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藤原道長亡き後の頼通

2007年09月05日 | 平安時代

藤原道長亡き後の頼通

 藤原道長の嫡男・頼通が摂政となったのは26歳のときであり、この後半世紀という長期間、甥の後一条天皇、後朱雀天皇、後冷泉天皇の三代に渡って摂関の地位にあった。 平安時代の摂関二十人のなかで、次に長いのは忠通の三十八年、全体の平均が十年程度であるから頼通が破格であったことがわかる。 しかしそれは彼の力量によるものではなく、父・道長が敷いた路線の賜物であり、頼通はどちらかというと凡庸であったという。  「恵和の心」の持ち主であったといわれる頼通の前半生は、父の支持を仰ぐなど多くの意見を聞きながら政治を行ったが、父の死後は権勢欲が強まっていった。 その治世の中で見るべきものとしては荘園の整理がある。 この頃、新立荘園を廃止する法令が数回にわたって出されているが、公領を取り込んで私領化する貴族が増えていた。 荘園化の現象は地方において著しかったので公領の減少は受領にとって大きな問題であった。そこで荘園の廃止を要求する受領の意見に押されて廃止令となるのであるが、効果は芳しくなく、かえって権門を擁護する形となっていった。

 この時期に、藤原氏出身の有能な政治家が世を去っている。一人は90歳まで現役の右大臣を勤めた藤原実資である。もう一人は59歳で権大納言の職を退き、京都・北山の長谷で出家し、76歳まで生きながらえた藤原公任である。 従兄弟同士の二人は摂関の実頼を祖父に持ち、実資は父の若死でこの祖父の養子となり、財産を受け継ぎ、公任の父・頼忠は関白であったが、この関白は子息に受け継がれるものではなかった。 頂点には立てなかった二人ではあったが大きな功績を残している。 道長は9歳年上の実資をうっとうしく思わぬでもなかったが、「賢人右府」と称された実資の知識に頼ることが多く、無視できない存在であった。 また気骨のある実資は王道思想を道理とする立場から、天皇をないがしろにする道長の態度に反発することもあったが、おしなべて迎合をしている。 また実資は、中宮・彰子を賢后と呼び、彰子の信任をえており、また、長寿ゆえに5代の天皇にまみえることとなった。 一方頼通にとっての実資は頼り切る存在であった。 粘着質の実資とは違って、公任は道長と同じ年の学識豊かな才人で、藤原行成らと一条天皇時代に四納言に挙げられ文化面でも活躍は著しかった。 また、漢詩、音楽、和歌のいずれにも優れ、三船の才と讃えられた。 

 頼通は一人の妻への愛情が深いために、後継者問題で苦労をし、挙句の果てに外戚関係を失って宇治に隠棲した、ということがよく言われている。妻の名は隆姫女王で、その父は村上天皇皇子の具平親王である。 18歳の時に15歳の隆姫女王と結婚したのは彰子が敦良親王を生んだときである。 隆姫女王は93歳の長寿であったが一人の子も産むことはなかった。 将来を案じた道長は、三条天皇から皇女を頼通に降嫁してはと勧めたが、隆姫の気持ちを考え断ったと言う。 しかし頼通が隆姫女王以外に女性を寄せ付けなかったのかというと、そうではない。 この頃に、藤原永頼の娘に男子を産ませている。また、源憲定の娘にも通房という子を生ませている。 すでに隆姫の弟・源師房が頼通の養子になっていたが、道長は通房の誕生を喜んでいる。 ところが通房は18歳で大納言となった2年後に亡くなっている。 さらに頼通は隆姫女王の義弟・頼成の娘・祇子との間に6人の子をもうけ、末子の師実が後を受け継ぐことになる。 僧籍にはいった覚円を除いて3人の兄は全て他家の養子になっているのは隆姫女王への配慮か、それとも養子にした源師実の立場を考慮したものかは不明である。 そして娘に恵まれなかったせいか、摂関の命取りとなった。 一条天皇の皇子・敦康親王の娘・嫄子を養子にし、後朱雀天皇(彰子所生の敦良親王)に入れたが、祐子内親王しか生まれず、やっと祇子との間に生まれた寛子を後朱雀天皇の皇子(後の後冷泉天皇)に入れたが、一人の子にも恵まれなかった。 寛子は92歳で崩御するまでに6代の天皇にまみえ、その間に皇后・皇太后・太皇太后となるなど、皇后位につくこと77年というのは前代未聞であった。 寛子は派手好みで、夫の後冷泉天皇亡き後は宇治に住み、平等院の奥の院と呼ばれた白川金色院を創設した。 結局、外孫の望みを絶たれた頼通に残された道は、子息を通じて強力な楔をうつことであった。 頼通が期待を寄せたのは養子の右大臣・源師房であり、妻となった尊子(道長の五女)には俊房・顕房・麗子がいた。 男子はそれぞれ左大臣、右大臣となり、麗子は師実の妻となり、関白・師通を生んでいる。

