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奥州藤原氏

2007年12月04日 | 平安時代

奥州藤原氏の繁栄と滅亡

 源義経を匿い、源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏はもともと源氏とは敵同士であった。 平安初期、桓武天皇の軍事官僚であった坂上田村麻呂は征夷大将軍として東北の地を征服し、大和朝廷の領域に組み込まれた。 陸奥の奥六郡(現在の岩手県)と出羽の山北三郡(現在の秋田県)である。 朝廷に服従した蝦夷はこれより俘囚(捕われた者)と呼ばれることとなる。 この俘囚の中から金という豊富な経済力を背景にして、安倍氏(奥六郡)と清原氏(山北三郡)という豪族が出現する。  1051年、安倍頼良は奥六郡の南・衣川を越えて大和朝廷の領域に侵入した。 このとき朝廷側は源氏の棟梁・源頼義(八幡太郎の父)を陸奥の守に任じて現地に向かわせた。 これをきっかけとして俘囚と朝廷による前九年の役が始まる。 最初は源氏側についていた藤原経清が安倍氏についた為に源氏は苦戦を強いられる。 経清はもともと中央の藤原氏一族であり、この地に赴任した藤原の子孫であるが、 安倍頼良の娘婿となっていた為、味方となったからである。 ここで、俘囚の出羽・清原氏が源氏に味方をすることとなり戦局は一変して源氏有利となり、結局安倍頼良、息子の貞任は討たれ、経清も惨殺された。 これにより安倍一族の夢は敗れる。 これにより源頼義は伊予守、義家は出羽守、清原氏の棟梁・清原武則は鎮守府将軍となった。 これにより清原氏は出羽だけではなく奥六郡も手中にしたが1083年に清原氏の内紛が起こる。 このときの源氏は息子・義家の時代であるが、義家は陸奥守となって東北へ下り、内紛に乗じて奥六郡、山北三郡を源氏の勢力下に置こうとした。 結果、義家は清原武則の孫・家衡を討ち取り、(後三年の役)内紛を鎮めた。 これに対して朝廷は義家になんら恩賞を与えることなく、戦いが終わると義家を陸奥守から解任する。 源義家は部下達に自腹を切って恩賞を与えたために東国武士から信頼されることになる。 ところで、この二度にわたる戦いで清原氏の唯一の生き残りの藤原清衡が膨大な遺産を受け継いで支配者となる。 これが奥州藤原氏の初代藤原清衡である。 北方の王者といわれた秀衡は清衡の孫にあたる。

 ところで、この清衡は実は安倍氏に加わり処刑された藤原経清の子である。経清の妻は経清が殺された後、敵の清原武則の妻となり、家衡をもうけている。 この異父兄弟、家衡と清衡が後に戦うことになる。 義家の応援を得た清衡は勝利し、義家が京にもどったあと、もともとの藤原姓に復帰したのである。 膨大な経済力をバックに藤原摂関家に支配権を認めさせ、奥州平泉に中尊寺金色堂で象徴される王国を築く。 しかしこの栄華を妬むものがいた。 もちろん源氏である。もともとは八幡太郎義家の功績であることを考えれば当然であり、源頼朝が平家没落の後奥州藤原氏を攻めたのは、これらが主たる理由であり、義経を庇った藤原秀衡は大いなる失態を演じたことになる。 軍事の天才・源義経により平家は一瞬にして滅びたが、これは源頼朝が奥州をも手中に入れるには好条件となった。東国・鎌倉はそれまで奥州と西の平家に挟まれる形で両者から牽制されながらバランスを維持していたが、このバランスが崩れたのである。

 そもそも源頼朝は、弟であり、軍事の天才・義経をこうも攻め立て奥州に追いやることになったのか。 源頼朝の狙いは武家政権の確立が目的である。 平家を倒すことはその目標を達成するための条件の一つに過ぎない。 頼朝が義経に下した命令はというと、平家の殲滅ではなく、神器の奪回である。 実は頼朝からすれば義経の戦果は失敗なのである。二位尼に神器を抱いたまま入水され神剣は海中深くに沈んでしまった。 頼朝は義経に期待をしたからこそ激怒したのであるが、その前の一の谷の戦いにおいて大勝利した義経は後白河法皇から左衛門少尉検非違使に任ぜられたが、これは頼朝の許可を得ていない。 兄・範頼が三河守を任ぜられ自分が無位無官であることに疑問を持った義経は検非違使という極低い官位を頼朝の許可を得ずに受けたことに対して頼朝は激怒している。 武士政権を目指す 頼朝にとって、つまり朝廷から独立を目指す頼朝にとって、義経の行動は致命的なのである。 義経にはこのあたりのことが全く理解できなかった。 あの有名な腰越状には「このような要職につけたのは源氏にとっても名誉なこと」 と言っていることからも、義経の政治的な読みはなかったといえる。 実際に頼朝が恐れたことが起きた。 それは官位の魅力に負けて、23名もの人間が義経のあとを次いで後白河法皇に屈したのであるから、頼朝敗北ということになる。 そして頼朝は23人に対して御家人の資格・つまり鎌倉武士団の資格を剥奪し、東国に入ることを禁じた。 こうして義経が壇ノ浦で勝利した半年後には、頼朝は法皇に「義経追討の院宣」をださせ、つまり義経は公に犯罪人となり、奥州に逃げ延びるが、その末路は悲劇に終わる。 

