神田といえば、下町の庶民に親しまれ、現在もなお多くの参拝者で賑わう神田明神でしょう。 JR御茶ノ水駅の北隣にあり、御祭神一宮は大国主命で縁結びの神様として島根の出雲のご祭神でもあります。 二ノ宮は商売繁昌のえびす様で、大国主命とともに日本の国づくりをしたという日本最初の神である。 そして三宮・将門さまは厄除の神様である。 平将門公は、承平・天慶年間、武士の先駆けとして、関東の政治改革をはかり、命をかけて民衆たちを守ったとされる。 朱雀天皇(醍醐の第十一皇子で、母は藤原基経の娘、中宮・藤原穏子) の治世、伯父・藤原忠平が摂関として取り仕切っていた頃の935年に平将門の反乱が起こり、翌年には藤原純友が乱が起こった。(承平・天慶の乱) 懐柔策を試みたがうまくいかず、天慶3年(940年)、藤原忠文を征夷大将軍に任命して将門征伐軍を送り、藤原秀郷の手により将門は討たれた。 翌年には橘遠保により藤原純友が討たれ、乱はようやく収束した。 治世中は地震・洪水などの災害・変異が多く、朱雀天皇は早々と同母弟成明親王(後の村上天皇)に譲位し、仁和寺に入るがその後、後悔して復位の祈祷をしたが952年に30歳で亡くなったのである。
桓武天皇737-806
┣葛原親王786-853
┃ ┣高棟王804-867
┃ ┣高見王817-855
┃ ┗高望王839-911
多治比真宗 ┣平国香-935(桓武平氏祖)⇔平将門
┃┣平貞盛-989(平将門乱で功)
┃┃ ┣維将(北条氏祖)
┃┃ ┣維衡(伊勢平氏祖:伊勢守 一条朝の在京武士)
┃┃ ┃ ┗正度-1067?(越前守)
┃┃ ┣正輔 ┣正衡(藤原師実に近侍)
┃┃ ┗正済 ┃ ┗正盛-1121(源義家近侍 源義親討伐 白河北面武士)
┃┃ ┃ ┣忠正-1156(頼長に仕え崇徳天皇側)
┃┃ ┣維盛┗忠盛1096-1153(白河・鳥羽上皇近侍)
┃┃ ┗季衡 ┣頼盛(母:池禅尼)
┃┃ ┣教盛(母:藤原家隆娘)
┃┃ ┣忠度(母:藤原為忠娘)
┃┃ ┣経盛(母:源信雅娘)
┃┃ ┗清盛(母:祗園女御妹)
┃┣繁盛(常陸平氏祖 藤原師輔家人)
┃┗兼任
┣平良兼-939(母:藤原良方娘)
┃┣公雅━致成━致方
┃┗公連
┣平良将-917
┃┣将門903-940(藤原秀郷,平貞盛に討たれる)
┃┣将頼-940
┃┗将平
┗平良文886-953(母:藤原範世娘)
┗忠頼
┣忠常975-1031(房総平氏祖 教通に侍従 忠常の乱)
平将門娘 ┣常将━□□━上総氏,千葉氏
┗常近
この神田明神下に住んだ岡っ引というのが銭形平次である。 架空の人物なのであるが、神田明神には銭形平次の石碑があった。ところで、江戸時代の岡っ引は無給同然、もしくは町奉行所の同心から受け取るわずかな給金で、生計を立てていたから本業にすることは極めて困難であり、中には強請や恐喝まがいの行為で金を集めていた連中もおり、岡っ引を使うのを禁止させる御触れが出ていたほどであった。従って平次のように岡っ引家業に専念することは実はありえないのである。 また、岡っ引は常に十手を持っていたわけではなく、奉行所からの要請に基づき事件の度に奉行所に十手を取りに行ったとされている。 十手の房は同心以上に許されるものであって岡っ引の十手には付かない。
平次の石碑の基礎には寛永通宝の刻印があった