フィリピンは独特の歴史を持つ国だ。
フィリピンには中世がない。
他のアジアの国にはユネスコに登録される様な中世の歴史的建造物がある。
文明が進歩すれば人類は建築技術を得て文化を発展させる。
しかしフィリピンは中世に至る前にスペインに支配されてしまう。
つまり高度の文明を持たない民族が突如西洋の近代文明に接してしまったのである。
中世という時代のステップを経ずに近代化したため、
他のアジアの国々と大きく違う異色の国なのだ。
言語はマレー語と似ているが立派なイスラム寺院などない。
東南アジアはイスラム教や仏教、ヒンドゥー教などの伝播とともに文明の伝達があったが
フィリピンだけはスペイン人が来るまでそれらの宗教の伝播はほとんどなかったといってよく
文明が進歩する機会に恵まれない不幸な国だったといえる。
フィリピンは「辺境の地」だったのである。
東南アジアではかつてNHK制作のテレビ番組「おしん」の人気が爆発的に高かった。
ところがフィリピンだけは全く人気が出ずに途中で放送中止に追い込まれてしまう。
それは他の東南アジア人とフィリピン人がいかに違うのかを如実に物語っている。
アジア的要素が小さいのである。
フィリピン人の特徴は犯罪の凶悪性にも表れている。
銃で脅して金を巻き上げるのではなく、
いきなり銃で撃ち殺し、そして金を盗って逃げるという荒っぽい犯罪が多い。
それは狩猟民族だった頃の記憶が生々しいからだろう。
フィリピンは凶悪犯罪が多いのだ。
フィリピン人だけは「同じアジア人だから」という見方は通用しないと
考えておくべきかも知れない。
私は1975年4月30日南ベトナム共和国が崩壊したその日
サイゴン市で一部始終を目の当たりにした日本人から
直接その時の模様を聞いたことがある。
現在彼は日本人であるが当時はベトナム人だった。
彼の生い立ちはベトナムと日本との歴史を如実に物語っている。
彼の妻は日越混血女性である。
彼女の父は旧日本帝国陸軍兵で、中国で終戦を迎えた。
その後南下し ベトナムで旧宗主国フランスとの独立戦争に参加する。
インドネシアの独立戦争を日本兵が指揮した話は有名だが
ベトナムにおいても日本兵の果たした役割は大きかったのだ。
ベトナム・ホーチミン市北部にクチという町がある。
そこはクチ・トンネルとして観光名所にもなっている。
VC(ベトコン)がアメリカの大量破壊兵器に対抗する為に掘ったトンネルだが、
おそらくこのアイディアは日本兵から教えられたものと思われる。
フランスとの独立戦争でもトンネルが大いに役立ったからだ。
太平洋戦争時、硫黄島での決戦ではトンネルが米軍を随分苦しめたものだ。
北べトナムは当初日本兵が果たした役割を高く評価し
ベトナムに滞在することを許可した。
その時残った日本兵のほとんどがベトナム人と結婚した。
だが北ベトナムがソ連の衛星国に組み込まれソ連の影響力が増すと
態度を一変させる。
日本兵に対して帰国を命じたのだった。
だが帰国の条件は妻子を残して帰るというものであった。
多くの日本兵はや止む無く妻子と別れ一人で帰国したが
中には妻子を捨てず故郷日本を捨てる者もいた。
私に南ベトナム崩壊の日について語った「元ベトナム人」の妻の父も
そんな日本兵のうちの一人であった。
彼は南ベトナムの首都サイゴンで生活の場を掴み
1975年4月30日再び「終戦」を迎える。
そしてそこで生涯を閉じた。
彼の娘はベトナムで生まれ育ったので伴侶には当然の如く
ベトナム人を選んだ。
そして共産化した統一ベトナムの経済破綻。
ベトナムに生きる道を失った彼らは日本を目指した。
彼女は日本人だが夫は「難民扱い」となった。
彼らの選んだ道は正しかった。
日本に来た彼らは成功者になった。
だが難民の多くは大変な苦労を強いられた。
群馬県のある牧師は難民施設をつくり多くの難民の世話をしたが
結局全ての難民を日本社会に馴染ませることには失敗した。
難民の中には社会に馴染めず非合法な活動をする者もいる。
現在ベトナム人研修生を失踪させて彼らを別の会社に斡旋する 闇業者が存在するが
その元締めは元難民といわれている。
好き好んで祖国を捨てる者などいない。
ろくでもない政府を持つことがどれくらい辛いものか、 日本人には分からないかも知れない。
それが分かる日が来たのならば
それは日本が崩壊する日だろう。
サイゴン市で一部始終を目の当たりにした日本人から
直接その時の模様を聞いたことがある。
現在彼は日本人であるが当時はベトナム人だった。
彼の生い立ちはベトナムと日本との歴史を如実に物語っている。
彼の妻は日越混血女性である。
彼女の父は旧日本帝国陸軍兵で、中国で終戦を迎えた。
その後南下し ベトナムで旧宗主国フランスとの独立戦争に参加する。
インドネシアの独立戦争を日本兵が指揮した話は有名だが
ベトナムにおいても日本兵の果たした役割は大きかったのだ。
ベトナム・ホーチミン市北部にクチという町がある。
そこはクチ・トンネルとして観光名所にもなっている。
VC(ベトコン)がアメリカの大量破壊兵器に対抗する為に掘ったトンネルだが、
おそらくこのアイディアは日本兵から教えられたものと思われる。
