憂太郎の教育Blog

教育に関する出来事を綴っています

「困り感」より「不安感」

2008-05-28 21:45:39 | 特別支援教育
■精神科医の著書を読んでいると,統合失調症などにみられる幻覚や幻聴というのは,患者のどうしようもない不安な気持ちの表出によるものだということがわかる。とくに,幻聴は,小泉首相が私に話しかけてくるとか,突拍子もないストーリーを紡ぎだすのであるが,そういう破綻したストーリーでないと,今の自分のどうしょうもない不安な気持ちの支えにならず,狂ってしまいそうになるのだという(統合失調症の人は,自分が病んでいるという認識はあるが,狂っているとは思っていないという)。そんなギリギリの精神状態を,幻聴や幻覚でかろうじて抑えているということなのだ。
■精神を病んでいる状態というのは,このままだと,人格が崩壊してしまうというか,まさしく狂っててしまうというか,そんな強烈な不安感が渦巻いている状態なのだろうと思う。
■さて,特別支援の現場にいると,子どものなかには「不安」な気持ちを持っているんだろうなあと思うことが多々ある。例えば,入学したばかりのとき,新しい校舎はわからないことだらけ。2時間目は理科室ですよ,と連絡を受けても理科室はわからない。健常の子なら,わからないなりに,認識をはたらかせつつ移動するのであるが,知的に遅れのある子どもだと,それができない。いきおい不安な気持ちでいっぱいになる。もちろん,知的な遅れを伴う子どもすべてがそういう傾向を持つわけではないのであるが。
■自閉症の傾向を持つ子どもの場合は,この不安感はより顕著になる。いわゆるパニックになっている自閉症傾向の子どもは,不安感が嵩じてなってしまうととらえてよいだろう。
■特別支援の現場には「困り感」という言葉がはやっている。いわゆるLDやADHD傾向の子どもに対して使用される言葉である。けれど,この言葉を,知的障害や自閉症の子どもにも使われる事例が散見されるようになった。困っている状態ともいえるが,やはりここは無難に「不安感」という言葉であらわしたほうがいいであろう。誤った言葉の使い方はその子どもの支援を誤ることもあるのである。

校内研修の資料を作成している

2008-05-23 21:40:20 | フラグメンツ(学校の風景)
 私の目下の校務は,来週にある校内研修の資料作りだ。PCに向かうことでは,今週は,これにいちばん時間がかかっている。
 現任校では,はじめての研修担当。久しぶりにお鉢がまわってきたという感じ。前回,研究担当になったのは前任校のときだったから,私にとっては6~7年振りの仕事だ。
 こうやって,職員室のPCで研修の資料をつくっていると思い出すのは,高名な教育実践家の言葉だ。教育専門誌の連載が初出だったと記憶しているが,曰く,日本全国のほとんどすべての学校では研究紀要というものが毎年作られている。しかし,それらの紀要が研究成果として後年,教育の分野で足跡を残すことは,ほとんどない。であるなら,毎年日本全国の学校でつくられている研究紀要というのは,いったい何なのだ,意味があるのか。と,いうような内容だった。数年前のことだったから,詳しい議論は忘れてしまった。私の記憶では,もっと挑発的で過激な物言いだったような気がするが…。
 この高名な教育実践家の言。雑誌を読んだときには,面白いこと言うなあ,という程度で終わっていたが,こうやって校内研修の資料を作成する立場になると,結構ズッシリくる。
 高名な教育実践家の言っていることは,その通り。研究紀要とは名ばかりで,研究とはいえない代物を毎年毎年製本している。紙のムダと言うと言いすぎかもしれないが,製本された紀要が,この先何かの役に立つのかというと,次年度の校内研修の参考資料となる程度。Aの学校で研究された成果が,Bの学校の研究に影響を与えるということは,ふつう無いし,まして,子どものこの先の成長を大きく左右する研究なんてとてもじゃないができやしない。
 そう考えると,私が今,シコシコ作成している校内研修の資料なんて,意味があるのかと思ってしまうし,そんなネガティブな思考をしてしまうと,とたんに仕事の効率は落ちるし,ストレスはたまるし,ストレスがたまると別なことをやりたくなって,こうやって駄文を書き始める始末となる。
 この高名な教育実践家,何の目論見があって研究紀要を批判したのか,恐らくそれなりの理由があったのだろうけど,だけどね,批判したところで校内研修はなくならないのだ。
 恐らく,日本全国ほとんどの学校の校内研修の第一の目的は,教員の資質向上ため。もちろん,そんなもの各人でやれという意見は成り立つけれど,学校の教職員みんなで研修するというのは,組織として大切なことなの。その研究はショボイ内容なのかもしれないけど,それをいっちゃあ,研修なんてできないのである。
 そのほかの目的としては,学校教育目標の具現化とか,学校の教育課程の改善なんていうのが,校内研修の目的としてあげられようが,そういうのは研修担当とか教務係あたりが気にすることで,普通一般の教職員はそこまで目がいかないというのが,現場の現状じゃないかしらね。
 そんなことを考えつつ,そろそろ資料作成を再開しようかと思うのだけど,世の中にはルーティンワークというものもあるんだよね。もちろん,学校現場だってそう。意味があるのかないのか,よくわからないけど,やらなくてはいけない仕事というのは,職場にはゴマンと存在している。そして,そういう仕事を文句たれずに,日常業務と割りきって粛々とこなしていくことが,自分の精神衛生上好ましいということも経験的にわかってくるのだ。
 6~7年前に研修を担当したときは,こんな考えは全く及びもしなかった。
 そう考えると,ここ6~7年の間に,私はそれなりに成長したんだなあと思うよ。
 それとも,こんな風に考えるのは,ちっとも成長じゃあなくて,成長がとまった怠惰な教師の思考なのかね。(おそらく,こちらが正解)。

