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再会のロマンス 成就 25年越し、京の身障者夫婦に

2009年01月01日 | 平安時代

知り合いのブログで紹介されていたほのぼのとした記事です。新年にふさわしい心洗われる内容でしたので、ここでも紹介したいと思います。(12月31日京都新聞より抜粋)

 お互い身体障害者で若いころ1度は結婚をあきらめたが、25年ぶりに再会して結ばれた夫婦が京都市伏見区にいる。妻となった女性が「今昔物語集」に伝わる再会のロマンスゆかりの勧修寺(かじゅうじ)(山科区)で長年暮らしていたことから、「平安時代の純愛伝説のよう」と周りの人たちも喜んでいる。 足が不自由な小西忠和さん(60)と、右半身に障害がある栄子さん(57)。かつて、忠和さんが野菜を届けに勧修寺を訪ねた際、境内の庵(いおり)に住み込んで尼僧大塚全教さん(故人)に師事していた栄子さんに出会った。 恋仲になったが、当時収入が少なかった忠和さんは「養える稼ぎがない」と結婚をあきらめ、2人は別れた。 それから長年、「思いは消えなかった」。昨年夏、忠和さんが寺を訪ねると、栄子さんが昔と変わらず庵で暮らしていた。家のローンを完済し、貯金もしていた忠和さんは「今なら2人で暮らせる」とプロポーズ。同年9月に入籍を果たした。  今昔物語集には内大臣藤原高藤がタカ狩りの際に偶然立ち寄った屋敷の娘列子(たまこ)にほれ、6年間離れ離れになったが、再会して結婚したという説話が残る。勧修寺は2人の孫の醍醐天皇が造営した。  勧修寺の筑波常遍住職らに結婚を報告した忠和さんと栄子さんは「平成の高藤と列子のよう」と祝福された。 同居し始めて1年4カ月。段差を少なくするなど生活しやすさに配慮した家で、一緒に料理や庭の手入れをしたりと仲むつまじい。忠和さんが体調を崩した時は栄子さんが看病、肩を貸して歩く支えにもなっている。忠和さんは「1人より2人がいい。妻の笑顔で自分も明るくなれる」と幸せをかみしめている。 (以下は当ブログでも以前紹介した内容です

 9世紀の後半、山科盆地の南部で恋物語が勧修寺の建立につながったという。 主役は藤原冬嗣の孫・藤原高藤である。 彼は大納言、内大臣となった公卿で、死後に太政大臣正一位を贈られ、十陵八墓のひとつに加えられているから系統のわりには大変な出世である。 高藤が15歳の頃、南山科へ鷹狩りにでかけたとき天候が悪くなり、ある家に雨宿りをした。 狩衣に袴姿の家主がでてきてあわてて戻ると、妻と共に現れ高藤の雨にぬれた衣類を着替えさせた。 その後13歳の娘が接待に現れ鮑、干鳥をすすめた。 6年経って高藤は阿弥陀峯をこえ、山科へいき、あの家を訪れることとなった時、主は出迎えた。 するとかたわらには、幼い女子がいたのであるが、その子こそ当時13歳の娘と高藤との一夜の契りの結晶であった。 家の主は群の大領の宮道弥益で、娘の名は列子。 娘は高藤の妻となり、藤原胤子を産むこととなる。 後に胤子は宇多天皇の女御となり、敦仁親王(後の醍醐天皇)を産んだのである。 醍醐天皇は若くして即位したため、高藤、弥益は 破格の出世をし、弥益の家を寺にしたのが現在の勧修寺である。 寺の建立は胤子の発願とも、醍醐天皇の発願とも云われている。 醍醐天皇・後山科陵、胤子の墓(小野陵)、高藤の墓ともに勧修寺の近くにある。 藤原高藤は勧修寺内大臣ともいい、内大臣に任ぜられてまもなく没している。 勧修寺の建立年については諸説あり、寺伝では900年、扶桑日記では905年とある。 

 

       是公娘・吉子-807
    
┣ 伊予親王
      
┃乙牟漏皇后 760-790 
      ┃┣ 高志内親王789-809
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)        
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇) 

 ┃   ┃┃   ┃┃┏藤原乙春842-866 
 ┣山部王(桓武)┃┃┗藤原沢子   -839 830-887  
 ┃ 737-806   ┃┃  ┣時康親王58光孝天皇 
白壁王709-781 ┃┃  ┃┃   ┣源旧鑑    藤原穏子885-954(時平・妹)
(49代光仁天皇) ┃┃  ┃┃   ┣源和子-947    ┣ 康子内親王919-957(師輔妻) 
         ┃┃  ┃┃   ┣忠子┃     ┃ 藤原安子(師輔娘)

         ┃┃  ┃┃   ┗周子┃     ┃   ┣63冷泉天皇
          ┃┃  ┃┣為子内親王┃藤原淑姫 ┃-948┣64円融天皇 壮子女王 
 ┏━━━━━━┛┃  ┃┃高藤    ┃┃┃藤原桑子┃    ┣為平親王  ┣具平親王

 ┣有智子内親王 ┃  ┃┃┣定方  ┃┃┃┃和香子┣ 成明親王(62村上)926-967
 ┃母交野女王斎院┃  ┃┃┃┗能子┃┃┃┃┃-935┣ 寛明親王(61朱雀)923-952 
 ┃         ┃  ┃┃┣胤子┃┃┃┃┃┃  ┃      ┣昌子内親王950-1000
 ┃         ┃  ┃┃列子┃┃┃┃┃┃┃  ┃藤原仁善子┃(和泉式部奉仕)┣-
 
┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃ ┣ 煕子女王-950  冷泉天皇
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  
┣保明親王901-923
 ┣源潔姫809-856 ┃  ┃┃   ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝 ┗ 慶頼王920-925
 ┃    ┣明子  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃┣克明親王,宣子内親王(斎院)
 ┃藤原良房┗文徳┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃源封子(源旧鑑娘)
 ┣源信810-869  ┃  ┃┃  ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
 ┣源常812-854  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃藤原鮮子 ┣源重光 923-998
 ┣源弘812-863
  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┣恵子女王925-992(伊尹妻 義孝母)     
 ┣源定816-863  ┃  ┃┃   ┃ ┣重明親王   ┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
 ┗源融823-895  ┃  ┃┃   ┃ ┃源昇娘    ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
  ┗源昇    ┃  ┃┃   ┃ ┣勤子内親王 定方娘 
           ┃  ┃┃   ┃ ┣雅子内親王909-954(斎宮 師輔妻)  
  
