市長の施政方針で触れられている「新しい公共」「地域主権改革」「子ども子育て新システム」とは、より具体的にはどういうものなのでしょうか?
●「新しい公共」
「新しい公共」の前身は「新しい公共空間」という小泉内閣時代に出てきた考え方です。「新しい公共空間」とは、公共サービスの担い手をこれまでの「行政」から、「民間」「地域」へと拡大していくというもので、いわゆる「官から民へ」という言葉で象徴されます。この推進は公共サービスに対する「行政責任の縮小」と表裏一体です。
「新しい公共」は名前は変えたものの、これをほぼそのまま引き継ぎ、具体化をはかることが「新しい公共円卓会議」の目的であったと理解してよいと思います。
さて、鳩山前首相がこの「新しい公共円卓会議」を設置した目的は何だったのか、ということですが、これは「会議」が報告書のとりまとめに入る直前におこなわれた「新しい公共オープンフォーラム」での鳩山前首相の挨拶の中に見ることができます。
・・・もともとは阪神・淡路大震災のときにボランティア活動の皆様方の姿を見て・・・ここに「新しい公共」の今日的な芽を見たように思っておりました。・・・コスト的にはむしろ安上がりのシステムというものをつくり上げている姿を拝見しました。
実は「新しい公共円卓会議」の議事録には「コスト」という言葉は「行政のコスト削減」という意味ではほとんど出てきません。それどころか、「コスト削減という行政が自分の都合で民に出したいものを出すのではなく」とか「コスト(削減)で下請けに出したというところが一番問題」などという議論すら交わされていました。
なぜ「新しい公共円卓会議」は「(行政の)コスト(削減)」という言葉を使わなかったのか、ということですが、実はここがポイントです。
今の社会、国と国民の関係、行政と市民の関係は対等でしょうか・・・「対等であって欲しい」とは思っても、「対等である」とはなかなか言えない現状だと思います。
「新しい公共」とは、国の側からの国民に対する提案です。「公共サービスを行政まかせではなく、もっと国民が自分たちで担って欲しい」ということです。ここだけ聞く分には国民も「そうか、それなら考えてみようかな」となるかも知れません。
ところが、ここに「行政のコスト削減」という言葉が出た途端、「行政のコスト削減のために、公共サービスを国民に肩代わりさせるのか」という理解へと変わります。それが「副産物としてのコスト削減」だとしてもです。
同時に、鳩山前首相は「地域のさまざまな活動に対して補助金という形で、ある意味押しつけて、口を開けてて同じようなメニューを強引に押し込むというやり方ではなくて・・・どのような仕事・事業が必要かを国民一人一人が決める社会にしていきたい。その意味では寄付税制が大変意味を持つ・・・寄付のしやすいような税制のあり方をつくり上げてまいりたい」とも述べています。
円卓会議では、寄付を促進する税制のあり方についての検討はされていますが、補助金を削って寄付に切り替えていくという議論はされていません。「新しい公共」に対する政府のホンネは出ないまま、仕組みだけがつくられてきたワケです。
こうした私の指摘に対し、本郷谷市長は「(鳩山前首相の挨拶に対する)受け止めの違い」と答弁されましたが、これは「行政側の受け止め」です。「市民側の受け止め」は「人々が協働し、自発的に支え合う社会・・・と言っても、結局は行政のコスト削減のために市民が何かを肩代わりさせるのだろう」と考えるのは当然です。
「新しい公共円卓会議」が積み上げてきた「行政コスト削減のための下請けづくりではない」という議論が、鳩山前首相のうっかり発言で台無しになり、結果として「新しい公共宣言」には、「新しい公共によって・・・社会コストが低い・・・コミュニティが形成されるだろう」という文言が入ることとなりました。
代表質問では、本郷谷市長の施政方針にある「『新しい公共』円卓会議が設置され、人々の支え合いと活気のある社会をつくるために、さまざまな当事者の自発的な協働の場づくりが進められており、自治体としての取り組みもますます重要となっております」という文言について、「市長の言う『自治体としての取り組み』とは『新しい公共』のホンネである『行政コスト削減のための下請けづくり』ではないと理解してよいか」と問いました。
市長は「行政の肩代わりをさせる仕組みをつくろうというものではない」と答弁されました。・・・国の「新しい公共」とは一線を画す、という重要な答弁でした。今後は、この答弁を貫くことができるか、しっかり見ていかなければなりません。
続く
●「新しい公共」
「新しい公共」の前身は「新しい公共空間」という小泉内閣時代に出てきた考え方です。「新しい公共空間」とは、公共サービスの担い手をこれまでの「行政」から、「民間」「地域」へと拡大していくというもので、いわゆる「官から民へ」という言葉で象徴されます。この推進は公共サービスに対する「行政責任の縮小」と表裏一体です。