ニキ・リンコ『俺ルール!』

2008-05-21 22:17:42 | 教育書レビュー
 高機能自閉の著者による,自閉症についてのエッセイ。
 実に面白かった。そして,痛快。
 特別支援にたずさわる教育関係者はもちろん,全然関係のない人も,爆笑エッセイ集として読める。
 自閉っ子の不可思議な処々の行動について,これ以上詳しく説明できんだろうというくらい,こってりと解説している。だから,本は厚いが,中身は平易。たちどころに読める。
 自閉の認知を,PCの概念で説明すると,こんなにもわかり易いとは思わんかったね。特別支援の現場にいながら,今さらながら,なるほどねえ,と思うことが満載でした。自閉症の入門書としては,最上じゃないかしら。
 著者は,バリバリの高機能自閉。30歳を過ぎて,アスペルガー症候群と診断されたとのこと。よくもまあ,本人にとって生きにくかったであろうこの社会を,生き抜いてこれたと感心する。自閉の障害の程度はさておいて,性格というのもあるのだろう。著者は,強烈に楽天的な方とお見受けする(うつ気味のときもあるというが…)。この著者のような性格であれば,なんとか世間を渡っていけるのであろうが,誰もが同じというわけではなく,著者ほどの自閉だったら,2次障害をかっつり受けてしまうケースの方が強いのではないか。
 つまり,自閉症の方々が社会で生活をしていくというのは,自閉という障害の程度ということももちろんだが,本人の性格というのも大きいのだろうなあと,思わずにはいられないのであった。
 ニキ・リンコ『俺ルール!』(花風社,2005年)

生徒にダマされたフリをする~その2

2008-05-16 23:04:19 | 生徒指導論
 前回,私は「生徒にダマされたフリ」の指導には迷いがあると主張した。今日は,その続きである。
「生徒にダマされたフリ」の指導。ようは,自分のなかでしっくりいかない指導なのである。
 そして,迷っているものだから,他の教師に指導の内容を伝えようとするとき,どういうものか正確に伝えられないことに気がついた。話せば話すほど,生徒に指導したことがズレていく感覚を覚えるのである。しまいには,私は,指導した中身を創作してんじゃなかろうかとも思うようになってしまい,モヤモヤを抱えることになってしまうのであった。
 報告をするたび,何で私は自分に都合のいいことばかり言っているのだと,ずいぶんと自己嫌悪に陥っていたのだが,もとをただせば自分の指導の迷いに起因するということに,やっと最近気がついたのである。

