平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

関宿にゆかりのある武将・織田信孝

2010年07月31日 | 戦国時代

 関宿を散策していたら、織田信孝の菩提所があった。 そういえば、織田信長の三男・織田信孝は三重県・鈴鹿の神戸氏の養子となって跡を継いでいることを思い出した。 信長は、ここまで攻め入っていたのである。  1558年生まれの織田信孝の側室は伊勢鹿伏兎氏庶流の坂氏である。 後に、信孝が秀吉に降伏したとき、人質として差し出した生母・坂氏、側室の神戸の板御前は秀吉によって殺されている。 

 信孝は、次男信雄より数日先に生まれたのであるが、母・坂氏の身分が低く、また信長に報告するのが遅かったため、三男とされたと言われている。 1568年、信長が伊勢国を平定した際に、降伏した神戸城主・神戸具盛の養子となり、具盛が信長によって隠居させられた後は、神戸氏を継いだ。 本能寺の変直前の1582年四国征伐では総司令官に任ぜられ、所領北伊勢・鈴鹿、伊賀・甲賀・雑賀の他国衆も集めて遠征軍を組織すると、副将には織田氏の宿老丹羽長秀や従兄弟の津田信澄らを置いた。

土田弥平次  
 ┣  
生駒吉乃1528-1566
  ┣1織田信忠1557-1582(岐阜城主)二条御所(本能寺の近く)で討死
 ┃ ┣秀信1580-1605(三法師)本能寺の変時に清洲城へ非難 
 ┃ ┣秀則1581-1625(秀信と共に関ヶ原合戦で西軍)
 ┃┏森可成(祖は河内源氏・源義家)娘(徳寿院)
 ┃┣森可隆1552-1570
 ┃┣森長可1558-1584小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃  ┣-   督姫1565-1615(家康次女)
 ┃┃┏━娘   ┣池田忠雄1602-1632(鳥取藩祖)
 ┃┃┃    ┃┣池田光仲1630-1693(初代鳥取藩主)
 ┃┃┃    ┃三保姫┣池田綱清1648-1711(2代)
 ┃┃┃    ┃茶々姫(徳川頼宣娘)┃┣池田吉泰1687-1739(3代)
 ┃┃┃    ┃        式姫┃┃  ┣池田宗泰1717-1747(4代)
 ┃┃┃    ┃      菊子(側室)敬姫 中村氏┣池田重寛1746-1783(5代)
 ┃┃┃    ┃        (徳川綱紀娘)  久姫  ┃ ┣池田治道1768-1798(6代)
 ┃┃┃    ┃             (徳川宗直娘) 律姫┃ ┃┣池田斉邦
 ┃┃┃    ┃                  上氏(側室)┃於三保
 ┃┃┃    ┃                    生姫(伊達重村娘)
 ┃┃┃    ┣池田忠継1599-1615 榊原忠次1605-1665(姫路藩主)
 ┃┃┃    ┣池田輝澄1604-1662   ┗榊原政房1641-1667(姫路藩2代)
 ┃┃┣━池田輝政1565-1613(姫路城主)   ┣榊原政倫1665-1683(姫路藩3代)
 ┃┃┃    ┣池田利隆1584-1616  ┏富幾 ┣榊原政邦1675-1726
 ┃┃┃中川清秀娘・糸姫┣池田光政1609-1682 鍋島娘┗榊原政祐1705-1732(養子)
 ┃┃┃        ┃┣池田政言1645-1700    ┗榊原政岑1713-1743(養子)   
 ┃┃┃        ┃┣池田綱政1638-1714(岡山藩主 後楽園を造営)   
 ┃┃┃        ┃┃┣池田吉政1678-1695    
 ┃┃┃        ┃┃千子(丹羽光重娘)    
 ┃┃┃        ┃┣奈阿姫   
 ┃┃┃        ┃勝姫(本多忠刻娘)   
 ┃┃┃        ┣池田恒元1611-1671   
 ┃┃┃     柳原康政娘・鶴姫(徳川秀忠養女)
 ┃┃┣━池田長吉1570-1614
 ┃┃┃  ┣池田長幸1587-1632(備中松山初代城主)
 ┃┃┃ 伊木忠次娘  ┣長常,長信
 ┃┃┃      松子,宮子(森忠政娘)
 ┃┃┣━池田元助1559
 ┃┃┃ 片桐半右衛門娘
 ┃┃┃  ┣-
 ┃┃┣━池田長政1575-1607(母:荒尾善次娘 犬山城にて生)
 ┃┃┃  ┣池田長明1606-1678(伊賀守)
 ┃┃┃加藤嘉明娘┣長重 
 ┃┃┃     ┣長久1645-1697
 ┃┃┃     妾 ┣長喬1676-1723
 ┃┃┃      香昌院 ┣長處1696-1754
 ┃┃┃         峯松院 ┣長仍1725-1796
 ┃┃┃             妾 ┗長玄1741-1814
 ┃┃┃                 ┗-
 ┃┃┃
 ┃┃┣━━若御前   菊亭晴季(越後流罪)1539-1617娘
 ┃┃┃日秀┣-      ┣
 ┃┃┃ ┣豊臣秀次1568-1595(高野山で切腹)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀勝1569-1592小吉(妻は淀の妹お江与 朝鮮で病死)
 ┃┃┃ ┣豊臣秀保1579-1595
 ┃┃┃三好吉房1522-1600
 ┃┃池田恒興1536-1584(信長の乳兄弟)清洲会議の宿老 小牧・長久手の戦で討死
 ┃┃                    ↑
 ┃┣森蘭丸1565-1582(長利)本能寺の変で討死 【小牧長久手戦】
 ┃┗森忠政1570-1634
 ┗━━━━━━┓              ↓
        ┣2織田信雄1558-1630(本能寺の変時に伊勢に撤退 宇陀松山藩初代)
        ┃ ┃┣高長1590-1674(宇陀松山藩2代藩主)   
        ┃ ┃┃ ┣長頼1620-1689(宇陀松山藩3代藩主)  
        ┃ ┃┃富田氏      ┣信武1655-1694(宇陀松山藩3代藩主)
        ┃ ┃久保三右衛門娘  津川氏   
        ┃ ┣秀雄1583-1610(亀山城主 関ヶ原合戦で西軍)   
 ┏織田信広-1574┃北畠具教娘(千代御前) 
織田信秀    ┣徳姫(見星院)1559-1636 
   1510-1551 ┃  ┣登久姫                 毛利輝元娘
        ┃  ┃  ┣熊姫┏━━5勝長-1582岩村城主 二条御所で討死┣-  
       ┃  ┃徳川信康┃┏━4羽柴秀勝1568-1586(母不祥)丹波亀山城で病死 
       ┃  ┃    ┃┃┏3信孝1558-1583(母坂氏)伊勢神戸氏継ぐ 四国征伐
      ┗織田信長 1534-1582