        ┃  ┃┃   ┃ ┣源高明914-982
  
 
       ┃  ┃┃   ┃源周子 ┣俊賢959-1027
          ┃  ┃┃    ┃-935  ┣明子
          ┃  ┃┃   ┃   愛宮 ┣頼宗、能信、寛子
  
        ┃  ┃┃   ┣敦実親王  藤原道長

          ┃  ┃┃   ┃  ┣源雅信┣彰子、頼通、教通
          ┃  ┃┃   ┃  ┃ ┣源倫子   藤原温子
           ┃  ┃┃   ┃  ┃穆子    ┃橘義子
           ┃  ┃┃   ┃ 時平娘     ┃┃
  
         ┃  ┃┣
源定省(59宇多天皇) 867-931
           ┃  ┃┃            ┃┃ 
           ┃  ┃┃            ┃菅原衍子
  
         ┃  ┃斑子女王         源貞子
          ┣
正良親王(54仁明天皇)810-850  
          ┃               ┃

          ┣正子内親王       ┃
小野吉子(更衣)      *5
          橘嘉智子             ┃紀名虎娘・静子
┏━━━━━┛ 
                                ┃    ┣
紀有常女              
                           ┃   ┣ 惟喬親王(第1皇子)
   
                              
┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858        
                        藤原順子(冬嗣・娘)

 

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平安京

2008年12月29日 | 平安時代

 平安京はもちろん桓武天皇が794年に長岡から移した新都である。 長岡京は水陸の便に恵まれ洪水の被害にあいやすかったが、平安京の鴨川も川の氾濫による被害は多かった。 794年に天皇より新都に関する詔が出されたが、天智天皇の山科を意識し平安を願った格調高い文章となっている。 侍従が内庭で奏でる祝宴の踏歌にも新都造営に込められた願いが歌われた。 そんなに遠くはない新都を長岡から選んだのには為政者・桓武の問題である。 桓武天皇は平城京にいたときに皇太子であった異母弟の他戸親王とその母・井上内親王を死に追いやることで即位が叶った。 長岡京にいたときには実の弟・早良親王を死に追いやったことで激しい怨霊に恐れたことから遷都を行ったとみてよい。 死後の早良親王には崇道天皇の称号を贈り、天皇にふさわしい陵を大和に造営したが、生涯早良親王の怨霊を怖れたという。  桓武が死の床についた806年に藤原種継暗殺事件で失脚した人々の官位を復し、事件に関与していたとして官位を剥奪されていた大伴家持も死後に従三位に戻した。 桓武は死後山城国葛野宇太野を陵の地とすることを定めていた。 しかし奇異なことが続き柏原の地に変更せざるを得なかった。 長岡にいた793年に大納言の藤原小黒麻呂、左大弁・紀古佐美らを遣わし葛野調査をさせている。葛野は京都の西の範囲にあたり古代大豪族の秦氏の本拠地であった。 農業生産力が高く、経済力が豊かであった秦氏は聖徳太子の後ろ盾にもなり、応神天皇の国誉めの歌にもあらわれる。 また葛野には信仰上の聖地・歌荒樔田があり、 阿閉臣事代は、天皇に奏上し、壱岐の月読神社の神を勧請して「山背国葛野郡歌荒樔田」に社を創建したという。 これが顕宗天皇3年(487年)のことで、「歌荒樔田」が現在の桂のあたりであるとされる。 つまり玄界の二つの島の日神、月神が山背に移ってきたのである。 因みに桂川のほとりには大藪遺跡という祭祀遺構がある。 

 

 葛野の豪族 秦氏が新都造営に際して経済的に支援した説もある。桓武が葛野の視察に遣わした藤原小黒麻呂は妻に秦忌寸島麻呂の娘で、島麻呂の娘が生んだ子が藤原葛野麻呂である。 葛野麻呂は習慣に基づき母方の秦氏の郷で養育されたのである。 秦下島麻呂は聖武天皇の742年に、京都府相楽郡加茂町 恭仁京に大宮垣を築いた功で従四位下に叙せられ太秦公の姓を賜った。 新都を仏力で護る象徴として用いられた毘沙門天像などは葛野麻呂が唐より持ち帰った新知識といえる。 平安京の大内裏はもともと秦川勝の邸宅跡に建てられたとの伝承もある。 秦川勝は聖徳太子の舎人として活躍した人物で秦氏の祖ともいえ、葛野での古い本拠地が北野天満宮や平野神社の近くにあり、秦氏はそれらを新都造営のために提供したという説もある。 秦氏は渡来系の氏族であるが、桓武は渡来系氏族が本拠地とする葛野の地に新都を造営するという画期的な遷都を行った天皇でもある。 実は古代にも同じような遷都を行った天皇がいる。 それは宣化天皇で檜隈の廬入野に宮をもった。 檜隈は飛鳥の南に広がり、渡来系氏族の東漢氏をはじめとする渡来系の人々で満ちていた。 宣化は新王朝の祖ともいえる継体天皇と尾張連草香の娘・目子媛との間の皇子で檜前高田皇子といった。 宣化は奈良橿原市の身狹桃花鳥坂上陵 に葬られたが、これは鳥屋ミサンザイ古墳と見られている。 ミサンザイ古墳の所在地は奈良でも最大級の古墳群である新沢千塚古墳群のなかにあり、この古墳群を残したのは東漢氏とみられている。

 

