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吉田松陰が無念の処刑を受けた伝馬町牢屋敷

2010年07月21日 | 幕末

 伝馬町牢屋敷に八丁堀の旦那といえば時代劇には必ずでてくるキーワードである。 伝馬町牢屋敷は神田駅の東、小伝馬町にあった巨大な牢獄で、拷問が行われた所や牢獄奉行の屋敷もあった。 高い土塀に囲まれ外側には堀がめぐらされ、その周りには江戸庶民が暮らしていた。 明治になって市ヶ谷収獄所ができるとこにより、270年間の歴史に幕を閉じた。 安政の大獄で処刑された吉田松陰も、ここ牢屋敷にしばらく投獄されており、実は向かいにある十恩公園には吉田松陰先生終焉の地の石碑があったのですが、見逃してしまいました。

かつでは伝馬町牢屋敷があった大安楽寺

 

伝馬町牢屋敷跡 説明板より
江戸の牢屋敷は慶長年間(一五九六~一六一五)に、常盤橋外からこの小伝馬町に移転した。代々大番衆の石戸帯刀が牢屋敷預りに任命されており、管理していた。そして、明治八年(一八七五)五月廃止されるまで存続していたものである。 「御府内備考」の記録によれば、その規模の広大であったことがわかる。すなわち、面積は二、六一八坪(八六三九.四平方メートル)あり、さらに、これの敷地の四方を堀でめぐらしていた。南西部に表門があった。獄舎は、揚座敷、揚屋、大牢および女牢部屋に分かれ、明暦三年(一六五七)の収容因人は一三〇人であり、安政大獄(一八五九)には吉田松陰ら九十余名が収容されたこともある。 東京都教育委員会

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