営のことだ。「学級崩壊しないため」とか「学級が健全に機能するため」とかを第一義とする経営ということである。
 ただ、私は、教師になって担任を受け持ったほとんど最初期から、学級経営は「守り」の発想だった。
 当時、教育雑誌や各種セミナーでは、学級経営のいろんな楽しい提案がなされていた。それは、考えてみれば当然なことで、雑誌やセミナーでは新味を求めるのが基本だろうから、新しくて楽しくて追試可能な提案がそういう場にはあふれていたということなのだ。
 私も、教師になった最初期から、しばしば教育雑誌なんかで発信する側に立ったりしたけど、学級経営については(たいした実践がないせいでもあるが)ひらすら「守り」の提案をしてきた。8年ほど前に、少しまとまった量の原稿を書いたときには、「普通の学級経営を目指せ」なんていう、冷静に考えれば提案でも何でもないことを書いて、提案した気になっていた。
 で、現在、そんな「守り」の風潮が今や完全に主流になった。
 学級経営で何らかのことを論じるとき、当番活動について論じないわけにはいかないというのが現在だ。こんなことも、今では当然だけど、10数年前まではそれが当然というわけでもなかったと思う。
 このような「守り」の学級経営の発想。もちろん、私は賛成だ。というか、私の発想そのものだ。だけど、今さらながらに気がついた現在の風潮に対して、私は喜ばしいこととは全然思わない。だって、今の時代、それだけ学級経営が大変なことであるという証左でもあるのだから。
 そんな中、ごく少数派ではあるが、昔ながらの「攻め」の学級経営の提案に出会ったりすると、批判的な気持ちになるよりもまず、私は嬉しくなる。何というか、時代に逆行しようが、学級崩壊のリスクを負おうが、そんなことはかまわない強さがそういう提案にはある。
 ただ、そんな提案、今じゃあ誰も賛同しないだろう。参考にしようにも、リスクが高すぎて追試はできんだろう。
 けれど、学級経営というのは、本来こういうものじゃあなかったかなあとも思うのでありました。

1週間が過ぎました

2010-04-16 06:06:24 | 学級経営論
 全国の普通学校の教師の皆さん、新学期から1週間が過ぎましたね。
 黄金の3日間は、予定通り進めることができましたか?


 黄金の3日間。いわずとしれた向山洋一氏の提唱。
 私が普通中学校で担任をしていたとき、この黄金の3日間、どこまで浸透していたかなあと思い返してみる。職場の同僚とこの言葉がでたことはなかったけど、周りの書籍にはこいつは溢れていた。
 かつて私も黄金の3日間をかなり周到に準備した年があった。
 その時は、3日間を分単位で割り振って、教師の喋ることまでプリントアウトしていた。このデータは、いまでもどこかに残っていると思うけど、いまさら引っ張り出して読み直そうという気にはならない。当時の奇妙な焦燥感のようなものが充満しているに違いないからである。
 振り返ると、3日間を完璧なものにしてしまおうという、今となってはよく思い出せないが、変な義務感みたいなものにとらわれてしまって、しまいにはそれに縛られてしまい、ゆるーい強迫神経症のような精神状態に陥ってしまったのだった。おかげで、生徒とのはじめの出会いが、予想外の緊張感のある状態になった。当時は、黄金の3日間を完璧なものにしようということだけが頭にあって、自分のキャラクターとか教師の立ち振る舞いというのが、生徒が受け取る印象にどれほど大きなものをもっているかなんて、考えたりはしなかった。まったく教師の独りよがりの状態となってしまっていたのだった。
 ちなみに、3日間の準備だけで、これだけ焦燥してしまったのであるから、当時から提唱されていた野中信行氏の「3・7・30の法則」までは実践できなかった。こんなこと、30日もやっていたら、私は大型連休をまたずに卒倒していただろう。