 指導の報告というのは,生徒とのやりとりを時系列に簡潔に伝えればよいとされる。
 私が○○と質問し,生徒が○○と答えた。とか,生徒が,自分のやったことを,○○と言ったので,私は,○○の内容について指導をした。とか,ごく簡単にいえば,これが指導の報告というものである。
 しかし,これら一連の内容を,「生徒にダマされたフリをして」終わらせた場合,こんなにスッキリとはいかない。
 なぜか。
 もし,生徒がウソをついているとはっきり追及できたなら,「A男は私にウソついてました」と報告すればよい。しかし,ウソだとわかったけどあえてダマされたふりをして,ウンウンきいてたことを報告することは,とても難しい。なぜなら,ウソかどうかかなんて,そんなことを感じるのは,生徒と対峙した私の主観でしかないからである。
 もし,その場にもう一人教師がいて,後で,あいつの言っていることは「ウソくさいよな」とか同意を求めたりできれば,これは「A男はウソを言っていたようですが,あえてダマされたフリをしました」と,堂々といえるのである。しかし,教師と生徒との密室において,その会話から,どうもウソっぽかったんですよ,というような報告はありえない。
 そうなると,私がウソくさいと確証にいたった経緯を,どうやったって私に都合のいいように報告をしなくてはならなくなる。報告しながら,ああ,私は生徒とのやりとりを創作してしまっているなあと思いつつ喋ることになるのであった。

 まあ,別にどうってことないでしょうと言われれば,そうなのだけど…。最近まで,私は,何で言い訳がましい報告をしなくちゃならないんだと思っていたものですから…。このケースに限らず,生徒と対峙する場面を報告するというのは,どうしても,指導の中身を創作してしまうものなのだと気がついた。そして,そうやって創作している自分が,嫌だなあと思うわけなのである。


「聞く耳」を持つということ

2008-05-14 23:00:00 | フラグメンツ(学校の風景)
■自殺をしようとしている人に,自殺を思いとどまらせる魔法の言葉はあるのだろうか。精神科医の春日武彦氏のエッセイにそんな話題があった。
■「精神科医ならば,自殺を思いとどまらせるような説得のコツを心得ているのではないか,と期待されたら過大評価である。『はっと我に返らせる魔法の言葉』だとか,『死ぬことの無意味さを実感させる言葉』の持ち合わせがあるかといえば,そんなものは「ない」。…少なくとも相手が聞く耳を持たない限り,死を決意したり自暴自棄になっている人を,そう簡単に説き伏せられるものではない」(『何をやっても癒されない』角川書店,2003年)
■コインをいれたら商品がすぐ取り出せる自動販売機のような,そんな便利な言葉というものはないのだ。相手が「聞く耳を持たない限り」無理なのだ。であるから,自殺をおもいとどまらせる前に,まずは聞く耳を持ってもらうことからはじめるのだ。
■教育の現場に目をむけてみよう。いわゆる,小学校低学年などにみられる授業中の「立ち歩き」という状態は,教師にとってしばしは言葉の無力さを思い知らされることかもしれない。なにか,スッと席に着かせる魔法の言葉ないかしらと思う教師もいることだろう。一方,中学生や高校生になると,あからさまに反抗したりする。自分の言葉が彼らに伝わらないという経験は,多くの教師が経験していることだろう。
■彼らは,そもそも教師の言葉に「聞く耳」なんて持っていないのである。であるから,教師にとっては,自殺しようとして思いとどまらせる精神科医と同じく,まずは「聞く耳」をもってもらうことからはじめるのだ。
■教育界には,岩下修氏の『AさせたいならBと言え』(明治図書)という名著がある。1989年初版とあるから,かれこれ20年前の本だ。けれど,今でもしばしば,参考文献などに取り上げられたりしている。さて,20年たった今の教室。この本に書かれてあることがらは,今どれだけ有効だろうと思う。20年前,低学年の教室の立ち歩きは,まだ想定されていなかった。この本のことがらを実践して,彼らは「聞く耳」を持ってくれるだろうか。ましてや,中学生の情緒学級の立ち歩きには,果たして有効であろうか。

