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新熊野神社

2008年01月10日 | 平安時代

新熊野神社

 新熊野神社は熊野信仰の盛んな平安時代末期1160年、後白河上皇によって創建されました。 後白河天皇1158年の退位後も院政を敷き、そのときの住まいとなったのが現在三十三間堂の東側にある「法住寺」で、「法住寺殿」といわれ、その鎮守社として創建されたのが新熊野神社、鎮守寺として創建されたのが三十三間堂です。その造営には法皇の命を受けて平清盛が当たりました。 法皇は一生のうちに34回熊野詣をしていますが、当時の都人にとって熊野に参詣することは大変なことであったために、熊野の新宮・別宮として創建されたのが当社で、当社は長らく京の熊野信仰の中心地として栄えました。当社が「新熊野」と書いて「いまくまの」と読むのは、紀州の古い熊野に対する京の新しい熊野から来ています。 新熊野神社はその後、350年に渡って繁栄を極めましたが、応仁の乱以降、度々の戦火に見舞われ、廃絶状態となります。 それを再建したのが、江戸時代初期、後水尾天皇の中宮東福門院・和子で、現在の本殿は1663年聖護院宮道寛親王(後水尾上皇の皇子)により造営されました。

新熊野神社(撮影:クロウ)

 

 将軍義満と最も下級の役者・観阿弥が出会ったのは新熊野神社であるという。1374年当時17歳の将軍義満はこの地で初めて世阿弥の舞を見た。 絶世の美男子・世阿弥は能面を外して「翁」という演目を舞ったが、以来魅了された義満は関白・二条良基を世阿弥につけて教育し、「藤若」という名も授けている。

 

熊野には御神木・御神鳥というのがあります。本殿の左右にあるのが御神木「椥」で、「梛」とも書きます。 新熊野神社は古来より「梛の宮」とも呼ばれ、「椥」が熊野の御神木になっているのは、熊野信仰の原点が黒潮に乗って我が国に渡来した大陸南部の人々の信仰にあったことを示唆しています。 また、御神鳥は八咫烏です。八咫烏は三本足の烏として知られており、八咫烏の由来は日本神話にあり、神武東征の際、高御産巣日神によって神武天皇の元に遣わされ、熊野から大和への道案内をしたとされる伝説の鳥で、熊野の神の化身と考えられています。 

 

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