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源頼政

2007年07月03日 | 平安時代

源頼政

 先週、お墓ができあがったということで、兵庫県丹波へいってきた。 お墓といっても歴史的に由来のあるお墓でもなんでもなく、実は私の母方のおじいさんの墓である。 そしてそこにはおばあさんも眠っている。 そしてその墓の隣には二人の叔父さんと一人の叔母さんも眠っている。 二基のお墓に詣でたわけである。 おじいさんが亡くなったのは昭和20年、おばあさんは昭和28ねん、そして二人の叔父さんはなんと、大正11年と大正14年と墓石に刻まれていた。 私も初めて知ったのであるが、二人が亡くなったのは2歳と8歳。 男の子は幼い頃によく熱を出すという。 死因は高熱であったそうだ。 今では考えられないことであるが、今から80年以上も前の時代では普通のことであったらしい。 奈良・平安時代に40歳まで生きれば長寿であったといわれる所以を感じながら、 その足で向かったのは、丁度帰り道にある長明寺である。 ここには源頼政という歴史的にも有名な摂津源氏の棟梁が祀られている。 

   源仲政
      ┣ 頼政1104-1180(二条 六条 高倉三代に仕え、宇治で戦死)
      ┣ 頼行  ┃   ┣仲綱(二条天皇東宮時代に仕える)     
    ┃ ┣宗頼 ┃   ┣頼兼         ┗宗綱(宇治で戦死)
     ┃  ┣正綱 ┣宗頼 ┣二条院讃岐1141-1217中宮任子(宜秋門院)に再出仕
     ┃  ┗兼綱 ┣正綱 源斉頼娘     ┣重光

     ┃
      ┗兼綱-1180(宇治で戦死)  ┣有頼
     ┣ 光重              藤原重頼
        ┣ 泰政
   藤原友実娘

     

 

 法道仙人の開基と伝わる古寺・長明寺には源頼政公の墓碑や鵺退治を再現した像があります。  平安時代後期の武将であり歌人・源頼政(1104~1180年)は後白河天皇に愛され、保元の乱(1156年 保元元年)では後白河方の源義朝の下で戦い、続いて義朝が起こした平治の乱(1159年 平治元年)では、平清盛に味方し、源氏でありながら平家の政権下に名を残します。 出世は遅く、昇殿を許されたのは63歳のときで、清盛の推挙で従三位に叙せられたのは75歳になってからである。 清盛の厚い信頼もあったが、目に余る平家の横暴に反平家の兵を挙げ、平知盛・重衡ら率いる六波羅の大軍に追撃され、宇治川で敗れ平等院で切腹し、歳七十七にて果てます。 

 源頼政は、源氏といっても河内源氏(頼朝の血筋)ではなく、摂津源氏の系統の棟梁でした。  棟梁といっても、それほどの兵力は有しておらず、常時投入できる兵力は50騎くらいだったろうと言われています。 摂津源氏は清和源氏の始祖である頼光の嫡流で、本来はこちらが正統家系のようです。 三位入道と称され以仁王に打倒平家を持ちかけた張本人で、優れた歌人としても後白河院に気に入られ寵愛を受るが、それほど厚遇を受けておらず、32歳の時に従五位の蔵人に任ぜられているが、この後は泣かず飛ずの日が続き、保元の乱、平治の乱共に後白河院の側として参戦するが、それに対する恩賞の記録が残っていない。 彼が内昇殿を許されるのに40年もの歳月がかかっています。 そして挙兵も清盛に発覚してしまい、 頼政は宇治の平等院に立て篭もった以仁王の元に馳せ参じ、以仁王を逃がすために奮戦するが、仲綱と共に戦死します。  この宇治での合戦は『平家物語』のなかでも見せ場の一つで、川を挟んで対峙した両軍ですが、その間にかかる橋の上では熾烈な争いが繰り広げられ平家の追討軍はなかなか攻め込むことができませんでした。  このとき、平家方の侍大将忠清が、橋を渡るのは困難として迂回を進言するが、足利又太郎忠綱という人物が進み出て、川に飛び込むと、続々と板東武者達が川へ雪崩れ込みます。  「強い馬は上手に立てよ。弱い馬は下手にせよ。馬の足が届く間は、手綱を緩めて歩かせよ。跳ね上がったら、手綱を引きしめて泳がせよ。遅れるものは弓の弭に取り付かせよ。手を取り組み、肩を並べて渡しゆけ。鞍壺ににしっかり尻を据えて乗り、鐙を強く踏め。馬の頭が沈んだら、引き上げよ。強く引き過ぎてひっかぶるな。水に浸ったら、三頭の上に乗りかかれ。馬には優しく、水には強くあたれ。川の中では弓は引くな。敵が射ても応戦するな。常に錣を傾けよ。傾け過ぎて天辺を射られるな。真っ直ぐに渡し押し流されるな。流れに従って斜めに渡れや渡れ。」

