日々の思い

日常の出来事、思いを書き続けて、自分を見つめて行きたいと思っています。

宇治田原 川辺の桜 Ⅰ

2015-04-12 08:14:04 | 日記
「誰かが墓から主を取っていきました。主を何処に置いたのか、私達には解りません。」(ヨハネの福音書20章2節)すると2人の御使いが座っていた。。。するとイエスが立っておられるのを見た。しかし彼女にはイエスであることが解らなかった。。。彼女はそれを管理人と思い「あなたがあの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言って下さい。そうすれば私が引き取ります。」イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は「先生。」と言った。(13~16節)。。。イエスは来られ「、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにある様に。」(19節)



7日は雨でしたが、山も野も鮮やかな色に染まっていました。田原川に沿って植えられた桜も段々大きくなり、その日は見頃でした。唯川は土砂を撤去されたのか、流は早くなりましたが、毎年草が生え桜の花びらが流れる様が美しいのですが、それが無くなって散り花は土壌だけになりました。風景は毎年少しづつ変るものですね。



この道も何度来たやら。側の茶畑に花びらが散っています。







まだ余り整備されていない部分があります。土砂の撤去しないと近年の風雨の強さに耐えられず、水害がこの地にも少しですが起きる様になりました。今や宇治の天ケ瀬ダムも工事中です。また塔の島の工事も木の伐採は周囲の説明が少なかった様ですが、宇治川の流水を早める目的があったのでしょう。







人を入れたいのですが、見ないですね。まだ早かったのかな?









散り桜は茶畑や岸に溜っています。間もなくからし菜や八重桜が美しくなるでしょう。若葉もとっても美しくて、また次は少し低い山に上がり撮ってみたいです。

上の言葉
(イエスの死体は墓に置かれ、入口を大きな重い石で封鎖されました。翌日マグダラのマリア等が見に行くとその大きな石が転がって、中を見れば、死体を蒔いてあった布や頭を蒔いていた布がすっぽりとあって、死体が無かったのです。マリアはペテロなどに知らせました。中に御使いが死体の置かれていた頭の方に一人、足の方に一人、おられました。そしてマリアにイエスは現れましたが、マリアは気づきません。何故?人間は死んだ人が生き帰るなんて想像もしないし、咄嗟に復活されそこにイエスが来られても解りません。声を聞き、マリアはハッとしたのです。復活の主です。

こんな事信じられない!と思われるでしょうが、伝道中のイエスは絶えず、弟子に私は蘇る、と言ってられました。後にまた書きますが、これが嘘なら弟子達が殺される世でしたから、死を覚悟で世界に出て行き証し、伝道しなかったでしょう。
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