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幕末93 1864年7月 池田屋事件

2013年06月13日 | 幕末

 池田屋事件は、幕末の1864年7月8日に京都三条木屋町の旅館・池田屋に潜伏していた長州・土佐藩の尊王攘夷派を京都治安組織の新選組が襲撃した事件である。尊王攘夷・勤王浪士 特に長州藩は宮中クーデター・八月十八日の政変での失脚後、勢力挽回を試み、肥後を脱藩した宮部鼎蔵らは秘策を計画していた。一方、京都守護職は新選組を配下において市内の捜査を行わせていた。6月5日、四条で炭薪商を営む枡屋の存在を突き止めると会津藩に報告し、古高俊太郎を捕らえた新選組は土方歳三の拷問により自白に追い込んだ。その内容は、「祇園祭の前の風の強い日を狙って京都御所に火を放ち、その混乱に乗じて中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜・松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」  というものであった。また宮部らが洛中のいずれかで会合を持つという情報に接し、ローラー作戦が展開された。古高の逮捕によって、長州藩・土佐藩・肥後藩等の尊王派がこの計画の実行・中止協議が三条大橋近くの池田屋という旅籠に於いて行われる事を突き止め、踏み込んだところ古高捕縛の対応策を協議していた宮部らと遭遇。宮部や長州藩士の吉田稔麿をはじめ7人が斬殺され、二十数名の志士捕縛されたのである。

 新選組は会津藩に応援要請をしたが、その動きは遅く、一刻を争うと判断した局長・近藤勇は単独行動に踏み切り、近藤隊4人と土方隊24人の二手が池田屋突入を開始したのである。宮部鼎蔵がこの実行に積極的だったのに対して、桂小五郎など長州藩側は最終判断にいたらず、同じ尊攘派内部にも温度差があった。新撰組は洛中に潜む尊攘派を壊滅させ、背後にある長州藩を追い詰めようとした。このような戦術は新撰組幹部の独断というより、その上部組織・京都守護職の会津藩側が考案し、新撰組が実行部隊であったとみなせる。この事件では何の尋問もなく長州藩同士が斬られたことから長州藩内の尊攘派は激昂し、次に起こる禁門の変の起爆剤となる。この頃高杉晋作は萩の野山獄にいた。理由は次である。松下村塾で同門だった久坂玄瑞とは方法論の違いから隠棲生活をおくっていたが、毛利敬親から尊攘戦に参加するように命じられたことで、奇兵隊を創設して上洛。この行為を脱藩とみなされて獄中にいたのである。

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