フランスとの独立戦争でもトンネルが大いに役立ったからだ。
太平洋戦争時、硫黄島での決戦ではトンネルが米軍を随分苦しめたものだ。
北べトナムは当初日本兵が果たした役割を高く評価し
ベトナムに滞在することを許可した。
その時残った日本兵のほとんどがベトナム人と結婚した。
だが北ベトナムがソ連の衛星国に組み込まれソ連の影響力が増すと
態度を一変させる。
日本兵に対して帰国を命じたのだった。
だが帰国の条件は妻子を残して帰るというものであった。
多くの日本兵はや止む無く妻子と別れ一人で帰国したが
中には妻子を捨てず故郷日本を捨てる者もいた。
私に南ベトナム崩壊の日について語った「元ベトナム人」の妻の父も
そんな日本兵のうちの一人であった。
彼は南ベトナムの首都サイゴンで生活の場を掴み
1975年4月30日再び「終戦」を迎える。
そしてそこで生涯を閉じた。
彼の娘はベトナムで生まれ育ったので伴侶には当然の如く
ベトナム人を選んだ。
そして共産化した統一ベトナムの経済破綻。
ベトナムに生きる道を失った彼らは日本を目指した。
彼女は日本人だが夫は「難民扱い」となった。
彼らの選んだ道は正しかった。
日本に来た彼らは成功者になった。
だが難民の多くは大変な苦労を強いられた。
群馬県のある牧師は難民施設をつくり多くの難民の世話をしたが
結局全ての難民を日本社会に馴染ませることには失敗した。
難民の中には社会に馴染めず非合法な活動をする者もいる。
現在ベトナム人研修生を失踪させて彼らを別の会社に斡旋する 闇業者が存在するが
その元締めは元難民といわれている。
好き好んで祖国を捨てる者などいない。
ろくでもない政府を持つことがどれくらい辛いものか、 日本人には分からないかも知れない。
それが分かる日が来たのならば
それは日本が崩壊する日だろう。
ミャンマーというと私はある日本人のことを思い出す。
現在、彼は名古屋で貿易会社を営んでいる。
私には人生において「師匠」と呼べる人がいなかった。
それは大きな損失で、人生を生きる上で「師匠」に出会うか否か、で全く生き方は変わるはずである。
そんな私であるけれど、少なからず私に影響を与えた人がいる。
それが彼だった。
彼はある企業の駐在員としてタイのバンコクに長く暮らし、
会社からの帰国命令に従わず、退社してタイで起業したガッツのある人だった。
その後、帰国して日本で貿易会社を作り、
大学生だった私はその会社で暫くバイトすることになった。
大学を卒業し、就職して10年間彼に会うことはなかったが、
会社を辞めて東南アジアを旅するうちに彼のことを大変懐かしく感じ、
帰国してまたその貿易会社で仕事させてもらうことになった。
私は彼の話を聞くのが好きで休憩時間は勉強の時間だった。
当時、彼はミャンマーの政府高官と太いパイプを持っていて、
ミャンマーとの貿易に力を入れていた。
彼の会社のメインの業務はマレーシアから合板を仕入れて販売する代理業の仕事であったが、
彼はすっかりミャンマーの虜になっていた。
「ミャンマーはいいぞ、国民はとても親日的だしな。
結構、英語も通じるし、これからはミャンマーに投資しなくちゃな。
日本のマスコミの報道はあまりに偏ってる。
スー・チーなんてオレの知ってる限り誰も彼女を支持してないぞ。
行ってみりゃ本当のことが分かるさ」
こんな話をよく彼はしていた。
「そりゃ、そうだろう」と思った。
よくミャンマーのスー・チーのことをマスコミは「民主化運動の指導者」というがミャンマー人に民主主義の何たるかが分かるはずもない。
あれは「反体制運動の指導者」が正しい。
勿論、反体制が悪いわけではない。
今の体制に不満があるのなら「体制を変えるべき」と主張することは肯定できるが、
彼女の支持者は決して民主主義を理解している訳ではないし、本当に民主化を求めているのかどうかも分からない。
外国で反体制運動が起きると、すぐにそれを民主化運動と断定するマスコミの姿勢にはうんざりする。
反体制運動を行うのは現政権を打倒して、自分たちが指導者になることが目的である。
すぐにその運動を民主主義運動と決め付けるのは間違いである。
日本の明治維新と同じで、薩長は決して日本を民主化しようと試みて幕府を倒したのではない。
彼ら自らが政治を行うことが目的だった。
つまり政権交代が本当の目的であったのだ。
だからこそ民主化も中途半端で、未だに日本は民主主義国といえるかどうか疑わしい。
アラブやアジアの民主化運動の実態とは日本の明治維新と同じなのである。
アラブやアジアには「軍事独裁国」の衣を脱ぎ捨てて、
一応民主主義国の衣を着ている国があるが、果たしてどこまで民主的な国になったのか大変疑わしい。
だが自国の文化を失くし、中途半端に民主主義の真似事をする国より
軍事独裁国家の方が潔い面があるというのは皮肉なことだ。
ミャンマーには独自の素晴らしい文化が残っているという。
けれどもこれから「グローバリゼーションの風」が吹いて来るのであろう。
どの民族にも守るべきものがある。
守らなければ捨てられる。
捨てられたらもう戻らない。
日本人にはもう守るべきものは残っていないのだろうか?