生徒にダマされたフリをする

2008-05-09 21:28:29 | 生徒指導論
 新卒のころ,先輩教師が飲み会でこんなことを言っていた。
 「子どもには,ダマされてもいいんだ」
 へえ,と思った。新卒の自分には思いもつかない言葉だった。かっこいいなあと思った。
 時はながれて13年後。先日,学校長と校長室で生徒指導関係の打ち合わせることがあったのだが,そのときの校長の一言。
「子どもにダマされたフリをするのも,大事なことだ」
 何か,懐かしいセリフだなと,ずーっと気になっていて,ああそうだ,と13年前の新卒の頃を思い出したわけ。
 けど,このセリフ,実は教師の常套句だったりもする。先輩教師も学校長も肯定的に言っているよね。私としては,新卒の頃なら,かっこいいなあなんて思っていたけど,13年後の今では,ぜんぜんそんなことは思いません。
               ☆   ☆  ☆
 生徒指導の一連の展開のなかで,「子どもにダマされたふりをした」なんて教師は言っちゃあいけないし,もしまわりで言っている教師がいたら,腹の中で飛び蹴りを食らわせたらいい。
 校内で盗難が起きたとする。
 生徒からの聞きこみや,状況証拠から,どうみてもA男がやったに違いない。そこで,A男を呼んで聞いてみる。けれど,教師がいかなるテを駆使して問い詰めても,A男は口を割らない。盗ったことを認めない限り,その先の指導へと進まない。教師としては,なんとかしてA男を落としたいのだが,A男は認めようとしない。そうして,A男は,教師の執拗な追及にも耐え放免となる。
 こんな指導しかできない教師が,「今回は,A男にダマされてみることにするよ」と言ったら,それは言い訳以外の何ものでもないでしょ。落とせなかった時点で,教師の負けなのだ。こと生徒指導にかかわる件では,教師は生徒に絶対に負けてはいけないのである。「ダマされたフリ」って,何?。自分の敗北をうやむやにしようとしているだけでしょ。もし,そんな教師がまわりにいたら,校庭の裏にでも穴を掘って「バカ!」と叫んだらいい。
 教師は,絶対に落とせるという自信や確証がないうちは,生徒を呼んで対峙してはいけない。自信のないまま対峙して,生徒が白状したらモッケの幸いなんていう生徒指導は止めたほうがいい。そんな危ない橋を渡ってはいけない。教師の側のリスクが高すぎる。
 また,このような指導は,A男に対しても大いに問題がある。なぜなら,A男からすると,自分の罪に対して,黙っていれば放免となるという経験を与えてしまったからである。A男の内に巣食う悪を助長させてしまっている。こんなことをA男に対してやってしまったんじゃあ,教育者としてあるまじき失態といえるだろう。
 であるから,こういう案件というのは,教師側に絶対落とせるという,自信と確証がない限りはやってはいけないのである。私だったら,自信や確証がないうちは,そのことを他の教師にはっきりというし,A男は呼ぶべきではないと主張する。
 このケースは,ショボイ教師のことだけど,次のケースはどうだろう。けっこう,「生徒にだまされたフリをする」教師もいるんじゃないかな。
 B男が担任の私に悩みを打ち明けてきた。
 聞くと,B男は部活を辞めたいという。理由は,父親の家庭内暴力。父親が母親に手を上げている。父親の暴力をやめさせたいけど,母親は相談窓口に行ったりしたら家の問題が世間にさらされることになるから,このままでいいと泣いている。僕は心配で部活どころではない。だから,しばらくは部活を休みたいと思う。
 担任の私は,ウンウンと聞いているが,どうも話がウソくさい。作り話じゃないかと思われる。
 さて,この場合,教師はどんな言葉がけをしたらいいだろう。
 実は,こういうことというのは,ケースバイケースなのでなんとも言えないというのが正直なところなのだが,まあとにかく頭の中でシュミレーションしてみよう。
 今の私だったら,「子どもにダマされたフリをする」。ああ,そうなんだ。わかったよ。部活動の顧問の先生には,私のほうから伝えておくよ。また,悩み事があれば,先生に話してね。と,言って帰すであろう。
 他の教師だったらどうだろう。ウソを見逃さないで追及する教師もいるだろう。親身になって,根掘り葉掘り質問しながら,ほころびを見つけていって,最終的には部活をやめたいんだったら,正直にそう言いなさい,という指導に持っていく場合もあるだろう。
 少し前の私だったら,そうしただろう。けれど,今はそうはしない。
 なぜか。
 いろいろ聞き出すと,生徒はウソを重ねなくてはいけなくなる。そこで,ほころびを見つけ出せればいいんだけど,みつけだせないことも一方で想定される。そうなると,生徒は,結果として,ウソはつき通せばなんとかなるという経験を与えてしまうという可能性が否定できないというのがひとつ。これは,教師にとってもリスクは高くつくし,生徒にとってもよくない。生徒に巣食う悪を助長させてしまう。
 もうひとつは,単に,子どものウソにかかずらうのが面倒くせえということ。なので,そういう思いを抱きながら,ああそうなんだ,と「生徒にダマされたフリをする」。
 実は,この「ダマされたフリ」の指導。私は,正直,指導に迷っている。生徒にとって,「ダマされたフリをする」というのは,本当に教育的なのかどうか。冒頭にあげた,先輩教師や学校長のいうことはよくわかるんだけど,本当にそれでいいのかなあという迷いだ。
 「生徒にダマされたフリをする」というのは,かっこいいことでも何でもなく,私にとっては指導の手抜きのような気がするのも事実なのだ。だから,どうも「生徒にダマされたフリ」というのは,肯定的に受け止められないのだな。

