小督と横笛と法輪寺
京都には法輪寺が二箇所にあります。 ひとつは北野天満宮の南に1kmくらいのところにある通称「だるま寺」ともいうお寺です。 そしてもうひとつが嵐山の渡月橋を渡って嵐山側へすこし行ったところにあります。
嵯峨野の玄関口となる嵐山の渡月橋は、その昔は法輪寺橋と呼ばれていたという。この橋の南側山麓に、「十三詣り」でよく知られている法輪寺で、参拝のために設けられた橋であったとされている。 橋の途中から南の山を眺めると、その法輪寺の多宝塔を見ることができる。なお、渡月橋と呼ばれるようになったのは鎌倉時代で、亀山天皇が名付けたとされている。本尊は、木造虚空蔵菩薩座像(弘法大師の弟子道昌僧正の作)で、日本三虚空菩薩蔵の一つ (他の二つは、伊勢神宮の鬼門を守護する金剛証寺・伊勢市朝熊と、鎮護国家の道場として創建された明星輪寺・大垣市) とされている。 法輪寺は奈良時代713年 元明天皇の勅願で創建され、開山は行基菩薩。もとは葛井寺(くずいじ)と称していてが、平安時代の天長6年(829)弘法大師の高弟道昌(どうしょう)が虚空蔵菩薩を安置し、貞観16年(874)に法輪寺と改められている。 法輪寺は、推古30年(622年)に聖徳太子の病気平癒を祈って山背大兄王とその子由義(弓削)王が建立を発願したとするほか、聖徳太子が建立を発願し山背大兄王が完成させたという伝承も伝えられている。 (撮影:クロウ)
法輪寺の山門をくぐり、勾配のある石段の途中に珍しい「電電宮」という名前の小さな祠がある。この電電宮の周りに立つ奉納・寄進者名板を見ると、国内の大手電気・電子関連や放送関連の会社名がずらりと並んでいる。
さらに石段を登ると視界が拡がり正面に本堂、右手は渡月橋が望める見晴台、左手に渡月橋を渡るときに見えていた多宝塔がある。本堂は、毎年3月13日前後の休日から十三詣りの親子ずれで賑わう。十三詣りは、江戸時代に始ったとされている。十三歳頃になると男なら声替わり、女なら生理的に変化する。すなわち子供から大人に変わる年頃。十三歳になった男女が正装し、旧暦3月13日(現在4月13日)前後に渡月橋を渡って法輪寺の虚空像菩薩に厄払いと智恵を願いに詣でる京の伝統的な祭事。 参拝帰りの子供たちは、渡月橋を渡り終えるまでに後ろを振りかえると、虚空像菩薩に授かった智恵を返すと親から言われ、前を見て必死に歩くという。 なお、本堂後ろには小督局(こごうのつぼね)の供養塔と伝える小さな石塔 (現在は非公開)があるという。また、境内には弘法大師の修行の遺跡と伝えられる葛井の遺跡があるが、現在は柵が施され見ることが出来ない。
さて、この法輪寺は平家物語の中で悲恋の舞台として登場している。 一つが、高倉帝の寵愛を受けた小督局(こごうのつぼね)が、清盛の怒りから逃れるために隠れ住んだという話。高倉帝(天皇)12歳のとき、17歳の娘徳子(建礼門院)を高倉帝のもとに嫁がせたのが平清盛。築き上げた平家の栄華を確固たるものとするための政略結婚である。やがて徳子は出産するが、そのようなとき宮廷一の琴の名手といわれた小督(こごう)が高倉帝の前で琴を奏でたのが悲劇の始まりといえる。小督局は、桜町中納言藤原成範の娘で、琴の名手で美しいことでも大変評判、たちまち高倉帝は小督に熱を上げてしまう。ここまでは、当時の宮中では数ある出来事。しかし、高倉帝の中宮の徳子(建礼門院)が平清盛の娘であったことと、小督局は清盛の娘婿にあたる冷泉隆房の愛人であったことだ。高倉帝が小督を寵愛していることを知った清盛は大変怒り、小督を亡き者とする動きをはじめる。これを知った小督局は、夜中秘かに宮廷を抜け出し、姿を隠してしまう。
一方、高倉帝の熱は冷めず、姿を隠した小督局を探すように側近の源仲国(みなもとのなかくに)に命じる。しかし、嵯峨辺りに住んでいるのでは?としか分からない。仲国は、連日連夜、馬にまたがり嵯峨周辺を訪ね廻る。月の美しいある夜、馬を近づけた法輪寺橋の近くで聞き覚えのある琴の音がかすかに聞こえる。仲国は笛の名手、宮廷では幾度となく小督の琴と合奏したことがある。琴を奏でているのは小督局?さっそく馬上で琴の音にあわせ笛を吹く・・・。小督局とめぐり合った仲国は、高倉帝の思いを伝えて小督を宮廷へ連れ戻したという。