鵺退治の由来

 仁平三年夏、近衛天皇は奇病になやまされておりました。深夜になると黒雲が御所をおおい鵺の鳴き声が聞こえてその度に天皇は苦しまれた。薬も名僧たちの祈願も効かなくやがて雲の中に住む妖怪の仕業と考え弓の名手源頼政に妖怪退治が命じられた。きっと見上げた頼政は弓をひき、「南無八幡大菩薩」と心の弓に祈念して矢を力一杯放つと見事命中、落ちてきた妖怪を家臣の者の早太が刺し殺した。火をともして見ると、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、恐ろしいと姿であったという。 天皇は感心され獅子王という名剣を下された。

 頼政公墓                      菖蒲御前墓

 

菖蒲御前

 鵺退治の功績により、源頼政は菖蒲(あやめ)御前を娶ったが、鵺が凶事といわれるように京の都では、それから三年後に保元の乱、平治の乱が次々に起こり、頼政も自害して死んでしまった。 その報を聞いた菖蒲御前は、家臣に連れられて逃亡の旅へ出た。諸国をさまよい、やがて越後の地に流れ着いた御前は、とある神社で休息することにした。 するとその神社にどこからともなくおびただしい烏の群れが集まり、境内を真っ黒に染めてしまった。これをみた菖蒲御前は弓を取り出すと何ごとか呟いて矢をつがえると、村びとの嘲りをよそに烏たちは鳴き止み、ばたばたと地面に落ちたではないか。ふたたび御前が何ごとか唱えると、烏たちは息を吹き返し、どこかへ飛び去ってしまった。以来、この森に烏が近付く事はないという。 この光景に驚いた村人たちは、御前を家に招き歓待した。 御前は、この地で暮らす事にし亡き夫の菩提を弔いながら静かに暮らしたという。

 夫・頼政を失った菖蒲御前は身重であったが、三歳になる鶴若丸の手をひいて安芸国に落ち延びる。哀れにも鶴若丸は病死してしまうが、その地で無事に男子を産んだ。 平氏が壇ノ浦に滅び、鎌倉に幕府が開かれると、菖蒲御前は頼政の勲功によって賀茂庄を与えられ、息子の頼興とともに二神山の城に入った。 平穏な二十年が過ぎた頃、平氏の流れを汲む土肥遠平が二神山の城を攻めたてた。 不意を突かれた城はまたたく間に攻め落とされる。親子は散り散りになり、菖蒲御前は侍女の鶴姫とともに馬に乗って逃げ延びる。しかし、追手の追跡は厳しく、あっという間に背後に迫る。ある池のほとりに差し掛かった時、鶴姫がこう切り出した。 「御前さま、もはやこれまでにございます。この闇ですから、私が身代わりになって防ぐ隙に、少しでも遠くへお逃げください」  御前を逃がした鶴姫は追手の前に立ち塞がり、「われこそは、菖蒲御前なるぞ。汝らが悪党の手にかかるは源家の恥。最期のほどをとくと見よ」という間もなく、池に飛び込み、短刀で喉を掻き切った。  水から引き上げられた遺骸の正体が知れた頃、菖蒲御前の馬は池から遠く離れた場所まで足を進めていた。  その後、ふたたび追手に捕まりそうになった御前は、乗っていた馬の腹を切り裂いて、そのなかに隠れることで逃げおおせる。  小倉山の麓に身を潜めた御前は、髪を下ろして西妙尼と名乗り、鶴姫と愛馬の菩提を弔って余生を送ったという。

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