学校は不登校児童の一大拠点ときたもんだ

2008-05-05 22:05:32 | フラグメンツ(学校の風景)
 パラパラと教育雑誌を読んでいたら,不登校について,ユニークな論述があった。
 これだ。

「理念も評価も抜きに,現実として不登校12万人の世界を見てみます。これは一大マーケットです。子どもですから背景に必ず親がいます。学校が関わっていますから,教師という名の直接関係者が7,80万人います。文部科学省が統括し,都道府県教育委員会が所管しているエリアです。
 これだけ専門の人がいるのです,上手くやれるものならとっくに片付いているはずです。ところがそうはなっていない。それどころか,あれこれ手を打っても,更に手だてが必要だという流れになっています。
 これをドライに見つめてみると,学校は不登校児童の一大拠点であるといえます。周辺をうろうろしていれば,関連中小企業として下請け工事(こころのケア)や,一時雇用(スクールカウンセラー)の機会は大いにあります。コンサルタントとして参入し,新しいキーワード(ADHDやアスペルガー,発達障害など)を吹聴し,関連のハウツー商品を売ったりもできます。更に新商品(スクールソーシャルワーカーとか)の売り込みが成功すれば,一気大量お買い上げも夢ではない,こういう図柄になります」
(団士郎「家族パスワード 連載62 青年虐待=若年喰い」『季刊 発達 114号』ミネルヴァ書房)

 おもしれえなあ,昨今の格差社会の現実を,不登校児童と学校関係職にあてはめて論じているわけだ。
 私は,不登校というのは,12万人いる現実のなかで,問題ではなく日常だ,と前に述べたことがある。http://blog.goo.ne.jp/vzz06134/e/d79a71fab628b5a8e4109e4a9984c22f
 私としては,結構見栄をきったつもりだったが,氏は,「学校は不登校児童の一大拠点」と言いやがった。すげえなあ。
 そして,教師は,この不登校の日常を解決するつもりはさらさらないというわけだね。
 なぜなら,この引用にかかったら,格差社会のなかで教育職援助職の連中が,不登校児や保護者を喰っている図柄となっているわけだから。
 なるほどね,私なんかよりも数段上をゆく,アイロニカルな文章。
 まあ,その通りだね。それが現実だね。間違っちゃいねえよ。