 平安京造営に際して藤原小黒麻呂が任ぜられたが翌年になくなり、かわって造営使長官になったのは和気清麻呂である。 清麻呂は備前の国造りも兼ねながら数代の天皇に仕え、宇佐八幡宮の神託事件では大隈に流されるなどしたが、光仁天皇のときに復帰し、力量を発揮しはじめる。 河川の付け替えなどの土木技術を生かして長岡京造営に参加し、桓武の厚い信任を得た。 長岡を捨てて新都を決断させたのは和気清麻呂の進言によるものという説もある。  ところが清麻呂は平安京造営の途中で死んだ。 都の造営に勢いがなくなり、大規模な官使の縮小なども行われ、事実上の平安京造営は終わったのである。 この頃桓武の第一皇子である安殿親王が即位後に強く平城京に戻ることを願い平城天皇となったことも平安京造営の勢いがなくなった理由のひとつといえる。

 平安京は唐の都・長安や北魏の都・洛陽を模倣して造営されたというのが定説であるが、造営使長官の藤原小黒麻呂や和気清麻呂は唐へ渡った経験がないし唐から技術者を招いた形跡もない。 従って日本での大集落の建設技法を継承していると見られる。 仁徳天皇の難波・高津宮を考えると、摂津や河内では長年河内湖の水の制御に苦しみ徐々に治水技術が発展した。 結果堀江という運河が造成された。 目的は河内湖沿岸の水位の安定と、良好な港を造ることにより大川沿いの大名の蔵屋敷への便を安定させることである。 都づくりに際して運河を通すことは5世紀にも見られ、高津宮を建設するさいの手本となっていると考えられる。 仁徳紀に見られる大道を京中につくり南の門より丹比邑に至る・・・の大道の遺構は発掘で現れ、大道沿いには屯倉があり、堺と大和を結ぶ東西の基幹道路・大津道と連結していた。 平安京の南の出入り口には羅城門がそびえていたが816年、980年と大風で倒壊し再建されることはなかった。 存在は短く維持も杜撰であったらしい。

 

 一条天皇の時代に平安最盛期を迎えたことで象徴とされる藤原道長は栄華物語の主役であるが、私邸としたのは土御門殿で東には阿弥陀堂を中心とした法成寺を造営している。 土御門殿は京極殿とも云われ左京の東の端、今日の京都御所内の仙洞院の位置にあった。法成寺はさらに東側にあり現在石碑がたっている。 道長は1023年には法成寺に使う礎石を公卿や諸大臣に曳かせた。 神泉苑の門をはじめ羅城門の礎石を転用した記録が藤原実資の小右記にある。 藤原道長は公卿の最高位にあったが、平安京の 維持・復興どころか私邸のために平安京の荒廃に加担したともいえる。 出家後の道長が建立した法成寺は1028年の鴨川の洪水で打撃を受け九重の塔も傾き、今となっては何も残っていない。

   

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平野神社

2008年12月23日 | 平安時代

 もともと大和にあった平野神社は長岡京のときに大原野に移され、平安遷都の後まもなく京都に移された。 第一社殿に祀られているのは今木大神で、雄略紀では今木を百済系のことをいい、奈良時代には今木直兄麻呂、今木稲売などの今木氏の記載が見える。 仁明天皇の836年に、今木大神に従三位を、久度神には正五位下を、合殿比売神には従五位下を授けている。 都が平城京であった782年、田村後宮の今木大神を従四位上に叙し・・と続日本書紀にある。 田村第は藤原仲麻呂の邸で、それを孝謙天皇も使い後宮は光仁天皇が用い、夫人の高野新笠が住んでいたと推測される。 平野神社は 高野新笠が田村後宮でまつりだしていた父方の百済の王、母方の土師真妹を祭神とすると見られる。 平野神社の近くには北野遺跡という弥生・飛鳥時代の竪穴住居の集落遺跡があり、ここには北野廃寺という蜂岡寺がある。 実はこの寺、聖徳太子の舎人であった秦河勝(山背の大豪族)の建立と伝えられている。 平野や北野は古来から渡来系氏族と深い関わりのあった地なのである。 秦氏で代表される渡来系氏族によって後に仏教が広まるが、これは奈良のみならず京都の平野が重要な地であったのである。

 

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神泉苑

2008年12月23日 | 平安時代

 京都二条城のすぐ南には御池通りがあるが、この御池とは桓武天皇の平安遷都の直後から史料にでてくる神泉を意味する。 桓武は生涯に27回、平城は8回、嵯峨は43回、淳和天皇は23回も神泉に幸している。 神泉は聖なる泉であるが縄文時代からすでに存在していたらしく平安京では天皇が生活をし主要な施設があった大内裏のすぐ南東に泉池があり神泉苑として利用された。 もともと神泉苑は南北四町、東西二町と広大で中央には中島のある神泉があり、北側には正殿としての乾臨閣の建物があった。 現在では中島には善女竜王を祭る弁財天社があり、池の東岸には朱塗りの社殿がある。 1601年に徳川家康は二条城の造営を始めたが、そのときに神泉苑の北部を城に取り込み城の南に壕を掘った。 これにより広大な神泉苑は姿を変えた今日の神泉苑は一部を残すのみとなった。  放生池の西には聖観音菩薩像をまつる護国寺の本堂があり、東寺の管轄下となっている。

  桓武天皇が神泉苑に幸じた理由は不明であるが、平城天皇以降は琴歌、観相撲、花宴など多岐にわたる遊興のための幸行の記載が残っている。 824年には猟犬に鹿を追わせたり、鷹狩をおこなったりし、884年には近江と丹波に高瀬舟を造らせ神泉苑に送っている。 平安前期には僧たちによって神泉苑で祈雨の法要が行われた。 今昔物語では空海が請雨経の法を修して雨を降らせている。 時の天皇は嵯峨天皇で、請雨経の法要を七日間行ったところ、金色の蛇が現れたという。 この蛇は天竺の善如竜王で神泉に通い、そのうち雨がふったという。 また、空海は西寺の僧と雨乞いを競った結果、空海が勝ち西寺衰退の発端になったという。  863年には、祟道天皇ら6人の御霊を鎮めるための御霊会が行われた。 御霊を祭る霊座の前に供物を置き、花果を盛り雅楽の舞を奏でさせ、清和天皇の近侍の児童や稚児を舞人として高麗の舞などを舞わせた。さらに雑技を行い、苑の門を開いて都邑の人の出入りを許した。 それから後に疫病がはやったときに卜部日良麻呂が勅を奉じて神輿を神泉苑に贈って祭った。

