「予算」についてどう思っていますか。
ある日の朝礼で、このキーワードが出ました。
予算。
わたしたちの仕事のひとつは、毎月、決められた予算を達成することにあります。
数字に出てくる成果として、まずはこの予算の達成を目指して働いているわけです。
その「予算」、要するに「数字」を追うことに、疑問を感じているスタッフがいないかどうか、それを懸念した社員さんの発言でした。
正解、不正解はおいておきます。
わたしにとっての予算は何だろう、と改めて考えてみました。
予算を追うことに疑問を感じていないかと聞かれて、わたしは特に感じていません、と答えました。
でもそう答えた後で、どうして疑問に感じていないのだろう、と思いました。
わたしは、自分のしている仕事と、結果としての数字を、どういう結びつきで捉らえているのだろう、と。
森のレストランで働くわたしにとっての数字は、「わたしたちが、人(社会)からどれだけ求められたか」を表す物差しのひとつだと思っています。
数字が大きければ大きいほど、わたしたちは社会から多くを求められている、という捉らえ方です。
わたしは思うのだけど、人が何かを購入するとき、その時点ではそのモノの価値はわからないことがほとんどです。同じものを買うにしても、それが必ずしも前回と同じだけの価値を提供してくれるとは限らない。
わたしたちは、支払うものに相当するだけの対価が得られるであろうという、あくまで予測のもとに、モノを購入しています。
たとえば、500円の「あらめ」を食べようと思うお客様は、あらめに500円の価値があるであろうと予想(あるいは信用)して、あらめを注文するのであり、結果、それが500円に相当する満足を与えることができなくても、500円という対価はすでに発生しているわけです。
だからわたしが考える結果としての数字の意味は、「お客様からどれだけの期待を寄せられているか」を教えてくれる値であり、「その期待にわたしたちはきちんと応えられただろうか」を顧みるための道標であり、「その期待をより高めたい」と思わせてくれる、成長への足掛かりである、と言うことができます。
なんて、毎日そんなことを頭のてっぺんに掲げて働いているわけでは、もちろんないのだけどね。
ここまで意見を述べておいてなんですが、たぶんわたし、あんまり数字は気にしていません。きれいさっぱり正直に言えば、数字はわたしの興味の対象外です。すんごい忙しくて疲れた日に、それなりの数字を聞くと安心できる、というのはあるけれどね。だって、全力疾走したのに、歩いてただろ、なんて言われたらたまらないもん。
それでも予算達成を追うことに疑問を抱かないのは、単純に、自分の仲間がその目標に向かってがんばっているからだと思います。がんばっている仲間を見て、自分がそれに協力できなかったら、それはもう嘘だからね。
森のレストランをいいお店にしたい。そのために一緒に働いている仲間が、その目標達成のために追っている数字なら、わたしもその数字を一緒に追い掛けてみようと思う。自然とね。
そう。自然なことだから、疑問はなかったんだね。
ある日の朝礼で、このキーワードが出ました。
予算。
わたしたちの仕事のひとつは、毎月、決められた予算を達成することにあります。
数字に出てくる成果として、まずはこの予算の達成を目指して働いているわけです。
その「予算」、要するに「数字」を追うことに、疑問を感じているスタッフがいないかどうか、それを懸念した社員さんの発言でした。
正解、不正解はおいておきます。
わたしにとっての予算は何だろう、と改めて考えてみました。
予算を追うことに疑問を感じていないかと聞かれて、わたしは特に感じていません、と答えました。
でもそう答えた後で、どうして疑問に感じていないのだろう、と思いました。
わたしは、自分のしている仕事と、結果としての数字を、どういう結びつきで捉らえているのだろう、と。
森のレストランで働くわたしにとっての数字は、「わたしたちが、人(社会)からどれだけ求められたか」を表す物差しのひとつだと思っています。
数字が大きければ大きいほど、わたしたちは社会から多くを求められている、という捉らえ方です。
わたしは思うのだけど、人が何かを購入するとき、その時点ではそのモノの価値はわからないことがほとんどです。同じものを買うにしても、それが必ずしも前回と同じだけの価値を提供してくれるとは限らない。
わたしたちは、支払うものに相当するだけの対価が得られるであろうという、あくまで予測のもとに、モノを購入しています。
たとえば、500円の「あらめ」を食べようと思うお客様は、あらめに500円の価値があるであろうと予想(あるいは信用)して、あらめを注文するのであり、結果、それが500円に相当する満足を与えることができなくても、500円という対価はすでに発生しているわけです。
だからわたしが考える結果としての数字の意味は、「お客様からどれだけの期待を寄せられているか」を教えてくれる値であり、「その期待にわたしたちはきちんと応えられただろうか」を顧みるための道標であり、「その期待をより高めたい」と思わせてくれる、成長への足掛かりである、と言うことができます。
なんて、毎日そんなことを頭のてっぺんに掲げて働いているわけでは、もちろんないのだけどね。
ここまで意見を述べておいてなんですが、たぶんわたし、あんまり数字は気にしていません。きれいさっぱり正直に言えば、数字はわたしの興味の対象外です。すんごい忙しくて疲れた日に、それなりの数字を聞くと安心できる、というのはあるけれどね。だって、全力疾走したのに、歩いてただろ、なんて言われたらたまらないもん。
それでも予算達成を追うことに疑問を抱かないのは、単純に、自分の仲間がその目標に向かってがんばっているからだと思います。がんばっている仲間を見て、自分がそれに協力できなかったら、それはもう嘘だからね。
森のレストランをいいお店にしたい。そのために一緒に働いている仲間が、その目標達成のために追っている数字なら、わたしもその数字を一緒に追い掛けてみようと思う。自然とね。
そう。自然なことだから、疑問はなかったんだね。