 さて、このような失敗を経験したので、その次は、ほどほどに準備をした。
 こちらもまた、今となってはよく思い出せないけど、スタートダッシュとは反対の、ソロソロ型だったはずだ。急に走って、てっころばないように、自分と生徒と他学級の様子を確認しながら歩くスタイルである。もちろん、これまでの経験で、3日間の過ごし方はじゅうぶん意識されているから、無為に過ごすことはない。あるいは、無為に過ごすのも予定の内というスタンスであった。
 多分、こちらの過ごし方の方が、私のキャラクターにあっていたようで、結果的にはうまく滑り出せたはずであった。

 1週間が過ぎて、これまでの学級経営が予定通りだった人も、そうでなかった人も、どうか1年間を見通して、周りの景色をみながら走って欲しいと思うのでありました。

 ちなみに、特別支援教育には黄金の3日間のような提唱は、私が見聞している限りではありません。
 そもそも、特別支援教育に学級崩壊などという状況はないのではないでしょうか。
 教師の休職は普通にありますが。

教師は早急に「キャラ」を立てよ

2009-11-13 22:07:29 | 学級経営論
 前回、物真似される教師のことについてお喋りをした。
 生徒が教師の物真似をするというのは、教師に特徴があるかないかということもさることながら、人前でその教師を真似ても、教師は怒らないだろうという計算をしていることは間違いない。つまり、あの先生なら、笑って許してくれるなあという予想を生徒がしているのである。もっというと、笑って許してくれるだけじゃなく、大笑いして一緒に楽しんでくれるだろうとも、生徒は感じているのだ。だから、人前で教師の物真似をやるというリスクを負いながらも、やるわけである。
 ただ私が思うに、ほとんどすべての教師は、自分の物真似をされても笑って許すはずである。よほど失礼な真似ではない限り、そこから生徒が発する自分への親愛の情のようなものを感じるはずである。だから、ほとんどのすべての教師は、生徒の物真似に対して、笑って許す。
 しかし、生徒は、真似をする教師と真似をしない教師とを使いわける。
 その違いは何か。
 私は、その違いがすなわち教師の「キャラクター」だと思うのである。
 「キャラクター」というのは、こういうことである。
 生徒は、教師との関係性で「あの先生なら、○○なことをすると、××な反応をするだろう」と勝手な想像を常にしている。もちろん、それは教師と生徒の関係性だけではなくて、人間関係一般にいえることで、そういう想像を(意識、無意識を問わず)しながら、私たちは他者と関係を築くわけである。
 教師と生徒という上下関係なら、なおさら生徒は教師の反応に敏感にならざるを得ない。つまり、常に「あの先生ならどうか」「この先生ならどうか」と、(意識、無意識を問わず)反応をうかがっているのである。
 教師の物真似でいうと、「この先生なら、真似をしても笑って許してくれるだろう」という想像が成り立つ教師については真似をするが、「あの先生なら、ひょっとすると怒るかもしれない」という想像が成り立つ場合は、そんなリスクを負って真似しようとは思わないのである。
 実際のところ教師は、生徒に真似されたくらいで、その生徒に対して不快感を示すような教師はいないはずなのだが、生徒の方で、大丈夫な教師とヤバイ教師とを分けている。
 つまり、生徒に真似をされる教師というのは、「これくらいの真似をしても、先生は笑って許してくれるだろう」あるいは「一緒に大笑いしてくれるだろう」という「キャラクター」が生徒のなかに「立ち上がっている」状態なのだ。だから、生徒は、教師の「キャラクター」を真似るのである。
 一方で、真似をされない教師というのは、まだ生徒のなかで「キャラクター」が「立ち上がっていない」のだ。こういう真似をしたら教師はどう思うか、笑って許してくれるのか、それとも、ひょっとしたら怒り出すかもしれない、と、生徒は教師の反応がみえないので、真似をするのを避けているのである。
 ここのところが、真似をする教師と真似をしない教師の違いだと思うのである。すなわち、「キャラが立っている」教師と「キャラが立っていない」教師の違いである。