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壬申の乱の頃から栄えた伊勢鈴鹿の関の宿場町

2010年07月30日 | 奈良・飛鳥時代

 三重県亀山市にある関宿は、東海道五十三次の47番目の宿場である。 古代から交通の要衝で、壬申の乱の頃に古代三関の一つ「伊勢鈴鹿の関」が置かれたところでもある。 江戸時代には、東の追分からは伊勢別街道、西の追分からは大和街道が分岐する活気ある宿場町であり、古い町並みが保存され、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。  672年に起きた日本古代最大の内乱である壬申の乱(天智天皇の太子・大友皇子に対して皇弟・大海人皇子が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたもの) の舞台であり、また「斎王群行の道」 (皇女が天照大神に身をささげるべく、京都から伊勢神宮を目指した) であり、本能寺の変における「家康伊賀越えの道」などで知られる街道に、この関宿があったのである。 1601年に徳川幕府が宿駅の制度を定めて以来、屈指の宿場として参勤交代の大名行列や伊勢詣りの旅人で大いに賑わい、屋敷632軒、本陣2軒と脇本陣2軒、旅籠42軒酒食店99軒があったという。

 

 実はここ関宿には「ぽ庵」という、わんこと一緒に休める休憩処があるということもあって、訪ねてみたが大変趣き深く、太古より賑わっていただけあって、宿場町の東西は1km以上はあったと思います。

 

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日本武尊が病で命を落とした地・能褒野墓

2010年07月29日 | 記紀創世紀

 伊勢神宮ばかりでは飽きるので、伊勢神宮に向かう途中で立ち寄った「ヤマトタケルノミコト」の陵墓を紹介します。 ここは鈴鹿サーキットで知られる三重県鈴鹿です。 まさに伊勢神宮に斎王が群行するときの通り道に日本武尊の陵墓が宮内庁によって管理されているのです。 日本武尊は倭姫命の甥にあたり、西暦72年(景行2年)第十二代景行天皇の第二皇子として生まれる。 110年(影行40年)、父である景行天皇の命により西征して熊曾建・出雲建を討伐した後、東国征討を命じられ、「草薙の剣」を携え東国へ向かいます。 途中、相模国(現 ・神奈川県)で賊に遭い、草原に誘い込まれて周りを炎で囲まれるも、この「草薙の剣」で草をなぎ払って窮地を脱し、平定したという。 これが草薙の剣の由来です。 この剣、倭姫命から授かったもので三種の神器のひとつです。 生涯を戦に明け暮れた日本武尊は113年(景行43年)、伊勢能褒野(現 ・三重県鈴鹿郡)で病により命を落としています。 ということで、伊勢神宮に詣でる途中の能褒野墓へ行って参りました。 能褒野墓は能褒野神社の境内内にある全長90mの前方後円墳で、約20基の陪塚に囲まれておりました。 陪塚というのは、日本武尊に仕えていた家臣の墓のことで、主人が亡くなると家臣はすべて後を追って葬られていたのです。  日本武尊は能褒野の地に陵を作ったが、八尋の白鳥となって天翔り、河内国の志幾(今の羽曳野)に留まったので、再び陵を作り白鳥の御陵と名付けたが、その魂はここからも天翔って行ったという。

能褒野墓と能褒野神社

 

 

