とっても今さらですが。
6月24日発売の、『an・an 7月1日号』は、
わたしの大好きなななちゃん、松嶋菜々子さんが表紙でした。
これについて、ずーーーーっと言いたくて言いたくて、でもそこまで目くじらを立てなくてもいいかなと自分に言い聞かせ、でもやっぱり言いたい!ということで、今さらこうして書いています。
そうです。目くじらです。わたしは怒っているのです。ぴーっ
。
何に対して怒っているかって、この特集記事のタイトルです。
コンビニでも大量に並ぶこの雑誌、たくさんの方の目に触れたことと思いますが、みなさま、タイトルを覚えていらっしゃいますでしょうか。
「松嶋菜々子的な生き方」です。
わかってもらえますか。わたしの怒り。
「松嶋菜々子的な生き方」とはなんですか。どうして「松嶋菜々子の生き方」じゃないんですか。許せません。ぴーっ
というわけです。
ここはファンとして、強く申し上げます。
ななちゃんの魅力は、ななちゃんが自分とは別に作り上げたキャラクターにあるわけではない(と思っている)のです。ななちゃんの魅力は、ななちゃんがななちゃん自身として磨き上げたものにある(と思っている)のです。誰かが真似できるものではないし、誰かに真似されるようにもできていないのです。
容姿やファッションや言動が誰の目に見ても特徴的でわかりやすく、それを見た人が憧れて、自分もやってみようと思って楽しむ、そういうキャラクターを作り上げているタイプの人もいます。でもななちゃんは違う(と思う)のです。そういう人じゃない(と思う)のです。「わたしはこれが一番いいと思ってこうなりました。」だから「このわたしを、わたしとして評価してください」というのがななちゃん(のはず)なのです。「みんながやりたいと思っていることを、わたしがやってみたよ。そしたらこんなにかわいくなったよ。だからみんなもわたしについてきて!」ということではないのです。
「~的」の「~」に後者のタイプの人を当てはめるのはわかります。みんながやりたいと思っていて、でもどうやったらいいかわからなかったり、やりたくてもそれぞれの事情でできなかったりする。そういうときに代弁者となって、みんなの代りをやって、みんなの方向性を指し示してくれる人の存在というのは、「~的」になると思うのです。みんなの代弁者だから「~的」の「的」にすでに「みんなが望んでいたこと」が入っている。でもななちゃんは違うのです。「松嶋菜々子的」の「的」に「みんな」は入らない(と思う)のです。「的」の中にも「松嶋菜々子」しかいない(と思う)のです。だから「~的」というのは、ななちゃんには似合わないし、必要ない(と思う)のです。
そもそも「~的」というのは、「~」以外や、あるいはその周辺のものも巻き込んだ言い方です。ななちゃんは周辺のものを巻き込んで自分のキャラクターを作った人ではないのです。周辺のものとは無関係に、自分がやりたいと思っていることを一から順番にやっている人なのです。それをみんなに見せている人なのです。それがななちゃんの魅力なのです。
『an・an 2009.7.1号No.1665』をお持ちの方へ。
表紙の右上に「松嶋菜々子的な生き方」と書いてあると思いますが、「的な」の上に、ぜひとも黒の太いサインペンで「
の」と書いてください。
数十年後、きっとオークションで高く売れます。