家庭訪問の時期である

2008-05-02 23:02:14 | フラグメンツ(学校の風景)
 家庭訪問の時期だ。
 私も,10年の間のこの時期,家庭訪問をしていた。しかし,昨年より特別支援担当となって,普通学級の担任のように数十件の家を1週間でまわるなんていうことはなくなってしまった。今年は,情緒学級の4名の家庭に行くだけとなった。
 この家庭訪問,教師にとってはどうなのだろうね。結構,たいへんかね。ベテラン教師にもなれば,たいへんも何も毎年のことだから,何ということもないだろうけど,新卒担任のように慣れなかったりすると,結構気が重いのかもしれないね。
 私の場合はというと,新卒のころから,家庭訪問はそんなに気の重い仕事ではなかった。わりと楽しんでいたと思う。各家庭では,教師が来訪するわけだから,保護者は仕事を休んだり,部屋を片付けたり,と大いに気を遣う。教師の私にとっては,若い兄ちゃんの時分から気を遣われるわけだから,訪問して悪い気はしなかった。当然,こちらとしても気を遣いつつ訪問する。
 それに,家庭訪問期間というのは,1年の学校生活では非日常の時期でもある。日ごろ校舎のなかで生徒相手に仕事をする教師は,この時期は学校から離れて仕事ができるわけで,普段とは違う気分で過せるのが嬉しかった。
 そんな家庭訪問。家庭を訪問する意義は何か,なんて考えると,訪問することで家庭の様子を伺ったり,これまでの養育について伺ったりということなんだろうけど,私は,そんな意義なんて,どうでもいい感じだった。せいぜい,第一の目的は,保護者の顔を覚えることかな。私は,あまり保護者の顔を覚えるのは得意ではない。だから,15分間の訪問で,しっかりと覚えようと思った。
 その程度のことしか考えないフラチな教師だったから,行ったところで,何かさしあたって知りたいことはないため,実にアバウトな時間の過ごし方となった。別に,家庭の様子を聞かなくても,学級経営上困ることはないわい,という感じ。
 けど,ほかの教師の皆さんは,私のようなフラチな心構えを見習ってはいけません。おそらく,教育雑誌なんか読めば「成功する家庭訪問のコツ」なんていう特集記事があるので,そんなのを読んだらいいよ。もう,私は,この手の記事はフォローしなくなったので,古いソースになるのだが,家庭訪問でちゃんとやりたい向きの人には,堀裕嗣氏の著書がオススメだ。『学級経営力を高める』(明治図書,2005年)。と,オススメするのはいいけど,もう,これ絶版じゃないかしらんね。
 私が,農村地域の中学校に赴任していた頃。この頃の家庭訪問を思い出すと,いろんなことがあった。まず,農村だから家庭をまわるにしたって距離がある。当然,自動車だ。それに赴任地なんて暮らしていたわけじゃないから,赴任した年はどの教師も迷う。同僚の中には前日に下見をしておくなんて,心配性のやつがいたが,私は,そんなことするつもりはサラサラなく,地図を頼りに家を探す。社会科教師が地図を読めんでどうすんじゃいと独り言いながら運転するわけだが,見事に迷う。そして,ケータイで家庭に電話をして教えてもらったりした(これが,デンパがギリギリだったりするのよね)。農村部には,地図にのっていない道があることをそのとき知った。これも,2年目からは,迷わず行けるようになった。
 家庭訪問時期は,農家にとって農繁期にあたるからどこも忙しい。ハウスや野良や土間で親と話をするということもあった。これは,私には新鮮で,それにお互いかしこまらんでいいので好きだった。立ち話だから,長々と話すこともない。そのうえ,話の大半は,ハウスのなかのトマトやメロンの作付けの話でおわる。私には,知らないことばかりなので,何でもかんでも質問する。保護者にとっては,この教師は何しに訪問しているのだろうと思ったのだろう。そして,満足してハウスや野良や土間を後にする。夏に家庭訪問があれば,おそらく,トマトやメロンやスイカやニンジンやと,野菜や果物をいっぱいいただいて帰るのであろうが,残念ながら,この時期はまだ何もできていないので,手ぶらでかえる。
 農村部だろうが,都市部だろうが,どの学級にも片親の家庭がある。30歳を過ぎたあたりから,どうして片親なのかを根掘り葉掘りきけるようになった。若いときには,さすがに聞けなかったね。家庭訪問じゃなくても,後日に生徒との教育相談でもこの手のことは,しっかりと聞くのだが,生徒が知らないこともあるので,やはり保護者に聞いておくのが一番である。しかし,これもいきなり聞くというわけにはならないので,はじめは,生徒のことをいろいろ話して,ころあいをみてということになる。
 3度目の結婚で遠方から越してきた母親の場合は聞くことを整理するのに時間がかかった。離婚して復縁して,また離婚してという家の場合も,生徒の実の父親がだれかを確認するのが大変だった。
 それでも,まだ私の場合は,すべての家庭の保護者に会うことができた。たまに,学校に保護者がやってきたりとか,家に行ったら祖父母が対応したとか,イレギュラーはあるのだけど,保護者に会えないということはなかった。そう思うと,私の学担の10年間は恵まれていたといっていいのかも知れないね。