   

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北野天満宮

2008年12月20日 | 平安時代

 大宰府で死んでからの道真は、その怨霊が恐れられた。雷をあやつり怨敵の命を奪う火雷天神と考えられた。 一条天皇の頃、987年には北野にいます社を天満宮天神と呼んでいたことは菅原御伝記でわかる。 つまり北野天満宮のことである。 836年、続日本書紀には遣唐使のために天神を北野で祀るとあり、これは第15回の遣唐使が無事に使命を果たすようにと天神に祈ったものである。このとき長官の藤原朝臣常嗣以下メンバーは決まっていたが準備不足で出発は遅れた。 メンバーには菅原道真の叔父である菅原朝臣善主が判官として参加し、山城の豪族・山城宿禰氏益、僧・円仁がいた。 因みに第14回の遣唐使には藤原葛野麻呂(藤原朝臣常嗣の父)を長官として、城菅原道真の祖父・菅原朝臣清公、僧・最澄、空海が随行していた。 第15回目の遣唐使は困難を極め、これが後に道真が遣唐使を廃止する提言をおこなった理由となる。 こういうこともあって遣唐使の無事を祈願する祭事が北野で行われるようになった。 平安中期に北野の土地柄を源高明は西宮記に残している。 つまり太政大臣・藤原基経は五穀豊穣を祈って雷公を北野に祭ることをしている。 北野は雷が発生しやすく北野の南にある大内裏に落雷することもあった。義満の北山殿の七重の塔が焼け落ちたし、930年には清涼殿の柱に落雷し大納言・藤原清貫が胸を裂かれて死に、右中弁平希世も倒れた。 この事件に衝撃を受けた醍醐天皇は道真の怨霊を恐れて病に倒れやがて崩御した。

 菅原道真の曾祖父・古人は土師宿禰であり同族の土師宿禰道長とともに遠祖の野見宿禰の功績を申しでて菅原氏を名乗った。 これは781年のことで、桓武天皇即位の前で申し出が土地名菅原は承認された。 翌年、秋篠にいた道真の弟も同様の申し出を行い、秋篠氏を名乗った。 これ以外にも土師氏からは河内の志紀、和泉の百舌鳥がある。 百舌鳥に関しては孝徳天皇の死に際して、百舌鳥土師連土徳が殯宮を担当した。 桓武天皇の母であり光仁天皇の夫人・高野新笠の母は土師真妹で、和泉の土師氏つまり 百舌鳥に属していた。 因みに桓武天皇の外祖父は百済の武寧王の末裔・和乙継である。 桓武の母・高野新笠の陵は 大枝陵であるが、この大枝は土師真妹の死後正一位を追贈されたとき大枝朝臣真妹と名を変えてさらに大枝氏が生まれたことに由来する。

 菅原氏の家系は代々学者系である。これは初代の菅原氏である古人に既に伺える。古人の子・清公は803年に遣唐使となったが、古人のことを生活を切り詰めて勉学に励み儒学者としての行いや、当時の最高任官試験に合格したことを伝えている。 清公の子・是善は文章博士・参議を務め、文徳天皇と清和天皇の二代に渡って学問を教授し、文徳天皇実録の選者になっている。 平安京での是善の家は菅原院と伝え菅原院天満宮がある。 菅原道真は是善の子で、道真の母は伴氏。 北野天満宮には母を祭った伴氏社がある。 また京都駅の南西に吉祥院天満宮があるが、これは古人が長岡京造営に際して宅地として賜り、菅家の守護神として吉祥院と称したのが起こりである。

 菅原道真が政治家として全盛期であったのは宇多天皇の在位期間中である。 宇多天皇は光孝天皇の第七皇子であったが源朝臣として臣籍に下り、光孝の崩御に際して突如親王に戻され即位した。 宇多は右大臣・藤原基経を排し道真を右大臣とした。 ところが宇多31歳のとき座を長子の醍醐天皇に譲り、結果道真は醍醐によって大宰府に左遷されてしまう。 宇多は法王となり自ら造営した御室の仁和寺に籠もって仏法に励み政治的な発言力は低下させていた。 一方醍醐天皇は左大臣の藤原時平を重用し、道真の左遷は藤原時平の進言によるものである。  以降道真の怨念は醍醐天皇を苦しめ、時平にも子孫を断絶させるという形で及んだ。 道真の死の6年後に時平は思い病に倒れ、道真の怨念の仕業と考えられた。 続いて醍醐天皇の三女・慶子内親王、参議の藤原兼茂が死に、皇太子の保明親王までが21歳の若さで死んだ。 保明は醍醐の第二皇子であり皇太子であることから人々への衝撃は大きく、道真の死から20年も経っていたが、祟りは猛威を振るいだした。 保明の死後すぐに醍醐は道真の官位をもとの右大臣に戻し正二位を追贈し左遷の詔を破棄する。 しかし清涼殿への落雷が公卿の命を奪い、醍醐は病の床について死に至るのである。  醍醐天皇の崩御から62年たった992年に筑前安楽寺の禰宣が廟君の託宣を告げる。 時の天皇である一条天皇は祟りを恐れて、道真に正一位を追贈、太政大臣の称号をも贈った。 道真は最高の官位を得ただけではなく北野天満宮という官位に見合った神社も造営された。

 北野天満宮の前身は多治比文子という巫女のような能力をもつ者により立てられた。後に新たな託宣により現在の場所に移されたがそれが947年の北野天満宮鎮座の年となっている。 多治比氏は本拠地を河内におき、7,8世紀にはかなりの豪族と推測され、遣唐使となるものもいた。 河内の丹比郡は土師郷や和泉の土師郷ともちかく、地縁的な関係であったと推測される。 現在、北野天満宮の本殿東には文子社が祭られ桔穀亭の北西には文子天満宮もある。 