 教師は、できるだけ早く自分の「キャラを立てる」ことに腐心するべきである。
 とりあえずは、どういう「キャラ」でもいい。とにかく、早く生徒に「この先生は、○○をすれば××という反応をするだろう」と「キャラ」の振る舞いが見えるようにするべきである。そうすることで、生徒は生徒で、その教師に対して、それに合う立ち振る舞いをし始めるのである。
 つまり、「この先生に○○をしたら、怒るだろう」という「キャラ」なら、この先生の前では「○○」をしないだろう。それは、避けるのかもしれないし、影でするかもしれないけれど。
 あるいは、「この先生に××をしたら、喜ぶだろう」という「キャラ」なら、この先生の前で「××」をするだろう。
 こういう振る舞いというのは、先ほども述べたけど、人間関係一般にいえることで何も教師と生徒の関係性だけにいえることではないのだが、上下関係という特殊な関係性では一層強化されているということはいえよう。だからこそ、生徒との関係性では早急に「キャラを立てる」ことが、関係の安定には必要なのである。
 そして、できれば立てた「キャラ」を教師本人も自覚していること。つまり、自分のキャラは「生徒が○○のことをすれば、××の反応をする」ということを自覚して生徒の前で立ち振る舞えること。これができれば、教師と生徒の関係性は揺るぎないものになると思うのだが、それはものすごく難しいでしょうなあ。

町医者モデル,いいねえ

2008-04-25 22:47:29 | 学級経営論
 このBlogでもたびたび紹介している石川晋氏が,このほど「町医者」モデルという教師像を提案している。
 詳しくは,氏のブログを参照して欲しいのであるが,言わんとしていることはこうだ。
 これまで,普通一般の教師はいわゆる「名人」とよばれる教師を目標として,教師の腕を上げようと努力してきた。すなわち「名人」モデルである。しかし,普通一般の教師が到達できない域にあるから「名人」なのであり,そこを目標に努力しても,その努力は報われないだろう。そこで,新しいモデルとして「町医者」のような教師を目指していくべきではないか。すなわち「町医者」モデルの提案である。
「町医者」とは,どのようなイメージだろう。石川氏のBlogから引用しよう。

 Q-Uや授業感想文などの根には「診断」という発想がある。「診断」というのは、一般には医療の世界で使う用語なので、若干の抵抗を感じる人もいるようだが、なかなか的確な転用だと思う。
 「診断」という言葉を通して、自分の中ではっきりしてきたイメージがある。最近あちこちの講座でも使わせていただいているが、私たち凡百の教師が目指す一つのモデルというのは、「町医者」のようなものではないか、「町医者モデル」である。
 「町医者」は、いろんな知識を広く持っていて、患者のいろんな症状に対応する。とりあえずの診断もできるし、治療もする。でも、自分が附属病院の医師のような高い見識を持ってはいないし、すぐれた医療機器があるわけでもない。だから、難しい判断を迫られたり、緊急を要したりする時には、より的確な判断のできる病院や、専門医に連絡したり、紹介したりすることができる。
 特別支援教育コーディネータという仕事をしていると、関係機関と連絡が取れる能力が、何にも増して重要であることがわかる。この経験は、私が「町医者モデル」について考える重要なきっかけになっている。
 私たちは、達人の領域や卓越した指導技術を求めがちだが、それは、実際的具体的なモデルではない。私たちの目指すモデル「町医者モデル」をもう少し補強して肉付けしてみたいと思う。
http://suponji.cocolog-nifty.com/blog/2007/12/30/index.html
 