高倉帝は大変喜び、ますます小督局への寵愛は増す。一方、腹の虫が納まらないのが清盛。小督への憎しみは頂点にたち、やがて小督を宮中から追い出し、無理やり尼としてしまう。二度と高倉帝と会うことが出来なくなってしまった小督局。高倉帝の寵愛を受けたがための悲劇である。
二つ目は、建礼門院に仕える横笛と滝口入道の悲恋である。 滝口入道とは、内大臣・平重盛に仕えていた宮中警護に当たる滝口(清涼殿の東北の詰所)の武士・斉藤滝口時頼のこと。 滝口時頼は、時の権力者平清盛が西八条殿で催した花見の宴で、建礼門院(重盛の妹)に仕えていた雑士女・横笛の舞を見て一目惚れ。その夜から横笛のことが忘れられず恋しさが募るだけ。思い悩んだあげく、恋しい自分の気持ちを手紙にして横笛に届けることにした。刀しか持ったことのない無骨な手で、書いては消し、書いては消して・・・。その文はやがて横笛のもとに届けられた。
宮中警護を勤めるたくましい男性から愛を打ち明けられた横笛は「この気持ちを受け入れよう」と心に誓い、それから幾度となく手紙を交わし、愛の契りを結んだのであるが、この愛は長くは続かなかった。 二人の交際を知った滝口時頼の父は「おまえは名門の出、将来は平家一門に入る身ながら、あのような身分の低い女に何故思いをはせるのか」と厳しく叱りつける。滝口時頼が父茂頼(しげより)に従わなかったことから、とうとう勘当されることとなる。主君(内大臣)の信頼に背いた己を自責し、横笛に知らせることなく、わずか18歳で嵯峨の法輪寺にて出家。(『源平盛衰記』)煩悩を捨て、一心に仏道修行を誓ったのである。 幾日も経たないうち、都の噂で滝口時頼(滝口入道)は出家し嵯峨のあたりの寺にいると知る。横笛は、自分の心を打ち明けようと、あちこちの寺を尋ね歩き。都を出る時に着てきた横笛の着物は、夜露に裾は濡れ汚れ、袖もほころび、次第にみすぼらしくなっていた。人を怪しむ里犬に吠えられ、嵯峨の地へやって来たある日の夕暮れ、横笛の耳へ僅かながら念誦(ねんしょう)の声が聞こえた。耳を澄ませて声の方向を見ると、闇の奥の小さな庵(法輪寺)からであった。横笛はそっと近づき、念誦の声に「この声は、お捜していた滝口様」。はやる気持ちを抑え、表戸を叩き「滝口入道様、お願いでございます。お姿をお見せくださいませ。都から捜してまいりました」と声をかけた。声をかけたのは横笛の供の者。お供にそのように言わせ、自分は茂みの影で背をかがめて滝口の姿を一目見ようとしたのであった。 お供の声が届いたのか、先ほどまで聞こえていた念誦がぴたりと止み、しばらくすると一人の僧が静かに戸を開けて出てきて「そのような者はこの僧坊にはおりません、お間違いです」と言って姿を消した。茂みの影で横笛は「聞こえていた念誦の声は、間違いなく滝口様。 なぜお姿を見せていただけないのか」と涙したのである。これは、滝口が同宿の僧を差し向けてそう言わせ、滝口はこの事の成り行きを襖の隙間から見つつ「会うは修行の妨げなり」と涙しながら帰したのである。遠くから尋ね尋ねて、ようやく見つけた滝口に追い返された横笛は憔悴していたが、真の自分の気持ちを伝えたく「山深み 思い入りぬる柴の戸の まことの道に我を導け」と指を斬り、その血で近くの石に書き記し、泣く泣く都へ帰ったとも、悲しみのあまり法輪寺の近くの大堰川に身を沈めた(南都(奈良)・法華寺へ出家したとも伝えられる)。横笛の死を聞いた滝口は、女人禁制の高野山静浄院へ移り、ますます仏道修行に励み、その後、高野聖となり元暦元年(1184)、紀州の勝浦で、源氏に追われた平維盛の入水に立ち会っている。なお、嵯峨野/祇王寺の隣に、横笛・滝口を祀るお寺「滝口寺」があり、滝口が出家したのは滝口寺としている。
写真は京都・時代祭りでの横笛 (撮影:クロウ)