 ところで、菅原道真を学問の神として崇めるようになったのは10世紀末である。 室町時代になって足利将軍家の帰依もあって北野信仰は全盛を迎える。1441年の10月には後花園天皇によって、大原野神社にかわって北野神社が朝廷からの奉幣の対象となった。 このときに北野神社への奉幣使は文章博士・菅原朝臣在綱がつとめた。 足利将軍もしばしば北野社参りを行い天神を慰めるために連歌会を行ったという。 そして連歌会や猿楽・能などは北野社法楽として伝えられるようになった。 もっと後の1587年には秀吉主催の大茶会が北野神社で行われている。 茶を好むものは身分を問わず参集することができたことで有名である。 この日は秀吉、千利休、今井宗久がそれぞれの茶席をもうけ803人にも及ぶ人々に茶が振舞われた。 この茶会から20年後に秀吉の子の秀頼が北野神社の社殿を立替えた。 本殿は入母屋造で、本殿を取り囲む回廊、楼門などは檜皮葺、拝殿の擬宝珠には「右大臣秀頼公再興・・」とある。  この本殿が建ってから10年後に徳川家康の廟として日光東照宮が建つが、権現造の建物の装飾などは北野天満宮の影響を大きく受けている。 

 

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平安京から京都への変化

2008年12月16日 | 平安時代

 桓武天皇が造営した平安京の区画内には北野、紫野、平野などはなかったが、平安前期から重要な土地となり、北野天満宮、大徳寺などができ、秀吉の時代には町としての重要性が考慮され取り込まれることになっていった。北野と紫野の間には船岡山があるが、これは平安京の中軸である朱雀通の北にあり、平安京の基点となっている。 平安京域外であっても重要であったことは清少納言の枕草子や古今著文集などにも多く取り上げられていることからわかる。 桓武天皇が遊猟をしに北野へ出かけ、伊予親王の別荘で飲酒高会を行った記録もある。また、桓武天皇の子・淳和天皇は紫野へでかけ遊猟し、その地に離宮を設け紫野院と呼んだ。 紫野院は832年には雲林亭と名を変えやがて雲林院となる。(現在の大徳寺の隣) 1177年の京都の大火、1180年の辻風などにより京都の町は一変する。 さらに1181年から始まった大飢饉で42300人もの死体が転がったという。 この数は仁和寺の隆暁法印が死者の額に阿字を書いて数えた数字らしい。 また度重なる賀茂川、鴨川の氾濫により平安京は疲弊を深め、鴨長明が晩年は日野で暮らしたのもこれらの理由による。 こうしたことに関連して平安京のまわりには白河、鳥羽、嵯峨、桂、山科、伏見などの町が発展していくのである。 このような京都を新しい町として造営したのが豊臣秀吉の囲郭である。 京都の周囲を土居でめぐらせる工事は1590年から計画され約5ヶ月で完成させている。これは京都所司代の前田玄以(信長、秀吉に仕えた亀山城主)の総括により行われた。 土居の高さは3m、周囲は22kmに及び現在の羅城門跡がある九条通が最南端で、京都駅ももともと土居があったところである。

 秀吉は土居を廻らせたあと、京中に散在していた寺を集め、大名役人とその部下などの関係者の屋敷を配置することにより寺町を造ったのである。そして本願寺としては現在の西本願寺が建設された。現在の寺町(京都御所すぐ東の通り)は鞍馬口にある浄善寺から南は7条にある宗仙寺まで約5kmにわたって100余りの寺がほぼ直線に並んでいる。これらの寺は浄土宗を筆頭にするが、禅宗は洛外にあったため100の中にはない。また浄土真宗である本願寺派の寺もない。 織田信長が敗れた本能寺は現在寺町三条下がる、にあるがもともと下京四条坊門西洞院にあったのである。 この土居のすぐ東は鴨川であるだけに、土居や寺の頑丈な塀が川の氾濫対策として有効であることが理解できる。  この頃、本願寺を京都に戻すことが秀吉から顕如に命じられ、山科本願寺撤収以来京都へ移ることとなった。場所は六条堀川の広大な地で現在の西本願寺のある場所である。 親鸞の廟的な御影堂を移し阿弥陀堂の建設が始まる。 このさなかに蓮如の末裔である顕如が死んだ。 これにより後継の門主をめぐってお家騒動が起こりこれを利用した徳川家康は本願寺を分裂させて東本願寺ができることとなった。 従って本派本願寺を西本願寺というようになる。

 寺町は南北に連なっているのに対して、寺内には東西に寺が集まり東の端は相国寺、西は千本釈迦堂の手前で、妙覚寺、妙顕寺、本法寺、報恩寺など法華宗の寺が多い。 これは京都所司代の前田玄以が法華宗の信者であったことに由来する。 1530年頃は京都には法華宗の大寺が散在し京都全域を掌握する勢いであったが、比叡山や近江の六角によって弾圧され寺は焼き払われた。 しかし前田玄以により徐々に復活し寺内に集まったのである。 秀吉が造った土居には七口、実は十箇所の入り口があり、 鞍馬、大原、北白川、粟田、伏見、竹田、鳥羽、西七条、四条大宮、長坂である。 しかしいつしかこの土居は豪商角倉了以が手がけた運河としての高瀬川の掘削によって姿をけしていった。高瀬川は鴨川から水を引いた運河であるから二条から五条にかけて物資の荷卸しのための施設が次々とでき、長州藩邸、加賀藩邸、彦根藩邸、土佐藩邸などが設けられた。 こうして京都の木屋町は運河と共に栄えることとなる。 

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道成寺蛇ノ獄

2008年12月14日 | 平安時代

 もはや秋には欠かせない行事が”陰陽座”のコンサートである。一昨年は”源義経”、去年は”織田信長”、今年は”魑魅魍魎”をテーマにしたそのコンセプトに私の魂は震えるのである。 さて、今年は12月5日に大阪・なんばハッチ(写真参照)というところでライブが行われました。私が取ったチケットは去年に引き続いて二階の指定席。 今年のタイトル”魑魅魍魎”のアルバムを発売日に購入して、約三ヶ月間聞き込んでの出陣です。 