 さて,以下,私の感想。
 この「町医者」モデルの提案。ようは,石川氏は歳をとったということだ。氏は,丙午(ひのえうま)の生まれとどこかに書いてあったので,確か不惑。この歳になると,もう「名人」を追いかけるのがしんどくなったということだ。
 これは,20代の教員には,わからないであろう。オッサンにならんとわからない。
 石川氏は,若かりし頃からつい最近まで「名人」の背中を追いかけていたのだ。憧れなかったなんて,いわせない。誰だって,若い頃というのは「名人」に憧れ,「名人」を目指し,努力をし研鑽をするものであろう。とくに,石川氏は人一倍熱心だったはずである。そうじゃないなんて,いわせない。
 けれど,人生の折り返しも過ぎ,追いかけているはずの「名人」はいまだはるか彼方。どう努力しても「名人」の尻尾すらつかめない自分に気がつく。つまり,不惑を迎え,自分の能力も,行く末も見えちゃったんだね。そういう,不惑の自分のこれからの拠り所として,提案したのが「町医者」モデルと,私は勝手に解釈している。
 ちなみに,私なりの「町医者」のイメージはこんな感じ。
 若いころは「町医者」になるつもりなどサラサラなく,大学病院で臨床にあたりながら,研究にも精を出し,学会で研究の成果が認められ,教授の地位を手に入れようと夢見ている。けれど,研修医を終えて,研究者を目指して,大学病院で教授のもとについて15年間シコシコ研究していたけど,どうやら先が見えちゃった。どう頑張っても,自分は大学に残っても教授にはなれそうもない。開業するには,ギリギリのタイミングだ。よし,このまま長時間労働プラス安月給でやっていくくらいなら,いっそのこと開業してしまおう。そういうわけで,朝から晩まで,ひたすら患者の治療に追われていくだけの人生を歩むことを決心する。…というのが,私の「町医者」のイメージ。
 だから,35歳を越えないと,共感できないモデルだと思うよ。
 若い人は,よくわかっていないと思う。若い人で,このモデルに共感している人というのは,おそらく「町医者」修行とか,「町医者」になれるように努力しようとか,そう考えているんだと思う。けど,それは違う。「町医者」は目指すものではなくて,オッサンになった教師の行く末なのだ。だから,歳をとればみんな行き着くのだ(一握りのスーパー教師と,一握りのモンダイ教師を除いて)。つまり「町医者」になれば,教職人生アガリというわけだ。石川先生は,不惑を迎えて,見事にアガッたということじゃあないかな。
 だから,若い先生は「町医者」モデルなんかに共感しないで,「名人」の背中を追いかけたらいい。そして,自分は一介の教師だったんだと歳とともに実感するときが間違いなくやってくるから,そのときに開業すればいい。すなわち「町医者」になればいいのだ。
 一方,もういい歳なのに,この「町医者」モデルに批判的な教師もいるだろう。教師は,生涯研修にはげむべきであると。もちろん,これはこれで,その人の生き方であるから,私がとやかく言うことではない。立派な遅咲きの「名人」を目指して欲しい。ただ,私には,今はやりのアンチエイジングの思想に近い感じがして,共感はしませんがね。
 