                         尾張大海媛
             大物主神(蛇)            ┣ 八坂入彦命
第7代孝霊天皇  ┣ -                    ┣ 渟名城入媛命(倭大国魂神を祭る)
  ┃┃┣ 倭迹迹日百襲姫命(台与か) 姥津媛命┃ 遠津年魚眼眼妙媛(紀伊)
  ┃┃┃ 欝色謎命(伊香色謎命の母)┣彦坐王┃  ┣ 豊鍬入彦命
  ┃┃┣ 吉備津彦      ┣ 9 開化天皇   ┃  ┣ 豊鍬入姫命(天照大神を祀る)
  ┃┃┣ 稚武彦命    ┃   ┣10崇神天皇(御間城入彦)
  ┃┃倭国香媛      ┃   伊香色謎命  ┃    ┣ 倭彦命  
  ┃┃              ┣倭迹迹姫命     ┃    ┃  
  ┃┃          ┣大彦命      ┃    ┣ 彦五十狭茅命  
  ┃┣━━━━━━  8孝元天皇┣御間城媛  ┃    ┣ 千千衝倭姫命
  ┃細媛命        ┃┃ ┗武渟川別  ┃    ┣ 五十日鶴彦命  
  ┣彦狭島命       ┃┣彦太忍信命  ┃    ┣ 11垂仁天皇┓  
  ┃           ┃┃(武内宿禰の父)┃ 御間城媛 ┃  ┃
  ┣稚武彦命(吉備の祖)  ┃伊香色謎命     x (大彦命の娘)┣  ┃
  絙某弟             ┣ 武埴安彦命 ━━┛     ┏迦具夜比売┃
            埴安媛  ┣            大筒木垂根王    ┃
       河内青玉繋┛   吾田媛(隼人族)                   ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃彦坐王
┃┣狭穂彦肥長姫(蛇)             葛城高額姫
┃┗狭穂姫命┃                                     ┣神功皇后170-269
┃ ┣  誉津別   播磨稲日太郎姫-122    垂仁天皇 息長宿禰王┃ 
11代垂仁天皇-69-70            ┣櫛角別王   ┣両道入姫命     ┣15代応神天皇
  ┣ 五十瓊敷入彦            ┣大碓皇子 綺戸辺┣14代仲哀天皇-200 
  ┃ イニシキイリヒコ          ┣小碓尊  (日本武尊)     ┣麛坂王  -201
  ┃               ┃┃┣武卵王(讃岐綾君祖)  ┣忍熊皇子-201
  ┃               ┃┃┣十城別王(伊予別君祖) 大中姫
  ┃               ┃┃吉備穴戸武媛
  ┃               ┃┣稚武彦王(東征同行)
  ┃               ┃弟橘比売
  ┣ 12代景行天皇(大足彦忍代別天皇) -13-130 
  ┣ 倭姫命   ┣稚足彦尊(13代成務天皇)   ┃     
 ┏日葉酢媛命  ┣五百城入彦  ┃┣和珂奴気王┣神櫛皇子(母:五十河媛 讃岐国造祖)   
 ┣渟葉田瓊入媛┣忍之別皇子  ┃弟財郎女  ┣稲背入彦皇子(母:五十河媛 針間国造祖) 
 ┣真砥野媛   ┣稚倭根子皇子┃       ┣五百野皇女(母:水歯郎媛)伊勢斎宮   
 ┣薊瓊入媛  ┣大酢別皇子┗吉備郎女    ┣豊国別皇子(母:御刀媛)日向国造の祖 
丹波道主王   ┣五百城入姫         ┣武国凝別皇子(母:高田媛)
10代崇神天皇  ┣五十狭城入彦        ┣日向襲津彦(母:日向髪長大田根)
 ┣ 八坂入彦命 ┣吉備兄彦          ┗豊戸別皇子(母:襲武媛)
尾尾張大海姫┣八坂入媛命
      ┗弟媛

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伊勢神宮内宮の別宮・月讀宮

2010年07月28日 | 記紀創世紀

 月讀宮は内宮の別宮で祭神は月讀尊といって天照大神の弟神である。 そして外宮別宮に祀られている月夜見宮の祭神・月夜見尊とは同じ神である。 それでは何故同じ神が月讀尊と月夜見尊に名を変えて内宮・外宮の二箇所に祀られているのかを調べてみたがよくわからない。 元々天照大神と仲のよかった月讀尊は高天原を二人で統治していたが、月讀尊が葦原中国を治める妹・豊入姫命を殺してしまったことから月讀尊と天照大神は仲が悪くなった。 月讀尊は高天原の夜を、天照大神は昼を治め、お互いに顔を合わさなくなった時から月讀尊は月夜見尊と名を改めたというのが私の推測である。 つまり月讀尊のときには”陽”、月夜見尊になってからは”陰”の世界に生きたことになる。 従って内宮の別院・月讀宮は男神でありながら陰様式、外宮の別院・月夜見宮は陽様式となっているのであろう。  

 宮域には、月讀尊の魂を祭神とする月讀荒御魂宮、伊弉諾尊を祭神とする伊佐奈岐宮、伊弉冉尊を祭神とする伊佐奈弥宮の3社があり、参拝は月讀宮-月讀荒御魂宮-伊佐奈岐宮-伊佐奈弥宮の順に行うらしい。 これは月讀尊が最高神天照大神の弟神であることから、別宮としては天照大神の魂を祭神とする荒祭宮に次ぐ最高位の別宮であることによる。 ここ4社の社殿は祭神が男神か女神かに関係なく内宮に準じて、内削ぎの千木と、偶数の鰹木を持つ萱葺の神明造で南面している。 ところで、伊佐奈岐尊は月讀尊の父親、伊佐奈弥命は母親である。 

月讀宮

 

伊佐奈岐宮と伊佐奈弥宮

 

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讃岐うどんとは全く違う伊勢うどん

2010年07月27日 | 国内旅行散策

 伊勢神宮の内宮入口に「おかげ横丁」への街道入り口があります。 伊勢へ詣でた人たちが、ちょっと一休みをするには最適な店がずらりと並んだ「おはらい通り」 をしばらく歩くと「おかげ横丁」 があります。 その中に「ふくすけ」という伊勢うどんを楽しめる、しかも犬を連れて入れるところがあるということで、いってきました。 

