大学を卒業して教師になったものが、現場ではじめる研修といえば、まずは教育内容研究や教材研究であろう。現場経験がない以上、まずは机上でこさえることのできる研究ということだ。子どもの実態や教室の実態については、とりあえずほっかむりして、教育内容や教材の研究を進めていく。それが、「授業づくり」の本筋だと信じて疑わない。これが研修の第1段階。教師の資質や能力にもよるが、教師になって2年くらいは、ここの段階での研修を進めることになる。
そのうち、教育内容や教材の研究をしているだけでは、カベにぶつかる。教育書に書いているようなすぐれた授業には到達しないことを実感する。どうしてだろうと考え、それは子どもの実態や教室の実態をつかんでいなかったという結論にひとまずは落ち着く。そして、子どもの実態や教室の実態を踏まえたうえで、授業を進める「技術」を向上させる必要性に迫られる。そこで、次に、授業「技術」の向上を目指して研修を進めるようになる。これが、研修の第2段階だ。
ただ、授業の「技術」というのは、説明の仕方や指示の方法や声の大きさやリズムやテンポといった「シャベリ」に関係するのが、実はその大半を占めるので、そこの資質や能力に乏しい教師は、苦戦を強いられることになる。所詮、教育なんて言うのは「言語」による知識の伝達なのだから、それを手っ取り早く多数に伝達するのは喋ることなわけで、それをいかに有用にできるかが教師の授業技術なのだ。教師の教え諭す能力というのは、いかに「シャベリ」が巧いかにかかっているのである。「シャベリ」の技術以外でせいぜい思い浮かぶのは、板書といった書く技術や、子どもの発表を聞いてからその先の授業を進めていく情報処理の技術といったものだ。これらも、膨大な教師の「シャベリ」の技術に比べたら些細な技術といえよう。
この第2段階も教師によるが、やはり数年間は研修の中心を占めることになる。ただし、教師によっては、この「技術」の段階で研修がストップする教師もいる。教師修行イコール技術向上ということだ。こういう教師は、一見、謙虚でストイックのようにも思えるが、私には思考停止にみえる。
さて、多くの教師は第3段階の研修に進む。「教育内容」研究や「教材」研究、あるいは「技術」向上だけでは、教師の力量は上がらないと実感する。ここまできて、教師は、授業が「教育内容」や「教材」や「技術」以外の面で成り立っているということに気がつく。これを実感するのは、やっぱり経験を積まないと実感できない。だから、この段階は、早くても数年を要する。大体、10年くらいたったら、実感としてわかるのではないか。
では、授業のそれ以外の面とは何か。それは、教師のパーソナルな部分である。パーソナルであるから、それこそ教師が違えば全て違う。けど、それでは研修にならないから、最近ではキャラクター別教師の力量アップ術みたいな感じで議論がされている。かなりお手軽である。お手軽であるから、研修の精度としてはイマイチ感がある。
実は、この教師のパーソナルな部分というのは、芸事でいわれる個々の「アジ」みたいなもので、どうしたって理論化することはできないのだ。むろん、すぐれた教師による授業の「アジ」を研究すること自体は研究対象になるが、研究したってそれが自分の教師力に作用することはあり得ない。落語家の「芸」の研究者が落語家になれないのと同じ理屈である。
しかし、現在の教育界では、ここの部分の教師力アップの議論がなされていたりする。私には、ここは理論化できる部分じゃないから、無駄だという思いが強いのであるが、いやいやそんなことはない、理論化できるはずだ、という教育書があふれている。これが私には不思議だ。
そういうわけで、この第3段階に入ると、教師の道すじは2つにわかれる。ひとつは、研修をやめる道。だって、もう「芸事」の段階に達したのだから、研修しようがないとあきらめる。教師としてのアガリである。そして、もう一方は、ごく少数ながら「芸」の道を究めようと自分のパーソナルをとことん磨く教師である。こういう教師は、歳を取るにつれて「名人」だの「師範」だのになっていく。こうなると、自分の「芸」のためにやっていくので、こういう教師の授業研究というのは、有り難がる教師が多いのだけど汎用性は全くなくなる。
私としては、大多数の中年教師が第3段階に入って研修をしなくなるのは、怠惰なせいでもなんでもなく、教育の研修の限界を体感したせいだと思っている。誰だって、授業がうまくなりたいのである。にもかかわらず研修をしなくなる。それを努力不足というのは簡単だけど、努力して力量が上がると実感できれば、努力もしよう。けれど、教育というのはそういう類のものではないということに気がつくのだ。