 秀衡が病死してから奥州藤原氏が滅亡するまでの僅かに二年間に何があったのか。 秀衡がなくなった後、頼朝は後白河法皇に対して泰衡追討の院宣を求めた。 義経とともに泰衡も謀反人であるから追討しなければならないのであるが、真の目的は因縁の地である奥州を藤原氏から奪い、御家人達の結束を固めることにある。 後白河法皇はこれには応じず、泰衡に対して謀反人・義経を討つように命じた。 父秀衡の遺言は、義経を擁護して鎌倉と対立するときには義経を大将軍として対抗せよ、というものである。 しかし朝廷には逆らうことは出来ず、義経を討ったのである。 そして頼朝は1189年に新たな行動にでた。 もちろん奥州藤原氏の殲滅である。 義経を殺した藤原泰衡は逃げていく途中で家来の裏切りによって殺された。 裏切った河田次郎はその首を持って頼朝のもとに名乗りを上げたが、頼朝は「主君を殺すとは不届至極」と河田の首をただちにはねた。 奥州平泉の金色堂の本尊の下には藤原清衡・基衡・秀衡・泰衡の首のミイラが保存されている。 

 これまでの幸運に感謝すべく頼朝は源氏の氏神八幡大菩薩に願いを込めた。 頼朝は鎌倉に武家の都を築くにあたって京都から八幡神を招き、鶴岡八幡宮を建立した。 頼朝の父・源左馬頭義朝は、平治の乱で平清盛に破れ、再起を期して東国へ向かった。 その途中、郎党の鎌田政家の舅である長田忠致の館に逗留した。 1159年の大晦日のことである。義朝は勧められて風呂にはいったところを襲われ、憤死した。 父の訃報を聞いた長男・源悪源太義平は飛騨で再起の兵を募っていたが、京へもどり平清盛暗殺に失敗して処刑されている。 長田忠致は源氏の家人であり、まさに裏切り者であった。 頼朝が東国の主となったとき、長田は長男とともに頼朝元に降伏してきた。 頼朝は罪を許して暫くの間家来として働かせたが、頼朝の天下となったときに長田親子は呼び出され、父義朝の墓の前でなぶり殺しにあっている。 これらの鎮魂も含めて鶴岡八幡宮に込めた思いには計り知れないものがあるようである。

源満仲912-997              
 ┗源頼信968-1048(藤原通兼,道長に仕える)               
   ┗源頼義988-1075(陸奥守 前九年の役)⇔安倍頼良(奥六郡を根拠地 藤原経清が味方)               
     ┗源義家1039-1106(八幡太郎)      ┣貞任              
       ┃(出羽三郡を根拠地とする清原武則)┗娘(名は不祥)       
       ┃⇔清原家衡(後三年の役)  ┗武貞  ┣藤原清衡⇔家衡       
       ┃ 清原氏の残党:藤原清衡  ┗家衡 藤原経清┣藤原基衡      
┏━━━━━━┛                   北方平氏┣藤原秀衡
┃                             安倍宗任娘┣国衡
┃                                  ┣泰衡
┃熊野別当長快 (熊野田辺別当は湛増)                 ┣忠衡
┃ ┣  丹鶴姫(新宮別当行範の嫁)                   ┗高衡
┃ ┣  行家(新宮十郎)1145-1186                      
┃ ┃             ┣光家-1186           
┗為義1096-1156 伊藤祐親・娘 ┣行頼                    
 ┗義朝(河内源氏)┣ 息子  ┣行宗
   1123-1160     ┃     ┗養女(姉の娘) 
    ┃      ┃      ┣
    ┣ 源義平  ┃     左金吾(刀禰弾正介の嫡子)
    ┗ 源頼朝1147-1199(乳母比企の局) 

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