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福井-10 四候のひとり 越前藩主・松平春嶽

2021年11月14日 | 幕末

 幕末の大名たちの間で参勤交代の緩和について話題となったが、その中心に居たのが福井藩主・松平春嶽である。今は、外国の脅威に対抗すべく軍事力を強固にすべき時であるというものである。当時、福井藩は90万両の借金があったために、その負担は領民にかぶさり、一揆が勃発しようとしていた。そこで春嶽は白米一汁化をはかって節約を推進したが、財政難の最大の原因が参勤交代にあるとしたのである。中でも加賀藩では、参勤交代にかかる宿代は2000人分におよび、一泊1000万円、総額2億円にもなったという。江戸藩邸の維持費も巨額で、5000人も抱える藩邸・加賀藩は50億円費やしていた。

 1853年開国要求のためにペリーが来航した時、老中阿部正弘は各地の大名に意見を募った。この建白書を幕府に差し出したのが26歳の松平春嶽である。参勤交代による疲弊を訴え、これを緩和して全国で軍備拡大を主張した。幕府への反逆ともとれる訴えを何故できたのか。春嶽は田安徳川家の出身で、11代家斉の甥、12代将軍家慶の従兄弟というサラブレッドであり、譜代大名では言えないが、親藩大名の将軍に近いからこそ言えたのである。阿部正弘は、参勤交代は骨の最大なるものであり、納得いかないとして、島津斉彬に相談する。斉彬は同意は示すが外様な自分には言えないとしたが、春嶽は出し続けたという。 

 次の策は・・・というと、同じ志を持つものと党派を組み、改革の協力を要請した。難色を示す大名もあったが 改革の意義を力説すると、鳥取藩主・池田慶徳は共感し、幕府に建白書を提出している。やがて賛同の声がひろがると、海防係大目付は 出費を減らすことが海防につながると意見書を提出し、4年後改革の機運が高まりつつあったが、井伊直弼が立ちはだかることとなる。安政の大獄により一橋慶喜派が一掃され、春嶽は隠居謹慎処分となった。その後、桜田門外の変で井伊直弼は死すが、春嶽の謹慎は説かれず4年に及んだ。その間春嶽は自らの政治構想を「虎豹変革備考」で描いている。

 暗殺の二年後1862年、島津久光が藩兵1000を引き連れて上洛すると、朝廷の後ろ盾を得て幕政改革要求した。春嶽は謹慎を解かれ、将軍家茂に呼び出されて幕府と朝廷との関係修復のため、公武合体政策を依頼された。これは参勤交代の緩和を迫る絶好のチャンスである。国防の強化のため参勤交代の緩和断行、これで権威が維持できるかも知れないということで独裁政治をやめさせて協力体制に傾いたところで、参勤交代緩和を含む幕政改革を迫った。1862年7月 幕府は 慶喜を将軍後見職に政事総裁職に松平春嶽を任命した。その一月後に幕府は参勤交代は3年に一度に変更、江戸滞在は100日に短縮、妻子は帰国が自由となったのである。この効果は大きく、各藩は軍事力の増強を開始した。 

 一方急速に発言力を強めていた朝廷は大名たちに、次々と京都警護を発令したことは思いのほかであった。1863年2月 慶喜は、かたくなに攘夷を主張する朝廷に開国を容認させるために江戸を出発、また調整役を頼まれた春嶽は朝廷と開国容認の交渉を続けていた。しかし孝明天皇は一向に譲らない。また慶喜との対立もあって、3月には政事総裁職を辞任して改革から離脱する。その後の激動はいうまでもない。長州征伐を命じ、参勤交代の復旧を発動。幕府の衰退は止めようがなかったと春嶽は感じた。かくして1867年大政奉還へとつながり、参勤交代制度は終焉をむかえるのである。明治に入ってからの春嶽は文筆業に励み、数多くの著作を残している。逸事史補には幕末期の赤裸々な思いが書かれている。

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