 伊勢うどんの起源は鎌倉時代に遡るらしく、この地の農民がうどんにたまりをかけて食べていたのが始まりということで、その後、かつお節等でだし汁を加えたのが「伊勢うどん屋」の始まりで、約360年の歴史があるようです。お伊勢参りの賑わいの中、多くの食べ物屋とともに伊勢うどん屋も軒を連ねたというほどの人気があったらしく、独特の味は伊勢の食文化になっているそうです。

 見てのとおり、つゆはたまり醤油で、出汁には鰹節・昆布にこだわりがあるらしいが、味わってみると、そのような気配は微塵もありませんでした。 そしてつゆ以上に特徴的なのが麺で、讃岐の太麺の倍くらいはあるのですが、それよりも腰です。 うどんを茹でること約1時間という茹で加減は、驚きです。 そのやわらかさを噛まずに飲み込み楽しむといううどんです。 讃岐うどんが好みの私は、伊勢うどんはどうも苦手でございます。

 

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伊勢二見ヶ浦

2010年07月26日 | PHOTOGRAPH 夜 寺 滝

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伊勢神宮外宮の別宮・月夜見宮

2010年07月26日 | 記紀創世紀

 月夜見宮は外宮(豊受大神宮)の別宮で、月夜見尊と、その魂の月夜見尊荒御魂の2神を祀っている。 月夜見尊は最高神・天照大神とは元々仲が良かった弟にあたり、三貴子のひとりである。 お互い高天原を治めていたが、月夜見尊が妹にあたる豊受姫命(葦原中国を治める五穀の神)を殺してしまった(殺してしまった理由は日本書紀に記載されているが、また改めて紹介することとする)ことから天照大神と仲が悪くなり、以来天照大神と月夜見尊は顔を合わすことはなくなったという。 月夜見宮の社殿は外宮に準じ外削ぎの千木と、5本で奇数の鰹木を持つ萱葺の神明造で南面しており、男神を祀る社殿様式となっている。 タクシーの運転手の言うとおり、倭姫宮の女神を祀る様式とは写真の通り異なっており、”陽”を表しておりました。 

 


 アシナツチ(出雲の斐井川)
  ┣稲田姫神(イナダヒメノカミ)  八岐大蛇の生贄になる寸前にスサノオノミコトに助けられる
 テナツチ ┃(来訪神に仕える巫女)草薙剣をアマテラスに献上 倭姫→ヤマトタケル→尾張熱田神宮
    ┗━┓-        後に須賀に宮殿を造営 出雲の支配者となる。
      ┃┣建御名方タケミナカタ(出雲国譲に反対 諏訪湖に追放)⇔タケミカヅチ
      ┃┃事代主神(天武の守護神)
伊邪那岐命 ┃┃武神フツヌシ 高倉下献上の霊剣が神格化
    ┣ヒルコ  ┣大国主神(オオナムヂ→アシハラノシコオ→ウツシクニタマ→オオクニヌシノミコト大穴牟遅神)
    ┣アハシマ ┃┃オオムナヂ :異母兄弟神(八十神)に仕える少年神→ヤガミヒメ(因幡国)を得る     
    ┃   ┃┃アシハラノシコオ:八十神を逃れて冥府王・スセリヒメと結婚
    ┃   ┃┣島根美保神社の神 
    ┃   ┃高志(糸魚川付近)の巫女・沼河比売ヌナカワヒメと結婚
    ┣素戔鳴尊(スサノオノミコト)冥府,天照大神により高天原を追放後出雲国へ天降る
    ┃     ┣スセリヒメ(地下冥府の王)
    ┃     ┃   ┣  
    ┃     ┃アシハラノシコオ(ヤガミヒメ・キサガイヒメ・ウムガイヒメの霊力をもらう)→オオクニヌシ
   ┃     ┃ (カムムスヒの御子神・クスナビコナとともに出雲国を完成させる)
   ┃     ┗イソタケル(スサノヲと共に新羅へ渡る)   
  ┣天照大神 ━━┓(アマテラスオオミカミ) 太陽の神
  ┃(高天の原)   ┃八咫鏡を授ける ニニギノミコト(日向可愛山陵)
  ┃          ┃(垂仁期に倭姫伊勢へ祀)↓┣火闌降命ホスソリ(海幸彦)隼人始祖
  ┃ スサノヲノミコト   ┃ ↓      日向の襲┣彦火火出見命(山幸彦)高屋山上陵
  ┃ ┣大年神   ┃ ↓      (高千穂)┃ ┣鵜草葺不合命(吾平山上陵)
  ┃ ┣ウカノミタマ稲荷┃ ↓         ↓┃┏豊玉姫┣神武天皇
  ┃┏神大市比売神┃ ↓        空国┃┣玉 依 姫
  ┣大山祇神━━  ┃ ↓(オオヤマツミ) ━┓  ↓┃大綿津見神(日本神話で最初に登場)  
  ┃┃         ┃ ↓      ┃ 吾田┣火明命(尾張連始祖)
  ┃┣四対八神の神┃ ↓      ┣神吾田津姫・コノハナサクヤ姫(端陵)
  ┃鹿屋野比売神  ┃ ↓      ┗姉・磐長姫・コノハナチル姫(醜い為送り返される)
  ┃        ┃ ↓          ┣
  ┃        ┃ ↓       八島士奴美神(スサノヲの子)
  ┃        ┃石凝姥に作らせる 西都原古墳群・メサホ塚古墳がコノハナサクヤ姫陵? 
  ┃          ┃ ┣紀伊の日前神(天香山の銅で鋳造)
  ┃          ┃ ┗伊勢大神
  ┣月弓尊       ┃(ツキユミノミコト)  月の神 五穀の起源
  ┣大宜都比売神 ┃(オオゲツヒメノカミ) 五穀の神 保食神 豊受姫命 
    ┣迦具土神   ┃(カグツチノカミ)火神 母の陰部を焼焦がし誕生。十拳剣にて死す
 伊邪那美命    ┃
 (根堅洲国)    ┃甕襲ミカソの犬・足往が八坂瓊ヤサカニ勾玉を垂仁に献上→石上神社
          ┃  
┏━━━━━━━━━┛
┗┓ 
 ┣天穂日命(アメノホヒ)出雲の祖。アマテラスの右のみずらに巻いた勾玉から成った。
 ┃         出雲平定の為にアマテラスに派遣されるがオオクニヌシに寝返る
 ┣アマツヒコネ  萬幡豊秋津師比売命(高木神の娘) 
 ┣イクツヒコネ   ┣天火明命(アメノホアカリ)
 ┣クマノクスビ     ┣瓊瓊杵尊(ニニギノミコト) 
 ┣天忍穂耳命(アメノオシホミミ)スサノオガアマテラスの勾玉を譲り受けて生まれた五皇子の長男
 ┣建甕槌命 (タケミカヅチノミコト)迦具土神が十拳剣にて父に刺されたときに血から誕生
 ┃           磐筒女(イワツツヒメ)の子
 ┃           出雲・稲佐浜でコトシロヌシと闘争
 ┣布都御魂神 (フツノミタマノカミ)迦具土神が十拳剣にて父に刺されたときに血から誕生
 ┣菊理姫神 (ククリヒメノカミ)伊邪那岐命・伊邪那美命が喧嘩をしたときに調停する白山の神、農耕神
 ┗天宇受売神(アメノウズメノカミ)巫女の元祖 岩戸では陰部もあらわに踊ります サルタヒコの妻伝承あり