守るべきものは全て捨ててしまったというのだろうか?
ミャンマーよ、一体どこへ行く?
「日本行き列車」に乗って終着駅まで行くつもりか?
現在、彼は名古屋で貿易会社を営んでいる。
私には人生において「師匠」と呼べる人がいなかった。
それは大きな損失で、人生を生きる上で「師匠」に出会うか否か、で全く生き方は変わるはずである。
そんな私であるけれど、少なからず私に影響を与えた人がいる。
それが彼だった。
彼はある企業の駐在員としてタイのバンコクに長く暮らし、
会社からの帰国命令に従わず、退社してタイで起業したガッツのある人だった。
その後、帰国して日本で貿易会社を作り、
大学生だった私はその会社で暫くバイトすることになった。
大学を卒業し、就職して10年間彼に会うことはなかったが、
会社を辞めて東南アジアを旅するうちに彼のことを大変懐かしく感じ、
帰国してまたその貿易会社で仕事させてもらうことになった。
私は彼の話を聞くのが好きで休憩時間は勉強の時間だった。
当時、彼はミャンマーの政府高官と太いパイプを持っていて、
ミャンマーとの貿易に力を入れていた。
彼の会社のメインの業務はマレーシアから合板を仕入れて販売する代理業の仕事であったが、
彼はすっかりミャンマーの虜になっていた。
「ミャンマーはいいぞ、国民はとても親日的だしな。
結構、英語も通じるし、これからはミャンマーに投資しなくちゃな。
日本のマスコミの報道はあまりに偏ってる。
スー・チーなんてオレの知ってる限り誰も彼女を支持してないぞ。
行ってみりゃ本当のことが分かるさ」
こんな話をよく彼はしていた。
「そりゃ、そうだろう」と思った。
よくミャンマーのスー・チーのことをマスコミは「民主化運動の指導者」というがミャンマー人に民主主義の何たるかが分かるはずもない。
あれは「反体制運動の指導者」が正しい。
勿論、反体制が悪いわけではない。
今の体制に不満があるのなら「体制を変えるべき」と主張することは肯定できるが、
彼女の支持者は決して民主主義を理解している訳ではないし、本当に民主化を求めているのかどうかも分からない。
外国で反体制運動が起きると、すぐにそれを民主化運動と断定するマスコミの姿勢にはうんざりする。
反体制運動を行うのは現政権を打倒して、自分たちが指導者になることが目的である。
すぐにその運動を民主主義運動と決め付けるのは間違いである。
日本の明治維新と同じで、薩長は決して日本を民主化しようと試みて幕府を倒したのではない。
彼ら自らが政治を行うことが目的だった。
つまり政権交代が本当の目的であったのだ。
だからこそ民主化も中途半端で、未だに日本は民主主義国といえるかどうか疑わしい。
アラブやアジアの民主化運動の実態とは日本の明治維新と同じなのである。
アラブやアジアには「軍事独裁国」の衣を脱ぎ捨てて、
一応民主主義国の衣を着ている国があるが、果たしてどこまで民主的な国になったのか大変疑わしい。
だが自国の文化を失くし、中途半端に民主主義の真似事をする国より
軍事独裁国家の方が潔い面があるというのは皮肉なことだ。
ミャンマーには独自の素晴らしい文化が残っているという。
けれどもこれから「グローバリゼーションの風」が吹いて来るのであろう。
どの民族にも守るべきものがある。
守らなければ捨てられる。
捨てられたらもう戻らない。
日本人にはもう守るべきものは残っていないのだろうか?
守るべきものは全て捨ててしまったというのだろうか?
ミャンマーよ、一体どこへ行く?
「日本行き列車」に乗って終着駅まで行くつもりか?