 ”魑魅魍魎”のアルバムの中でも最も魂が震えた曲が”道成寺蛇ノ獄”。 これは安珍清姫の物語をテーマにしたもので、その物語とは要約しますと、以下となります。  

 平安時代は928年頃・醍醐天皇の御代、奥州白川から熊野に詣でに来た安珍という修行僧が、旅の途中で泊めてもらった庄屋の清姫という娘に人目惚れをされます。 美形の安珍に一目惚れした姫は女だてらに夜這いをかけて迫ります。 安珍は参拝中の身としてはそのように迫られても困ると断るが、熊野参詣に連れていくようしつこく迫られ、その場しのぎで同行を許します。 安珍は一人で日高川を渡り道成寺に逃げ込みますが、 騙されたと知った清姫は日高川へとさしかかったときに、渡し守に頼んだが断られ、ついに女の執念で蛇体となって川を渡り、道成寺の釣鐘の中に隠れた安珍を火炎で釣鐘ごととかしてしまい、清姫自身も近くの入り江に飛び込んで死んでしまいます。  蛇道に転生した二人はその後、道成寺の住持のもとに現れて供養を頼み、住持の唱える法華経の功徳により二人は成仏し、天人の姿で住持の夢に現れる という物語で、能や神楽でも演目として取り上げられております。

 物語の舞台である道成寺は和歌山県日高郡にあり文武天皇勅願により開基された寺で仁王門、本堂、三重塔などが広大な境内に配置され、是非とも行ってみたいと思います。

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醍醐寺

2008年12月13日 | 平安時代

 醍醐の花見で知られる醍醐寺には朱雀天皇が父・醍醐天皇の冥福を祈るために建立した五重塔があり、951年に完成して以来兵乱の災も免れて京都最古の建築物となっている。 この寺の子院のひとつである三宝院の殿堂や庭園は豊臣秀吉が造営に関与したものとして名高く、唐門は伏見城の遺構として名高い。1598年に醍醐寺一帯で大掛かりな花見が行われるに際して近畿各地から桜の木を移植させているが、このとき多くの武士たちが二度目の朝鮮出兵を強いられていたという裏面があることも事実である。 実は醍醐寺は一般的にいう下醍醐ではなく、東方の笠取山にそびえる上醍醐から信仰は始まった。 醍醐天皇が907年に醍醐寺を天皇の御願寺としたときに建立されたのが薬師堂で、現在の建物は1124年に再建された。 上醍醐では最古の建物である。 薬師堂からさがったところには観音の霊場である准胝堂(本堂)があり、すぐ下には醍醐水といわれる聖なる泉がある。 この上醍醐に聖宝・理源大師が草庵を建てたのは874年と伝えられており、醍醐寺縁起によって伺える。  聖宝は皇族の末裔で、天智天皇の子孫である。最澄、空海のように入唐の経験はないが、人々が認めたものは葛城などでの修行であったようである。 聖宝は修験道の中興の祖ともいわれ今日でも醍醐寺は修験山伏の寺としての側面を持っているのはそのためである。  聖宝は理源大師ともいわれ、800年遠忌にあたって醍醐寺が申請して東山天皇の勅によって贈られた大師号であり、修験道の祖である役行者(役小角)と肩を並べるほどに崇められた。少年期の聖宝は東大寺で修行をしたという。 東大寺の鬼神がいるといわれていた室で暮らし、鬼神を退散させたという。聖宝の死2年後に笠取山頂上に開山堂・御影堂が建立され廟の意味合いを持っていたが、兵火で焼けたあと 豊臣秀頼が再建したのが現在のものである。 

 

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藤原高藤

2008年12月12日 | 平安時代

 9世紀の後半、山科盆地の南部で恋物語が勧修寺の建立につながったという。 主役は藤原冬嗣の孫・藤原高藤である。 彼は大納言、内大臣となった公卿で、死後に太政大臣正一位を贈られ、十陵八墓のひとつに加えられているから系統のわりには大変な出世である。 高藤が15歳の頃、南山科へ鷹狩りにでかけたとき天候が悪くなり、ある家に雨宿りをした。 狩衣に袴姿の家主がでてきてあわてて戻ると、妻と共に現れ高藤の雨にぬれた衣類を着替えさせた。 その後13歳の娘が接待に現れ鮑、干鳥をすすめた。 6年経って高藤は阿弥陀峯をこえ、山科へいき、あの家を訪れることとなった時、主は出迎えた。 するとかたわらには、幼い女子がいたのであるが、その子こそ当時13歳の娘と高藤との一夜の契りの結晶であった。 家の主は群の大領の宮道弥益で、娘の名は列子。 娘は高藤の妻となり、藤原胤子を産むこととなる。 後に胤子は宇多天皇の女御となり、敦仁親王(後の醍醐天皇)を産んだのである。 醍醐天皇は若くして即位したため、高藤、弥益は 破格の出世をし、弥益の家を寺にしたのが現在の勧修寺である。 寺の建立は胤子の発願とも、醍醐天皇の発願とも云われている。 醍醐天皇・後山科陵、胤子の墓(小野陵)、高藤の墓ともに勧修寺の近くにある。 藤原高藤は勧修寺内大臣ともいい、内大臣に任ぜられてまもなく没している。 勧修寺の建立年については諸説あり、寺伝では900年、扶桑日記では905年とある。 

 

       是公娘・吉子-807
    
┣ 伊予親王
      
┃乙牟漏皇后 760-790 
      ┃┣ 高志内親王789-809
      ┃┣ 安殿親王  774-824(51平城天皇)        
和新笠 ┃┣ 賀美能親王784-842(52嵯峨天皇) 

 ┃   ┃┃   ┃┃┏藤原乙春842-866 
 ┣山部王(桓武)┃┃┗藤原沢子   -839 830-887  
 ┃ 737-806   ┃┃  ┣時康親王58光孝天皇 
白壁王709-781 ┃┃  ┃┃   ┣源旧鑑    藤原穏子885-954(時平・妹)
(49代光仁天皇) ┃┃  ┃┃   ┣源和子-947    ┣ 康子内親王919-957(師輔妻) 
         ┃┃  ┃┃   ┣忠子┃     ┃ 藤原安子(師輔娘)

         ┃┃  ┃┃   ┗周子┃     ┃   ┣63冷泉天皇
          ┃┃  ┃┣為子内親王┃藤原淑姫 ┃-948┣64円融天皇 壮子女王 
 ┏━━━━━━┛┃  ┃┃高藤    ┃┃┃藤原桑子┃    ┣為平親王  ┣具平親王