「新しい公共」は名前は変えたものの、これをほぼそのまま引き継ぎ、具体化をはかることが「新しい公共円卓会議」の目的であったと理解してよいと思います。
さて、鳩山前首相がこの「新しい公共円卓会議」を設置した目的は何だったのか、ということですが、これは「会議」が報告書のとりまとめに入る直前におこなわれた「新しい公共オープンフォーラム」での鳩山前首相の挨拶の中に見ることができます。
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・・・「新しい公共」という切り口を、これから政府がそれとなく支えることが・・・副産物として・・・安上がりの社会にしていくことも可能ではないかとさえ思っているわけでございます。・・・もともとは阪神・淡路大震災のときにボランティア活動の皆様方の姿を見て・・・ここに「新しい公共」の今日的な芽を見たように思っておりました。・・・コスト的にはむしろ安上がりのシステムというものをつくり上げている姿を拝見しました。
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こうした「(行政の)コスト(削減)」という言葉が4時間フォーラムで13回出てきますが、鳩山前首相の挨拶の中だけで11回も出てきます。実は「新しい公共円卓会議」の議事録には「コスト」という言葉は「行政のコスト削減」という意味ではほとんど出てきません。それどころか、「コスト削減という行政が自分の都合で民に出したいものを出すのではなく」とか「コスト(削減)で下請けに出したというところが一番問題」などという議論すら交わされていました。
なぜ「新しい公共円卓会議」は「(行政の)コスト(削減)」という言葉を使わなかったのか、ということですが、実はここがポイントです。
今の社会、国と国民の関係、行政と市民の関係は対等でしょうか・・・「対等であって欲しい」とは思っても、「対等である」とはなかなか言えない現状だと思います。
「新しい公共」とは、国の側からの国民に対する提案です。「公共サービスを行政まかせではなく、もっと国民が自分たちで担って欲しい」ということです。ここだけ聞く分には国民も「そうか、それなら考えてみようかな」となるかも知れません。
ところが、ここに「行政のコスト削減」という言葉が出た途端、「行政のコスト削減のために、公共サービスを国民に肩代わりさせるのか」という理解へと変わります。それが「副産物としてのコスト削減」だとしてもです。
同時に、鳩山前首相は「地域のさまざまな活動に対して補助金という形で、ある意味押しつけて、口を開けてて同じようなメニューを強引に押し込むというやり方ではなくて・・・どのような仕事・事業が必要かを国民一人一人が決める社会にしていきたい。その意味では寄付税制が大変意味を持つ・・・寄付のしやすいような税制のあり方をつくり上げてまいりたい」とも述べています。
円卓会議では、寄付を促進する税制のあり方についての検討はされていますが、補助金を削って寄付に切り替えていくという議論はされていません。「新しい公共」に対する政府のホンネは出ないまま、仕組みだけがつくられてきたワケです。
こうした私の指摘に対し、本郷谷市長は「(鳩山前首相の挨拶に対する)受け止めの違い」と答弁されましたが、これは「行政側の受け止め」です。「市民側の受け止め」は「人々が協働し、自発的に支え合う社会・・・と言っても、結局は行政のコスト削減のために市民が何かを肩代わりさせるのだろう」と考えるのは当然です。
「新しい公共円卓会議」が積み上げてきた「行政コスト削減のための下請けづくりではない」という議論が、鳩山前首相のうっかり発言で台無しになり、結果として「新しい公共宣言」には、「新しい公共によって・・・社会コストが低い・・・コミュニティが形成されるだろう」という文言が入ることとなりました。
代表質問では、本郷谷市長の施政方針にある「『新しい公共』円卓会議が設置され、人々の支え合いと活気のある社会をつくるために、さまざまな当事者の自発的な協働の場づくりが進められており、自治体としての取り組みもますます重要となっております」という文言について、「市長の言う『自治体としての取り組み』とは『新しい公共』のホンネである『行政コスト削減のための下請けづくり』ではないと理解してよいか」と問いました。
市長は「行政の肩代わりをさせる仕組みをつくろうというものではない」と答弁されました。・・・国の「新しい公共」とは一線を画す、という重要な答弁でした。今後は、この答弁を貫くことができるか、しっかり見ていかなければなりません。
続く