とはいうものの、そんなことにも気がつかず、若い頃と変わらずに「教育内容」研究や「教材」研究や「技術」アップを目指して粛々と研修を続けるオッサンオバサン教師に対して、私は、皮肉でも何でもなく羨望を抱かずにはいられないのである。
そのうち、教育内容や教材の研究をしているだけでは、カベにぶつかる。教育書に書いているようなすぐれた授業には到達しないことを実感する。どうしてだろうと考え、それは子どもの実態や教室の実態をつかんでいなかったという結論にひとまずは落ち着く。そして、子どもの実態や教室の実態を踏まえたうえで、授業を進める「技術」を向上させる必要性に迫られる。そこで、次に、授業「技術」の向上を目指して研修を進めるようになる。これが、研修の第2段階だ。
ただ、授業の「技術」というのは、説明の仕方や指示の方法や声の大きさやリズムやテンポといった「シャベリ」に関係するのが、実はその大半を占めるので、そこの資質や能力に乏しい教師は、苦戦を強いられることになる。所詮、教育なんて言うのは「言語」による知識の伝達なのだから、それを手っ取り早く多数に伝達するのは喋ることなわけで、それをいかに有用にできるかが教師の授業技術なのだ。教師の教え諭す能力というのは、いかに「シャベリ」が巧いかにかかっているのである。「シャベリ」の技術以外でせいぜい思い浮かぶのは、板書といった書く技術や、子どもの発表を聞いてからその先の授業を進めていく情報処理の技術といったものだ。これらも、膨大な教師の「シャベリ」の技術に比べたら些細な技術といえよう。
この第2段階も教師によるが、やはり数年間は研修の中心を占めることになる。ただし、教師によっては、この「技術」の段階で研修がストップする教師もいる。教師修行イコール技術向上ということだ。こういう教師は、一見、謙虚でストイックのようにも思えるが、私には思考停止にみえる。
さて、多くの教師は第3段階の研修に進む。「教育内容」研究や「教材」研究、あるいは「技術」向上だけでは、教師の力量は上がらないと実感する。ここまできて、教師は、授業が「教育内容」や「教材」や「技術」以外の面で成り立っているということに気がつく。これを実感するのは、やっぱり経験を積まないと実感できない。だから、この段階は、早くても数年を要する。大体、10年くらいたったら、実感としてわかるのではないか。
では、授業のそれ以外の面とは何か。それは、教師のパーソナルな部分である。パーソナルであるから、それこそ教師が違えば全て違う。けど、それでは研修にならないから、最近ではキャラクター別教師の力量アップ術みたいな感じで議論がされている。かなりお手軽である。お手軽であるから、研修の精度としてはイマイチ感がある。
実は、この教師のパーソナルな部分というのは、芸事でいわれる個々の「アジ」みたいなもので、どうしたって理論化することはできないのだ。むろん、すぐれた教師による授業の「アジ」を研究すること自体は研究対象になるが、研究したってそれが自分の教師力に作用することはあり得ない。落語家の「芸」の研究者が落語家になれないのと同じ理屈である。
しかし、現在の教育界では、ここの部分の教師力アップの議論がなされていたりする。私には、ここは理論化できる部分じゃないから、無駄だという思いが強いのであるが、いやいやそんなことはない、理論化できるはずだ、という教育書があふれている。これが私には不思議だ。
そういうわけで、この第3段階に入ると、教師の道すじは2つにわかれる。ひとつは、研修をやめる道。だって、もう「芸事」の段階に達したのだから、研修しようがないとあきらめる。教師としてのアガリである。そして、もう一方は、ごく少数ながら「芸」の道を究めようと自分のパーソナルをとことん磨く教師である。こういう教師は、歳を取るにつれて「名人」だの「師範」だのになっていく。こうなると、自分の「芸」のためにやっていくので、こういう教師の授業研究というのは、有り難がる教師が多いのだけど汎用性は全くなくなる。
私としては、大多数の中年教師が第3段階に入って研修をしなくなるのは、怠惰なせいでもなんでもなく、教育の研修の限界を体感したせいだと思っている。誰だって、授業がうまくなりたいのである。にもかかわらず研修をしなくなる。それを努力不足というのは簡単だけど、努力して力量が上がると実感できれば、努力もしよう。けれど、教育というのはそういう類のものではないということに気がつくのだ。
とはいうものの、そんなことにも気がつかず、若い頃と変わらずに「教育内容」研究や「教材」研究や「技術」アップを目指して粛々と研修を続けるオッサンオバサン教師に対して、私は、皮肉でも何でもなく羨望を抱かずにはいられないのである。