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伊勢神宮・本宮への参道

2010年07月25日 | 記紀創世紀



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伊勢神宮内宮の別宮・倭姫宮

2010年07月25日 | 記紀創世紀

 7月20日・21日、梅雨があけて一気に猛暑となったこの両日、かねてから思っていた伊勢神宮参拝に行ってきた。 伊勢神宮といえば、天照大神を祀る皇大神宮・内宮と、豊受大神を祀る豊受大神宮・外宮の二つの正宮が知られているが、実は他にも多くの別宮があり、すべてを総称して『伊勢神宮』というのである。 とにかく正宮を訪れる人は休日といえども多いが、別宮はひっそりとしていて、ほとんど参拝者はいないと思っていたので、まずは別宮から訪れたが、その通りであった。 京都にしても奈良にしても人のいない閑静な場所で、思いを巡らすのが好きである。 そして、閑静な場所で出くわした人も恐らく私と同じ思いで、そこへ来たのだろうと思うと、いつも気持ちが高まってくる。 『日本書紀』によれば、垂仁天皇の条に、「倭姫命、菟田の篠幡に祀り、更に還りて近江国に入りて、東の美濃を廻りて、伊勢国に至る。」 とある。 第11代垂仁天皇と日葉酢姫命の皇女・倭姫命は、第10代崇神天皇の皇女・豊鍬入姫命の意思を継いで、大和から天照大神を祀る地を求めて、丹波・吉備・伊賀・美濃・尾張などの国を巡って、やっと伊勢の国にたどり着き、五十鈴川の畔に斎宮を鎮座したのである。 これは今から約2000年前のことである。 因みに斎宮(さいぐうとも読むが、いつきのみやと読んだほうが趣きがでる)で天照大神を祀る皇女のことを斎王といい、毎年京都で行われる葵祭りの主役が斎王なのである。 つまり葵祭りの主役の祖が倭姫命であり、倭姫命が営んだ倭姫宮も伊勢神宮の別宮のひとつである。 

