雑談の達人

初対面の人と下らないことで適当に話を合わせるという軽薄な技術―これがコミュニケーション能力とよばれるものらしい―を求めて

頼む、お願いだから絶望させてくれ!

2010年11月13日 | その他の雑談
筆者もオッサンの仲間入りを果たし、しみじみと感じいるようになったことがある。つまり、それを端的に言うと、絶望のすばらしさである。人生にすっかり絶望してからというもの、毎日を軽やかに生きられるようになった。「絶望する」とは、いわば悟りの境地に達することではないか。

筆者は、有言実行の男である。先のエントリでも記したように、自分の限界というものをトコトンわきまえているつもりだ。今後の筆者の人生で、大どんでん返しはまず考えられない。確かに、突然の不慮の事故や不幸に巻き込まれる可能性は否定できないが、おそらくは平凡極まりない一営業マンとして、これといったことも成し遂げず、地味に人生を終えるのだろう。

このような考えが、無理なく自然に腑に落ちるようになると、物事に対する見方が劇的に変わる。仕事のトラブルに見舞われても、だから何だと言うのだ。風に舞う砂塵にも等しい自分が、下らない仕事の一つや二つでうろたえたところで、全く無にも等しい。とりあえず頭を下げておけばよい。頭を下げた相手側も時間がたてば、当の問題は言うまでもなく、いつの日かこちらの存在さえ完璧に忘れてしまっていることだろう。

馬鹿な取引先や間抜けな元上司すら、アホなりに懸命に生きている様子を眺めていると、最早微笑ましく思えてきて、その愚かさを祝福してやりたくなる。当の本人以外の第三者から見れば、どうでもいいことに狂ったように執着するのも、何がしかの希望を捨てられないからだろう。

池田信夫氏は、閉塞仕切った日本社会を生き抜くスキルとして、希望を捨てる勇気を説いた。

希望を捨てる勇気―停滞と成長の経済学
池田 信夫
ダイヤモンド社

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希望を捨てることにより、絶望が手に入る。絶望とは、自分の人生に無用な期待をしないことである。いわば、悟りの境地と言ってよい。絶望を体得することにより、ほぼあらゆるストレスから解放される。人間のストレスの大半は、手に入らないものを求め、分からないことを知りたがり、身分不相応なものになろうとすることに起因する。

このような絶望の素晴らしさが予めわかっていれば、希望を捨てることに勇気など要らない。如何に早々と希望を捨て、絶望の境地に至るかこそが、人生の至上の目標なのだ。

しかし、実際のところ、世間はなかなか絶望の素晴らしさを認めようとしないようだ。いや、むしろ隠ぺいしようとさえしている。絶望が鬱や自殺の原因だとしたり顔でかたる自称専門家や、希望を持ち夢を追いかけ続けることの素晴らしさを延々と説く偽善者どもで溢れかえっている。こちらが人生に絶望していると見るや、必死で励まそうとさえしてくる。やめてくれ、せっかく絶望できたんだ。どうしてまた希望という名の毒を盛るようなマネをするんだ……

……おそらくは、皆が皆、絶望の甘美さに気づくと、困る人たちが少なからず居るのだろう。希望という常習性の極めて強い麻薬の売買で生計を立てている人は、計り知れないほど多いのだ。

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