 ┣有智子内親王 ┃  ┃┃┣定方  ┃┃┃┃和香子┣ 成明親王(62村上)926-967
 ┃母交野女王斎院┃  ┃┃┃┗能子┃┃┃┃┃-935┣ 寛明親王(61朱雀)923-952 
 ┃         ┃  ┃┃┣胤子┃┃┃┃┃┃  ┃      ┣昌子内親王950-1000
 ┃         ┃  ┃┃列子┃┃┃┃┃┃┃  ┃藤原仁善子┃(和泉式部奉仕)┣-
 
┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  ┃ ┣ 煕子女王-950  冷泉天皇
 ┃         ┃  ┃┃  ┃┃┃┃┃┃┃  
┣保明親王901-923
 ┣源潔姫809-856 ┃  ┃┃   ┣60代醍醐天皇885-930延喜帝 ┗ 慶頼王920-925
 ┃    ┣明子  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃┣克明親王,宣子内親王(斎院)
 ┃藤原良房┗文徳┃  ┃┃   ┃ ┃┃┃源封子(源旧鑑娘)
 ┣源信810-869  ┃  ┃┃  ┃ ┃┃┣代明親王904-937(邸宅は伊尹,行成の邸とす)
 ┣源常812-854  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃藤原鮮子 ┣源重光 923-998
 ┣源弘812-863
  ┃  ┃┃   ┃ ┃┃     ┣恵子女王925-992(伊尹妻 義孝母)     
 ┣源定816-863  ┃  ┃┃   ┃ ┣重明親王   ┣壮子女王930-1008(村上帝妃具平母)
 ┗源融823-895  ┃  ┃┃   ┃ ┃源昇娘    ┣厳子女王(頼忠妻 公任母)
  ┗源昇    ┃  ┃┃   ┃ ┣勤子内親王 定方娘 
           ┃  ┃┃   ┃ ┣雅子内親王909-954(斎宮 師輔妻)  
  
        ┃  ┃┃   ┃ ┣源高明914-982
  
 
       ┃  ┃┃   ┃源周子 ┣俊賢959-1027
          ┃  ┃┃    ┃-935  ┣明子
          ┃  ┃┃   ┃   愛宮 ┣頼宗、能信、寛子
  
        ┃  ┃┃   ┣敦実親王  藤原道長

          ┃  ┃┃   ┃  ┣源雅信┣彰子、頼通、教通
          ┃  ┃┃   ┃  ┃ ┣源倫子   藤原温子
           ┃  ┃┃   ┃  ┃穆子    ┃橘義子
           ┃  ┃┃   ┃ 時平娘     ┃┃
  
         ┃  ┃┣
源定省(59宇多天皇) 867-931
           ┃  ┃┃            ┃┃ 
           ┃  ┃┃            ┃菅原衍子
  
         ┃  ┃斑子女王         源貞子
          ┣
正良親王(54仁明天皇)810-850  
          ┃               ┃

          ┣正子内親王       ┃
小野吉子(更衣)      *5
          橘嘉智子             ┃紀名虎娘・静子
┏━━━━━┛ 
                                ┃    ┣
紀有常女              
                           ┃   ┣ 惟喬親王(第1皇子)
   
                              
┣ 道康親王(55文徳天皇)836-858        
                        藤原順子(冬嗣・娘)

 

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藤原伊勢人

2008年11月24日 | 平安時代

 京都を流れる鴨川は上賀茂神社あたりで加茂川と高野川に別れ、加茂川はさらに貴船川と鞍馬川に分かれる。 現在でこそ加茂川、鴨川を使い分けているが、実は昔は使い分けはせずに漢字にきまりはなかった。 これらの川の分岐点は水の祭祀上大変重要で、鴨川合坐小社宅神社などは下賀茂神社の摂社となっている。 鴨長明の父がこの神職であったことはよく知られており、鴨の名乗りは川に由来する。 加茂川の上流にある貴船地方には貴船の神の信仰が発生し、その後鞍馬寺が建立された。 建立したのは藤原伊勢人という聖武天皇の時代の従四位の官人であった。 藤原伊勢人は当時造東寺長官をしており、私寺をつくって観音像を安置することを祈り願っていたときに夢をみたという。 平安京の北に深い山が二つあり、その麓にいた翁が藤原伊勢人にいう。 「この地の霊験が他に比べて優れている。われはこの山の鎮守の寄附禰の明神である」 藤原伊勢人は飼っていた白馬を放つと北へ向いてたった。足跡を辿ると白檀の毘沙門天像がある。 観音像ではなかったのである。 またあるときの夢では、童子が現れ「観音は毘沙門天である。われは多聞天の侍者、観音と毘沙門天は般若経と法華経のようなもの」 といったという。藤原伊勢人はそれから鞍馬に堂を造り毘沙門天を安置した。 これが鞍馬寺である。 これは今昔物語集にあるが、扶桑略記にもおなじような内容が納められており、796年のこととしている。因みに四天王の一つとして北方を守るのが多聞天、独尊として祀られると毘沙門天となる。

 ところで藤原伊勢人であるが桓武天皇が造東寺長官に任命した官人で、太政大臣であった藤原武智麻呂の孫、巨勢麻呂の子である。官位は散位従四位下であるので官位を受けたときには官職にはついていなかったことになる。藤原武智麻呂といえば不比等の嫡男で聖武天皇が皇子の時代に教育係もしており左大臣のときに天然痘にかかって死んでいる。

蘇我娼子娘
  ┣ 武智麻呂(南家)680-737
 
  ┃   ┣ 豊成  704-765 
 
  ┃  ┃   ┗  継縄ツグタダ-796(桓武天皇側近)
 
  ┃   ┣ 乙麻呂  
          ┣ 乙叡オトエ-808 ━平子
  ┃   ┃   ┗是公(これきみ)
 百済王明信
  ┃  ┃     ┣ 吉子   軽皇子(42代文武天皇) 701-756    縄主