「やんちゃ」って何だ

2008-01-25 22:34:20 | 学級経営論
「やんちゃ」,と呼ばれる子どもがいる。「やんちゃ」な子は,今も昔も変わらずにいる。どんな子かというと,授業中におしゃべりをして妨害しようとしたり,教師に反抗的なそぶりをみせたり,女性教師にちょっかいをかけたりする男子生徒が思い浮かぶ。確かに,悪い子には違いないが,教師がコツンとやったら反省するそぶりを見せたりする,かわいげもある。
 けれど,最近は,この「やんちゃ」な子の対応を学級のなかで迫られるという。私は首をひねる。「やんちゃ」な子どもに,どうして教師がふりまわされなくちゃならんのだと思う。
 どうやら,私が思い浮かべる子どものほかにも,最近では「やんちゃ」と形容するらしい。教師の目の届かないところで,陰湿ないじめを主導したり,学級崩壊をさせて教師の困る姿をみてほくそえむ子どもも「やんちゃ」なのだ。これは,私には大きな違和感だ。そんな可愛らしい呼び方はおかしいと思う。なかには,化粧やミニスカートの女子生徒までを「やんちゃ」といったりする。これは,明らかな誤用だろう。あるいは,事例を読む限りでは,発達障害の子どもを「やんちゃ」と呼んでいるのもあった。これは,指導を誤りかねないと思う。
 さらにいえば,現場でこういう適当な言い方をしていると,世間への誤解を生じるもとになる。「やんちゃ」の対応ができず,学級崩壊するという言い回しは,普通一般考えて,よっぽど力量のない教師ととられかねない。
 おそらく「やんちゃ」と形容したがる教師は,子どもに暖かいまなざしを向けたいんだろう。「不良」とか「問題生徒」といったマイナスの形容をしたくないんだろう。どこかに「かわいげ」を見出したいんだろう。けれど,そんな甘さは,現実の学級経営を曇らせる。「問題生徒」を「やんちゃ」なんていう呼び方でごまかしてはいけない。自分の学級にいる子どもをしっかり直視することから,学級経営ははじまるのだ。

