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勝海舟生誕の地は両国にあった

2010年07月13日 | 幕末

 両国界隈には数多くの史跡が集中していて、幕末の志士達と交流を深めた勝海舟の生誕の地という碑があるのもそのひとつである。 春さきから幕末を取り上げて、坂本龍馬を中心に、土佐勤王党のメンバーから岩崎弥太郎などを土佐、京都を巡って紹介してきた。 そのなかにはもちろん勝海舟がいたのはゆうまでもなく、神戸操練所の跡や神戸北にある勝海舟の寓居跡などにも行ってきたが、もともと江戸幕府の要職についていた勝海舟であるから、関東生まれであるとは思っていたが、両国の生まれであるとは初めて知った。 JR両国駅のすぐ南の、現在では両国公園となっている場所は海舟の生誕地であった。 現在の核兵器と同じように海軍を強化することが、抑止力となって、異国からの進入に対抗できると考えた海舟。 それに賛同した龍馬をはじめとする多くの藩士たちが、神戸操練所にあつまって海軍としての知識を深めていったのは周知のことである。   

 宮廷のクーデターである王政復古の改革を起こした岩倉具視は隠棲し極貧を余儀なくされる。 幕府との協調を進めた公武合体派公家が狙われていたからである。 王政復古のクーデターの際には武家を指導する西郷隆盛が呼応し、一方高杉晋作は1862年に上海から帰ると江戸在勤を命じられ、同藩の久坂玄瑞、伊藤博文、井上肇らとともにイギリス行使館を全焼させる事件を起こしている。 また坂本龍馬は天誅まっただなか、勝海舟の家来として京都に入り土佐藩邸で脱藩の罪を許され、勝海舟の護衛に岡田以蔵(天誅組の有名な刺客)を付けて土佐勤皇党の若者たちを勝海舟門下にに引き入れた。 翌年4月に神戸海軍操練所が建設され、坂本龍馬は大軍学者・勝麟太郎と客分の関係となる。 幕船順動丸に姉小路公知、木戸孝允が視察に訪れ竜馬も参加すると、勝海舟は海軍の必要性を力説している。 孝明天皇は尊攘派公家である政通の子・鷹司輔煕が安政の大獄の赦免を受けて関白に就くことを快く思っておらず、 薩摩、会津藩による尊攘派追い出しの武力クーデターに至る。

 幕末の雄藩といえば薩長土肥が有名であるが、徳川の親藩・越前藩も松平春嶽という名君によって藩の建て直しが成功している。 土佐勤皇党であった坂本龍馬は開国論者・勝海舟に会いに行き(当初暗殺が目的であった)歴史は大きく動きたが、そのきっかけは松平春嶽にあるという。 坂本龍馬は最初、春嶽に会い勝を紹介された。 郷士の階級の人間が越前の殿様に会えるということは江戸中期では考えられないことであるが、国を思う優秀な人材には身分の壁を飛び越えて接する姿勢が春嶽にはあった。 後に勝海舟が神戸に海軍操練所を造ったときに、坂本龍馬を越前藩に使者として送り運営資金の調達を行っている。 このとき海軍の育成の重要性を理解した春嶽は5000両をだした。 これは春嶽の軍師・横井小楠のアドバイスでもあり、また同志として越前藩士・由利公正を龍馬に紹介している。 由利公正も横井とともに越前藩の財政立て直しを行った人物で、龍馬は新政府の財政立て直しを懸念して由利公正に相談を持ちかけている。 坂本龍馬が近江屋において暗殺され、王政復古後由利は新政府に招かれて財政を担当したが、このときに坂本龍馬の船中八策を整理し、新政府の根本方針としたのである。 五箇条の御誓文がそれである。

 坂本龍馬は初めは半平太と行動をともにしていたが、過激な活動に疑問を持ち決別したあとは、後藤象二郎を通じて土佐藩に復帰し、 勝海舟の後押しで設立した貿易会社・亀山社中は「土佐藩海軍別働隊」というべき海援隊に変わったのである。 半平太切腹後の土佐勤皇党は崩壊して、多くのメンバーが龍馬のもとに集まったが、彼らは龍馬が勤皇党の宿敵であった後藤象二郎と組むことに反対であったが、後藤の将来に対する展望の大きさを説く。 龍馬は海舟の弟子として既に名士であり、他藩との交流は深かったが、出身の土佐藩との太いパイプは無かった。 かくして後藤象二郎との連携によって亀山社中ではなしえないことを土佐二十四万石を動かすことのできる後藤の力を借りて果たすこととなる。 

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