 倭姫宮、思ったとおり誰もおらず、ひっそりとした佇まいを堪能していると、しばらくして30歳くらいの女性がひとりで参道を歩いてここ別宮にやってきた。 約1950年前に斎王として一生を天照大神に捧げるべく大和からやってきた倭姫命の心境を思いやりながら参拝しているに違いない。  斎王のことを説明すれば、都で1年間禊を行って身を清めたあと、伊勢のこの地で天照大神に巫女として仕えるということは、一生結婚はできないことを意味する。 斎王は卜定といって巫女としての適正が占いによって選ばれ、都から伊勢まで約二週間かけて赴き(約500人の侍女達を伴うことから群行という)、役目が終わるのは天皇崩御などの、皇族に不幸があったとき、と自分が亡くなったときのいずれかで、都に帰ることを退下という。 今回の私の旅路も京都→甲賀→鈴鹿→伊勢と、当時の群行のルートを辿ってみた。 そして斎王の習慣が終わるのは南北朝時代の後醍醐天皇の皇女・祥子内親王であるから、約1350年続いたことになる。 恋人との仲を引き裂かれたり、途中で亡くなったりと、この間数多くの物語が生まれた。 かの有名な聖徳太子の妹・酢香手姫皇女は斎王として伊勢に赴き、40年間以上も巫女として役目を全うしている。 初代斎王の豊鍬入姫命は50年を超えている。(正確に云うと、伊勢に宮を構えたのは倭姫命なので、豊鍬入姫命は初代斎院) しばらくするとタクシーの運転手が追いついて、その女性に板葺きの社殿の説明をしていたので、私も拝聴することにした。 倭姫宮の社殿は内宮に準じて、内削ぎ(水平に削る)の千木(屋根の両端で交叉させた部材)と、偶数の6本の鰹木を持つ神明造の萱葺で、南面しているという。 そして外宮に準じた別宮の場合は、外削ぎの千木と、奇数の5本の鰹木を持つという。 もちろん外宮の別宮にも行く予定であったので、注目したが、その結果は月夜見宮で解説するとして、私の興味は何故両者に規則性を持った違いがあるのか、であったが、タクシーの運転手からその説明はなかった。 家に帰って早速調べてみると、女神の社の場合は内削ぎの千木に偶数(陰数)の鰹木で社殿を造り、男神の場合は外削ぎの千木に奇数(陽数)の鰹木で社殿を造るという出雲大社の屋根に倣っているらしい。   

 

 

                         尾張大海媛
             大物主神(蛇)            ┣ 八坂入彦命
第7代孝霊天皇  ┣ -                    ┣ 渟名城入媛命(倭大国魂神を祭る)
  ┃┃┣ 倭迹迹日百襲姫命(台与か) 姥津媛命┃ 遠津年魚眼眼妙媛(紀伊)
  ┃┃┃ 欝色謎命(伊香色謎命の母)┣彦坐王┃  ┣ 豊鍬入彦命
  ┃┃┣ 吉備津彦      ┣ 9 開化天皇   ┃  ┣ 豊鍬入姫命(初代斎王)
  ┃┃┣ 稚武彦命    ┃   ┣10崇神天皇(御間城入彦)
  ┃┃倭国香媛      ┃   伊香色謎命  ┃    ┣ 倭彦命  
  ┃┃              ┣倭迹迹姫命     ┃    ┃  
  ┃┃          ┣大彦命      ┃    ┣ 彦五十狭茅命  
  ┃┣━━━━━━  8孝元天皇┣御間城媛  ┃    ┣ 千千衝倭姫命
  ┃細媛命        ┃┃ ┗武渟川別  ┃    ┣ 五十日鶴彦命  
  ┣彦狭島命       ┃┣彦太忍信命  ┃    ┣ 11垂仁天皇┓  
  ┃           ┃┃(武内宿禰の父)┃ 御間城媛 ┃  ┃
  ┣稚武彦命(吉備の祖)  ┃伊香色謎命     x (大彦命の娘)┣  ┃
  絙某弟             ┣ 武埴安彦命 ━━┛     ┏迦具夜比売┃
            埴安媛  ┣            大筒木垂根王    ┃
       河内青玉繋┛   吾田媛(隼人族)                   ┃
┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃彦坐王
┃┣狭穂彦肥長姫(蛇)             葛城高額姫
┃┗狭穂姫命┃                                     ┣神功皇后170-269
┃ ┣  誉津別   播磨稲日太郎姫-122    垂仁天皇 息長宿禰王┃ 
11代垂仁天皇-69-70            ┣櫛角別王   ┣両道入姫命     ┣15代応神天皇
  ┣ 五十瓊敷入彦            ┣大碓皇子 綺戸辺┣14代仲哀天皇-200 
  ┃ イニシキイリヒコ          ┣小碓尊  (日本武尊)     ┣麛坂王  -201
  ┃               ┃┃┣武卵王(讃岐綾君祖)  ┣忍熊皇子-201
  ┃               ┃┃┣十城別王(伊予別君祖) 大中姫
  ┃               ┃┃吉備穴戸武媛
  ┃               ┃┣稚武彦王(東征同行)
  ┃               ┃弟橘比売
  ┣ 12代景行天皇(大足彦忍代別天皇) -13-130 
  ┣ 倭姫命   ┣稚足彦尊(13代成務天皇)   ┃     
 ┏日葉酢媛命  ┣五百城入彦  ┃┣和珂奴気王┣神櫛皇子(母:五十河媛 讃岐国造祖)   
 ┣渟葉田瓊入媛┣忍之別皇子  ┃弟財郎女  ┣稲背入彦皇子(母:五十河媛 針間国造祖) 
 ┣真砥野媛   ┣稚倭根子皇子┃       ┣五百野皇女(母:水歯郎媛)伊勢斎宮   
 ┣薊瓊入媛  ┣大酢別皇子┗吉備郎女    ┣豊国別皇子(母:御刀媛)日向国造の祖 
丹波道主王   ┣五百城入姫         ┣武国凝別皇子(母:高田媛)
10代崇神天皇  ┣五十狭城入彦        ┣日向襲津彦(母:日向髪長大田根)
 ┣ 八坂入彦命 ┣吉備兄彦          ┗豊戸別皇子(母:襲武媛)
尾尾張大海姫┣八坂入媛命
      ┗弟媛