「学級王国」とはよく言ったものだ

2008-01-18 23:10:30 | 学級経営論
「学級王国」とはよく言ったものだ。
 教師は,まさに王様だ。
 ここでいう王様というのは,「司法,立法,行政」の三権を握る,「専制君主」のことをさす。
 そりゃそうだ。王国の住人は,子どもなんだから。子どもに,権力を与えても,その使い方なんてわかるはずがない。
しかし,子どもだからといったって,いずれは「国民主権」憲法下の日本国の「主権者」となっていくわけであるから,学校のなかで,「権力」の使い方を学ばせたほうがいい。そういう考えのもと,教師は,「専制君主」として振舞いつつ,すこしずつ教師の「権力」を子どもに付与していくということになる。
 小学校1年生の学級では,教師はバリバリの「専制君主」として振舞うが,学年が上がるにつれて,子どもたちに自分たちでできることを増やして,教師の「権力」を付与する。いわゆる「民主化」を進める,ということになる。これが,「王様」である教師の「学級経営」ということだ。
 さて,子どもが学級のなかで「民主主義」を疑似体験することのひとつに「学級会」がある。
 教師の代わりに,子どもによる議長がいて,議長によって議案が検討され,最後は学級の子どもの多数決で決定するという,いわゆる「直接民主制」の疑似体験をするわけだ。
ここでは,三権のうちの「立法権」が子どもにゆだねられるということになろう。
 ただし,現在のわが国のように,「主権在民」(=「国民主権」)でなく,あくまでも「専制君主」のもとにおける,「権力」の一部委譲なのだ。
 これを,わかっていない教師が多い。
 つまり,「学級会」は,学級唯一にして最高の「立法機関」であると思っているのだ。
だが,それは間違いだ。だって,学級の住民は子どもなのだ。政治学的修辞で言えば「愚民」なのだ。放っておいたら「民主主義」が暴走し「衆愚政治」に陥るのは火をみるより明らかである。
 であるから,ベテランの教師は,「学級会」での話し合いには,多くの付帯条件をつける。あるいは,きちんとした話し合いになるように,日ごろから「愚民」を「良民」になるよう学級経営をしておく。
 もう少し権力志向の強い教師なら,「学級会で決まったことでも,先生が「ダメ」と言えば,却下されます」などと,きちんと「権力」のありかが,子ども(=愚民)ではなく,教師(=王様)にあることを子どもたちにわからせておく(ただし,これはあまりに反民主的なので,すすめられない)。
 問題なのは,「権力」のありかが「教師」ではなく,「学級会」(=「子ども」)にあると思い違いをしている教師である。
 こういう教師は,学級崩壊(=王国崩壊)の道をたどる。
「学級会」を今一度,例にとろう。
 学級での話し合いというのは,さっきも言ったとおり,「愚民」の話し合いなのだから,学級経営上どう考えても無理なことが決定してしまうことがある。しかし,「学級会」に「立法権」を丸投げしてしまった教師には,その決定をくつがえすことはできない。しかし,だからといって認めるわけにはいかないから,しょうがなく教師は,「民主主義」よりも,「教師の考え」を優先させようとする。しかし,そんなバカな話はない。一度,「民主主義」の味を覚えた子どもが,そんな教師の横暴に従うはずがない。子どもの教師への不信が一挙に高まる。こうして教師は「裸の王様」となる。崩壊のはじまりである。
 この先の学級経営は,悲惨の一途をたどる。
 次に,子どもたちは,教師の持っている権力をはがしにかかろうとする。もう,子どもは,教師が「裸の王様」だということを,わかっちゃったのだ。そうなると,教師は「専制君主」でいられない。
 教師に残された道は2つだ。
「暴君」となって学級に「恐怖政治」を敷くか,ジタバタしつつも「王国崩壊」の道を歩むかだ。どちらにしても,もう健全な「王国」の復活は望めない。
「恐怖政治」のほうは,保護者からのクレームで終焉を迎えるかもしれない。
「王国崩壊」については,まだ続きがある。
 教師は,なんとか学級再建を目指してジタバタする。
 では,どのようにジタバタするか。
 悲惨なことに,こういう教師は,教師も子どももおなじ学級の一員として「民主的」にやっていこうよ,と振舞いだすのである。
 私だって,これまで学級経営でツラい思いをしてきているので,こういう教師の「イタさ」はよくわかる。けど,権力をはぎとられた教師にとって,こうやって振舞うしか術がないのも事実なのだ。
 精神を病んでいく教師が,教室に入れなくなったり教壇に立てなくなったりするというのは,こういうことなのだ。つまり,「権力」を行使できないくせに,「権力」を行使しなくてはいけない場になんて,いられるわけがないのである。
 こうやって学級(=王国)は崩壊する。
 では,王国が崩壊した後に,待っているものはなんだろうか。
 それは,「人民裁判」である。
「担任の先生に,直して欲しいことを書いてください」というアレだ。
 ここまでくると,副担任の教師やらが,学級に介入する。しかし,副担任の教師だって「権力」を行使できるわけがなく,あくまでも「権力」は子どもの側だ。そこで,子どもに,これまでの教師のやってきたことを紙などにかかせて,担任の教師に反省させるということになる。これは,まさに民衆の見ている前でギロチンにかけられているのに等しい。「人民」の勝利である。
 このあとは,本当に担任が交代する場合もあるし,担任は交代しない場合もある。(私としては,担任は交代したほうが,教師にとっても子どもにとっても,いいとは思っている)。
 以上が,「学級王国」の崩壊のプロセスだ。
 そもそも「学級王国」というのは,学級担任の専制君主的というか,反民主的な学級経営を批判する語であろうから,全くもって的を得ている。しかし,その専制君主である教師というのは,その権力の行使をあやまると,あっという間に王国崩壊の危機に直面するというのも,事実なのである。

