平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

幕末92 1864年7月 佐久間象山 河上彦斎に暗殺される

2013年06月12日 | 幕末

 1864年7月11日、京都木屋町の路上で松代藩士・佐久間象山は暗殺された。肥後熊本藩出身の河上彦斎ら刺客による襲撃であった。佐久間象山が生まれたのは1811年、神童とうたわれ15歳で藩主・真田幸貫から重用された。1841年、真田幸貫が老中に就任すると、翌年海防掛になったことで、佐久間象山を顧問に据えて国防プランを検討させた。海防八策では、西洋に習って大砲・軍艦をわが国でも作るべきとといており、ペリー来航の11年前のことである。また、佐久間象山は知友の医師・黒川良安から蘭学を学んだ。1850年からは江戸木挽町に砲術・軍学を指南する学塾を開設し、勝海舟、坂本竜馬、山本覚馬らが集まって学んでいる。なかでも吉田松陰と長岡藩士・小林虎三郎は門下の両虎といわれた。ペリー来航後に締結された日米和親条約に示される下田開港には猛反発し、安倍正弘や松平春嶽ら幕閣に意見書を送った。下田は欧州艦隊がアジアを目指す場合には必ず通る喜望峰にたとえ、外国艦隊の拠点をつくる危険性を説いたのである。この年門下の吉田松陰はペリー艦隊への接近を企てたことから、連座して佐久間象山も幕府に身柄を拘束させた。塾も閉鎖され、9月には松代へ護送され9年余り蟄居生活を送ることとなる。蟄居を解かれる直前、佐久間象山と対面した久坂玄瑞は「攘夷の義は合わないが兵法・砲術に関してはかなうところなし」としている。1864年3月、幕命を受けて京都へ向かった。大津で、佐久間象山一行を長州藩の品川弥二郎と杉田松助らが目撃した。彼らは開国派の佐久間象山を暗殺しようとしたが、佐久間象山は吉田松陰の師であると誰かが言い出したために暗殺は思いとどまったという。佐久間象山にとっては京都はまさに火中であったが、精力的に要人と会った。開国派の山階宮晃親王には兵法を解説、実弟の中川宮、一橋慶喜など公武合体派にもその知識を披露した。

 8月18日の政変で打撃を受けた急進的攘夷派はこの年の6月5日の池田屋事件で失墜していた。池田屋の悲報を受けて、上京する長州勢も少なくない。佐久間象山は万一の事態に備えて天皇を彦根に動座する計画を推進した。しかしこの情報は攘夷派の憤怒を招き、7月10日同士たちが佐久間象山を尋ねて彦根動座が彼の真意であることを確認すると、翌11日に襲撃、暗殺したのである。場所は三条大橋西詰付近で、刺客二名に斬られた後自宅まで馬で疾駆したが落馬し、全身に乱刀を受けて絶命した。刺客の中軸・熊本藩士・河上彦斎は佐久間象山と懇談を持った久坂玄瑞と交流があった攘夷派であるから久坂の意思を実行に移したのか、先走りであったのか。殺害された不首尾から松代藩は佐久間家の断絶を決定するという不遇の死となったが、刺客たちは後にあまりにも偉大な人物を暗殺したことに気づかされることとなる。

コメント    この記事についてブログを書く
« 高尾志伊奈さん | トップ | 幕末93 1864年7月 池田屋事件 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

幕末」カテゴリの最新記事