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お玉が池の紺屋は高尾太夫の身請け人

2010年07月22日 | 池波正太郎 江戸時代

 北辰一刀流の千葉道場があった神田は、徳川家康が鍛冶屋、紺屋などの職人をあつめて作った下町で、なかでも神田・お玉が池の紺屋といえば、5代目三浦屋の花魁・高尾太夫が嫁いだことでも知られているそうです。 その紺屋の名は九郎兵衛。 5代目高尾太夫を身請けした人物であるが、いかに繁盛した紺屋といえどもたかが染物屋であるから、惚れたのは九郎兵衛だけではなく、高尾太夫も惚れて夫婦になったから、4代目の仙台高尾太夫の人生とは大違いである。 

 ----------六代目三遊亭円生の噺、「紺屋高尾」によると---------- 

 神田紺屋町、染物屋の吉兵衛さんの職人で久蔵さんが寝付いてしまった。話を聞くと、国元に帰るため初めて吉原に連れて行かれ、当世飛ぶ鳥を落とす勢いの三浦屋の高尾太夫の道中を見て恋患い。錦絵を買い求めたが、全て高尾太夫に見える。10両で会えるだろうから3年働き9両貯めて1両足してそれで連れて行くという。久さん元気になって働き、3年後、その金で買うから渡してくれと親方に言うと、気持ちよく着物も貸してくれて送り出してくれた。

 お玉が池の医者の竹之内蘭石先生に、連れて行って貰う。流山の大尽として、首尾良く高尾太夫に会えた。挨拶の後、「こんどは何時来てくんなます」、「3年経たないとこれないのです」と泣きながら全て本当のことを話すと、高尾は感動し、こんなにも思ってくれる人ならと、「来年の2月15日に年(年季)が明けたら、わちきを女房にしてくんなますか」。久さんうなずき、夫婦の約束をする。揚げ代は私が何とかしますし、持参した10両と約束の証にと香箱の蓋を太夫から貰って、久さんは亭主の待遇で帰って来る。 翌年約束の日に、高尾は久蔵の前に現れ、めでたく夫婦になる。

地元の人に聞きながらたどり着いたお玉が池跡

 

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