学級崩壊をハインリッヒの法則に当てはめると…

2007-10-19 22:47:21 | 学級経営論
 先日,思うところがあって,学級崩壊関連の書籍を読み直した。
 古いところで,奥付をみると1998年発行。そうか,学級崩壊現象が社会を賑わせてから,もう10年になろうとしているのか,と思った。最近は,学級崩壊の話題もすっかり影をひそめた感がある。だから,もう学級崩壊現象は,学校現場では解決したのかと思う人もいるかもしれないが,そんなことはない。単に,ニュース性は薄れたというだけで,崩壊学級が減少しているわけではない。学級崩壊現象は,学校現場で日常となったのだ。
 教員によっては,学級崩壊の憂き目にあい,自殺したり,そこまでにならずとも退職や病休となってしまうというのが,現場の現実だ。
☆       ☆       ☆
 ハインリッヒの法則というのをご存知の方も多いだろう。
 労働災害の分析から導き出されたこの法則は,次のような概要だ。
 すなわち,1件の重大災害(死亡や災害)が発生した場合,その背景には29件の軽症事故とともに,300件のヒヤリ・ハットがある,というもの。
 さて,このハインリッヒの法則,これを,学級崩壊に当てはめてみるのもあながち的外れではないと思う。
 すなわち,1件の学級崩壊が発生した場合,その背景には29件の生徒指導事例とともに,300件の指導ミスがある。
 異論もあろうかと思うが,私は,学級崩壊というのはかなり偶発性の高いものであると考えている。つまり,起こるべくして起こったというわけでは決してない,という考えだ。学級が崩壊するにいたるまでの過程,あるいは崩壊後の原因を振り返ると,その道のりは崩壊へ一直線に続いていると思いがちであるが,多分に偶然が作用していると思うのだ。
 力量のない教師だからといって,必ず崩壊させてしまうということでもない。崩壊にはいたらないで,崩壊寸前でとどまっている場合もあるだろう,という解釈だ。
 しかし,だからといって,学級崩壊が単に偶然の産物かというとそうでもない。崩壊する素地というのは,十分にある。それが300件の指導ミスということだ。
 私も,そこそこ教師経験をつんでいるので,これまでに学級崩壊の場面に何度かでくわした。その限りでは,ある日臨界点を迎えて,一挙に崩壊に向かうということが多いと思う。雪崩を打つようにくずれるということだ。しかし,その臨界点に達するまでは,担任教師の「ヒヤリ・ハット」的な指導が,積もり積もっているのは間違いない。すなわち,1度や2度の生徒指導上のミスでは崩壊にはいたらない。積もり積もってというところが肝心なところだ。
 そう考えると,生徒指導上の「ヒヤリ・ハット」のミスをいかに最小限に抑えられるかどうかが,崩壊教師になるかならないかの境目なのだと思う。
 さて,ここまで主張して,次の問題にぶつかる。
 では,どうやったら,「ヒヤリ・ハット」のミスを最小限に抑えられるのだろう?
 私自身を振り返ればよくわかる。
 新卒の頃なんて,生徒指導上のミスはしょちゅうだ。振り返ると,生徒指導で行き詰まったり,学級経営で行き詰まったりというのは,今にして思えば,当然の報いといえる。あの行き詰まりは,なくべくしてなったのだ。しかし,そんなこと新卒の当時はわからない。当時の私にして,最善の判断で指導をしていたつもりなのだ。それがことごとく上手くいかないのだ。そうやって,失敗していくなかで経験を積んでいく。そうすることで,「ヒヤリハット」のミスが減っていく。また,「ヒヤリハット」のミスをしても,すぐにフォローをしてミスを帳消しにできるようになる。
 つまりは,数多いミスというか,失敗経験というか,そういう積み重ねによって,だんだんとミスを減らすことができるわけである。
 私が問題だと思うのは,いい歳して,ミスを連発する教師である。こういう教師は,どうすればいいのか?
 こういうミスを連発する教師というのは,ミスをしているという自覚がとても薄いのだ。だから,ミスの分析ができない。ミスだと思っていない。周りの教師が,その指導は「ヒヤリ・ハット」だと思っていても,本人だけがわかっていない。その結果,そういう教師は,自分がどうしてうまくいかないのかがわからず,崩壊を繰り返すということになる。
 このように考えると,崩壊しないためのスキルアップというのは,そもそも可能なのかという疑問にぶつかる。つまり,もういい歳した教師の場合,学級崩壊をし続けてしまうのではないか,あるいは崩壊寸前の状態で学級経営をし続けてしまうのではないか,という悲惨な結論に達してしまうのだ。
 やはり,力量のない教師は救われない,ということなのでしょうかね…。