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将軍家の菩提寺・旧寛永寺の金色殿

2010年07月24日 | 池波正太郎 江戸時代

 JR上野駅から北へ歩くとすぐに上野公園があり、右手に清水観音堂、左手に弁天島が浮かぶ不忍池を見ながら公園を進むと上野東照宮があります。 参道入り口の大鳥居、水舎門をくぐると、両脇には葵の御紋がはいった燈篭がとにかく多い。 そして右手には1681年に建てられたという旧寛永寺時代の五重塔、正面には寛永寺の一部であった上野東照宮が現存している。 1651年に建てられた権現造りの社殿や、葵の御紋が刻まれた石灯籠が参道に並ぶさまは壮大で、徳川家の威光を伝えている。 上野東照宮は、1616年駿河城に徳川家康を見舞いに赴いた、藤堂高虎、天海大僧正が危篤の家康の病床で末永く鎮魂出きる場所を造って奉ってほしいとの遺言をうけ高虎の屋敷領地であった上野の山に、1617年造宮した。 その後三代将軍家光がこの寺院に満足出来ず、現在の社殿(金色殿)を造形し以後江戸の象徴とした。 上野東照宮には家康、八代吉宗、十五代慶喜が奉られている。

家康、吉宗、慶喜が奉られている上野東照宮・唐門と拝殿

 

別名金色堂ともいう金箔貼りの社殿の柱には左甚五郎作の昇り龍・降り龍が刻まれている。

大石鳥居と水舎門

 

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寛永寺を中心として栄えた上野・弁天島

2010年07月23日 | 池波正太郎 江戸時代

 上野にある寛永寺は徳川将軍家の菩提寺として知られ、寛永寺を中心として上野は発展した。 その代表は不忍池で、周囲約2kmの人工池である。 江戸の都造りに乗り出した徳川家康を補佐したのは黒衣の宰相といわれた謎多き僧正・天海である。 江戸城の鬼門を封じ込めようとして寛永寺や不忍池が築かれたが、これは天海僧正の発案であるとされている。 寛永寺は京都の町を守る延暦寺をまねて東延暦寺・寛永寺という。 そして不忍池は琵琶湖をまねたものということになると、琵琶湖に浮かぶ霊験あらたかな竹生島をまねて弁天島が不忍池に築かれ、後に参道が通されたのである。 春になると一面が桜で覆われて、参道には屋台が並んで絶好の花見の名所となるのである。 江戸時代には春の桜だけではなく、仏教ゆかりの蓮も池に植えられたことから、蓮の花を見ながらの蓮飯を食するのが風流とされていたらしい。 そして人目を忍ぶ恋人達も、出会茶屋で逢瀬を重ねたのである。 もちろん浮世絵師・歌川広重は上野が花見客で賑わう様子を「名所江戸百景」にのこしている。 弁天島から上野公園川を見ると、清水観音堂が見える。 これは京都の清水寺を模して建てられたものであるが、豊臣秀吉から江戸に移転を命じられた家康、よっぽど京都に未練があったようである。

不忍池に浮かぶ弁天島と清水観音堂

 

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お玉が池の紺屋は高尾太夫の身請け人

2010年07月22日 | 池波正太郎 江戸時代

 北辰一刀流の千葉道場があった神田は、徳川家康が鍛冶屋、紺屋などの職人をあつめて作った下町で、なかでも神田・お玉が池の紺屋といえば、5代目三浦屋の花魁・高尾太夫が嫁いだことでも知られているそうです。 その紺屋の名は九郎兵衛。 5代目高尾太夫を身請けした人物であるが、いかに繁盛した紺屋といえどもたかが染物屋であるから、惚れたのは九郎兵衛だけではなく、高尾太夫も惚れて夫婦になったから、4代目の仙台高尾太夫の人生とは大違いである。 

 ----------六代目三遊亭円生の噺、「紺屋高尾」によると---------- 

 神田紺屋町、染物屋の吉兵衛さんの職人で久蔵さんが寝付いてしまった。話を聞くと、国元に帰るため初めて吉原に連れて行かれ、当世飛ぶ鳥を落とす勢いの三浦屋の高尾太夫の道中を見て恋患い。錦絵を買い求めたが、全て高尾太夫に見える。10両で会えるだろうから3年働き9両貯めて1両足してそれで連れて行くという。久さん元気になって働き、3年後、その金で買うから渡してくれと親方に言うと、気持ちよく着物も貸してくれて送り出してくれた。

 お玉が池の医者の竹之内蘭石先生に、連れて行って貰う。流山の大尽として、首尾良く高尾太夫に会えた。挨拶の後、「こんどは何時来てくんなます」、「3年経たないとこれないのです」と泣きながら全て本当のことを話すと、高尾は感動し、こんなにも思ってくれる人ならと、「来年の2月15日に年(年季)が明けたら、わちきを女房にしてくんなますか」。久さんうなずき、夫婦の約束をする。揚げ代は私が何とかしますし、持参した10両と約束の証にと香箱の蓋を太夫から貰って、久さんは亭主の待遇で帰って来る。 翌年約束の日に、高尾は久蔵の前に現れ、めでたく夫婦になる。

地元の人に聞きながらたどり着いたお玉が池跡

 