                   為隆為房(1049-1115白河上皇に重用)
為平親王娘          尊子(道長五女)    ┣為隆(万里小路家祖)
 ┣隆姫女王995-1087 ┣俊房        ┣顕隆(葉室家祖) 
 ┣次女  ┃    ┣顕房       ┃ ┗徳大寺実能━公能
 ┣師房  ┃    ┃  ┗賢子(白河中宮)┗妹(堀河・鳥羽の乳母)
 ┣嫥子女王┃    ┣麗子        

具平トモヒラ親王┣源師房(1008-1077養子)               篤子内親王
      ┣源嫄子(敦康親王娘1016-1039養子)      中宮賢子 ┣
       ┃ 彰子┣祐子内親王1038-1105 藤原茂子(公成娘)┣73堀河天皇1079-1107
       ┃  ┣69後朱雀1009-1045     ┣
72白河天皇1053-1129
       ┃  ┃  ┃  ┣71後三条1034-1073 ┃乳母:藤原顕季アキスエ母
       ┃  ┃  ┃禎子内親王(陽明門院1013-)┃┣長実
      ┃66一条天皇┃  光子(堀河鳥羽の乳母) ┃┃ ┗得子(美福門院)1117-
道長    ┃     ┣70後冷泉1025-┣三条実行 ┃┣家保    ┃
 ┣頼通992-1074   藤原嬉子┃    ┣西園寺通季┃┣顕輔    ┣76近衛天皇
 ┃      ┃ ┣通房1025-1044  ┃    ┣徳大寺実能┃藤原経平娘 ┃ 
 ┃      ┃ ┃         ┃    ┃ ┗公能 ┃      ┃ 
  ┃   ┃源憲定・娘┏━━━┛    ┣璋子(待賢門院)1101-1145┃
  ┃   ┣覚円   ┣ x     実季┳公実      ┣75崇徳      ┃
 ┃   ┣寛子 1036-1127平等院奥院┗苡子   ┣77後白河      ┃  忠隆娘
 ┃   ┣師実 1042-1101京極殿       ┗━━┓┃         ┃   ┣基通 
 ┃   ┣家綱-1092 ┣師通モロミチ1062-1099     ┃┃  ┏━━━━━┛┏近衛基実
 ┃   ┣忠綱-1084 ┣賢子 ┃       74鳥羽上皇       ┣近衛基房 
  ┃   ┃     麗子  ┣忠実1078-1162    ┣       ┣九条兼房 
  ┃  
藤原祇子     ┣全子  ┃  ┣泰子(高陽院1095-1155) ┣慈円
  ┃頼成(隆姫義弟)  俊家1014-1082 ┃  ┣忠通(法性寺関白1097-1163)
  ┣教通996-1075           ┃ ┣源師子
倫子 ┃   ┃┣ x                 ┃源顕房
   ┃   ┃嫥子女王
       ┣頼長1120-1156(内覧 保元の乱で敗)
子内親王 ┣ 信家       盛実娘

         ┣ 通基        
 
       ┣ 信長1022-1094(九条太政大臣)        
  
         ┣ 生子1014-1068(後朱雀女御)      
  
   頼忠   ┣ 歓子1021-1102(後冷泉皇后)      
  
    ┣公任┣ 真子(後冷泉女御)      
  
 厳子女王┣娘 
  
     昭平親王娘

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