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吉田松陰が無念の処刑を受けた伝馬町牢屋敷

2010年07月21日 | 幕末

 伝馬町牢屋敷に八丁堀の旦那といえば時代劇には必ずでてくるキーワードである。 伝馬町牢屋敷は神田駅の東、小伝馬町にあった巨大な牢獄で、拷問が行われた所や牢獄奉行の屋敷もあった。 高い土塀に囲まれ外側には堀がめぐらされ、その周りには江戸庶民が暮らしていた。 明治になって市ヶ谷収獄所ができるとこにより、270年間の歴史に幕を閉じた。 安政の大獄で処刑された吉田松陰も、ここ牢屋敷にしばらく投獄されており、実は向かいにある十恩公園には吉田松陰先生終焉の地の石碑があったのですが、見逃してしまいました。

かつでは伝馬町牢屋敷があった大安楽寺

 

伝馬町牢屋敷跡 説明板より
江戸の牢屋敷は慶長年間(一五九六~一六一五)に、常盤橋外からこの小伝馬町に移転した。代々大番衆の石戸帯刀が牢屋敷預りに任命されており、管理していた。そして、明治八年(一八七五)五月廃止されるまで存続していたものである。 「御府内備考」の記録によれば、その規模の広大であったことがわかる。すなわち、面積は二、六一八坪(八六三九.四平方メートル)あり、さらに、これの敷地の四方を堀でめぐらしていた。南西部に表門があった。獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢および女牢部屋に分かれ、明暦三年(一六五七)の収容因人は一三〇人であり、安政大獄(一八五九)には吉田松陰ら九十余名が収容されたこともある。 東京都教育委員会

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神田明神と平将門

2010年07月20日 | 池波正太郎 江戸時代

 神田といえば、下町の庶民に親しまれ、現在もなお多くの参拝者で賑わう神田明神でしょう。 JR御茶ノ水駅の北隣にあり、御祭神一宮は大国主命で縁結びの神様として島根の出雲のご祭神でもあります。 二ノ宮は商売繁昌のえびす様で、大国主命とともに日本の国づくりをしたという日本最初の神である。 そして三宮・将門さまは厄除の神様である。 平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆けとして、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったとされる。 朱雀天皇(醍醐の第十一皇子で、母は藤原基経の娘、中宮・藤原穏子) の治世、伯父・藤原忠平が摂関として取り仕切っていた頃の935年に平将門の反乱が起こり、翌年には藤原純友が乱が起こった。(承平・天慶の乱) 懐柔策を試みたがうまくいかず、天慶3年(940年)、藤原忠文を征夷大将軍に任命して将門征伐軍を送り、藤原秀郷の手により将門は討たれた。 翌年には橘遠保により藤原純友が討たれ、乱はようやく収束した。 治世中は地震・洪水などの災害・変異が多く、朱雀天皇は早々と同母弟成明親王(後の村上天皇)に譲位し、仁和寺に入るがその後、後悔して復位の祈祷をしたが952年に30歳で亡くなったのである。

桓武天皇737-806
 ┣葛原親王786-853
 ┃ ┣高棟王804-867
 ┃ ┣高見王817-855
 ┃ ┗高望王839-911
多治比真宗  ┣平国香-935(桓武平氏祖)⇔平将門
       ┃┣平貞盛-989(平将門乱で功)
       ┃┃ ┣維将(北条氏祖)
       ┃┃ ┣維衡(伊勢平氏祖:伊勢守 一条朝の在京武士)
       ┃┃ ┃ ┗正度-1067?(越前守)
        ┃┃ ┣正輔 ┣正衡(藤原師実に近侍)
        ┃┃ ┗正済 ┃ ┗正盛-1121(源義家近侍 源義親討伐 白河北面武士)
        ┃┃     ┃   ┣忠正-1156(頼長に仕え崇徳天皇側)
        ┃┃     ┣維盛┗忠盛1096-1153(白河・鳥羽上皇近侍)
        ┃┃     ┗季衡  ┣頼盛(母:池禅尼)  
        ┃┃         ┣教盛(母:藤原家隆娘)
        ┃┃         ┣忠度(母:藤原為忠娘)
        ┃┃         ┣経盛(母:源信雅娘)
        ┃┃         ┗清盛(母:祗園女御妹)
       ┃┣繁盛(常陸平氏祖 藤原師輔家人)
       ┃┗兼任
       ┣平良兼-939(母:藤原良方娘)
        ┃┣公雅━致成━致方
       ┃┗公連
          ┣平良将-917
        ┃┣将門903-940(藤原秀郷,平貞盛に討たれる)
       ┃┣将頼-940
         ┃┗将平
       ┗平良文886-953(母:藤原範世娘)
         ┗忠頼
          ┣忠常975-1031(房総平氏祖 教通に侍従 忠常の乱)
            平将門娘 ┣常将━□□━上総氏,千葉氏
                  ┗常近

 

 この神田明神下に住んだ岡っ引というのが銭形平次である。 架空の人物なのであるが、神田明神には銭形平次の石碑があった。ところで、江戸時代の岡っ引は無給同然、もしくは町奉行所の同心から受け取るわずかな給金で、生計を立てていたから本業にすることは極めて困難であり、中には強請や恐喝まがいの行為で金を集めていた連中もおり、岡っ引を使うのを禁止させる御触れが出ていたほどであった。従って平次のように岡っ引家業に専念することは実はありえないのである。 また、岡っ引は常に十手を持っていたわけではなく、奉行所からの要請に基づき事件の度に奉行所に十手を取りに行ったとされている。 十手の房は同心以上に許されるものであって岡っ引の十手には付かない。

平次の石碑の基礎には寛永通宝の刻印があった

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中川朋香さん

2010年07月19日 | 中川朋香 内藤里奈







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