  ┃  ┃     ┣ 真友   ┃ 多治比真宗769-813       ┣娘
 
 ┃  ┃     ┗ 雄友    ┃    ┣ 葛原親王786-━高望王 薬子┃
 
 ┃  ┣ 仲麻呂706-764  ┃      ┃是公娘・吉子-807  
   ┃┃
  ┃   ┃         ┣   ┃   
 ┃┣ 伊予親王 -807    ┃┃帯子(百川娘)
  ┃  ┣ 巨勢麻呂 房前娘 ┃    ┃
┃乙牟漏皇后 760-790   ┃┃┃伊勢継子
  ┃ 貞姫    ┣藤原伊勢人┃    ┃┃┣ 高志内親王789-809 ┃┃┃┣高岳親王

  ┃       ┣黒麻呂    ┃    ┃┃┃ ┣恒世親王    ┃┃┃┃
 
 ┃       ┗真作      ┃    ┃┃┃ 53淳和天皇     ┃┃┃┃
 
 ┣ 房前  (北家)681-737┃     ┃┃┣ 安殿親王774-824 (51平城天皇) 
  
  ┃  ┣ 永手714-771     ┃和新笠┃┃┣ 賀美能親王786-842(52嵯峨天皇) 
  
  ┃  ┣ 魚名-783        ┃   ┃┃┃┃ ┣業良親王    ┣正子 藤子 

  ┃  ┃         ┃   ┃┃┃┃ 高津内親王   橘清友┣54仁明810-850*
 
 ┃  ┃   坂上田村麻呂┃   ┃┃┃┃         ┣橘嘉智子┣55文徳帝   
  
┃  ┃   登子  ┗広野┃   ┃┃┃┃               ┗橘安万子順子┗56清和 
  
┃  ┃    ┣        ┃   ┃┃┃┃          藤原真作┃        
  ┃  ┣ 真盾━内麻呂-812┃    ┃┃┃┃種継           ┣三守        
  ┃  ┃    ┣ 真夏774┃   ┃┃┃┃ ┗藤原東子-807┗美都子  
 
┃  ┗ 鳥養  ┣ 冬嗣775┃   ┃┃┃┃  ┣ 甘南備内親王800-817 

  ┃         永継    ┃    ┣
山部王(50代桓武天皇)737-806
  ┣ 宇合ウマカイ(式家)694-737┃  ┃ ┣ 大伴親王786-840(53淳和天皇)
  ┃   ┣ 広嗣 諸兄に対乱 ┃   ┃百川娘・旅子 759-788
   
  ┃  ┣ 良継 白壁王支持 ┃   ┣ 早良親王750-785(崇道天皇)

  ┃   ┃  ┣ 諸姉(百川室)┃  ┣ 能登内親王733-781 
 
 
┃   ┃  ┣ 乙牟漏      ┃白壁王709-781(49代光仁天皇)

 
 ┃   ┃ 阿部古美奈-784  ┃       ┣ 他部親王761-775

 
 ┃  ┣ 百川 道鏡追放   ┃県犬養広刀自┣ 酒下内親王754-829(斎宮)

  ┃   ┃  ┣ 緒嗣774-843 ┃ ┃       ┃  ┣朝原内親王779-817(斎宮)
  ┃  ┃  ┣ 旅子-788    ┃ ┃     ┃ 桓武天皇  ┣
 
 ┃  ┃  ┗ 帯子-794    ┃ ┣ 井上内親王717-775  平城天皇

  ┃   ┗ 清成          ┃ ┣ 不破内親王
 
  ┃長岡造 ┗ 種継737-785 ┃ ┃     ┗ 氷上川継782の謀反

  ┃五百重(天武夫人)     ┃ ┣ 安積親王728-744 

  ┃┣ 麻呂 (京家)695-737┃ ┃

  ┃┃  ┗浜成流罪で京家没┃ ┃

  ┃┃ 賀茂比売         ┣首皇子(45聖武天皇)701-756 

  ┃┃  ┣ 藤原宮子   ━━┛ 

  ┃┃  ┣ 長娥子(長屋王妾)

藤原不比等 659-720

 

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金戒光明寺

2008年11月24日 | 平安時代

 哲学の道から西のほうを見ると黒谷の岡が盛り上がっている。 もともと栗原岡といって叡山の寺領があったらしい。 一時法然がいたと伝えられるこの岡には黒谷さんとひたしまれる浄土宗の金戒光明寺がある。真正極楽寺には阿弥陀如来立像がある本堂・真如堂があり、いつしか真如堂が寺の名のようになった。 ここが真如堂でしられているのにはもうひとつの理由があり、それは真如堂縁起絵巻による。この絵巻は本尊の阿弥陀如来像の辿った運命を物語りにしたものであるが、なかでも応仁の乱のとき、雑兵が調度や建築用材を剥ぎ取るなどの狼藉を働く様子がしられている。  真正極楽、「真の極楽」と号するこの寺は古来から女性を救ってきた「女人の寺」でもある。 平安時代中期、一条天皇の母・詮子(藤原道長の姉:東三条院)の夢に比叡山の阿弥陀如来が現れ、「自分は一切衆生、とくに女人を救いたいと思うので、急いで山から下ろしてほしい」と告げた。 阿弥陀如来は、また戒算上人の夢に現れ、「神楽岡に真正極楽の霊地がある」と告げる。戒算は、お告げに従い、比叡山にあった阿弥陀如来像を東三条院の離宮にある神楽岡に移し、一宇を建てたといわれている。当時は、飢饉や疫病が蔓延し、戦乱の続く社会で苦しんでいた女人を迎え入れたという。  この寺は現在天台宗で、応仁の乱後の復活に際して足利義政が力をいれ、本堂は1717年の建立である。 また、その右寄りに三重塔があるが、金戒光明寺にも三重塔があり、黒谷の風物詩になっている。金戒光明寺の塔は山上の塔ともよばれ本堂の東方の小高い場所に建立され文殊菩薩を本尊とした1634年の建立である。 本堂は昭和の建築であるが、阿弥陀堂は豊臣秀頼の建立である。 山上の塔に隣接して会津藩士の墓があり、幕末の尊皇攘夷のなか会津藩主の松平容保が京都守護職に任じられ藩士ともどもこの寺を宿所にし、戦ったのである。 松平家といえば出雲の松江藩や伊予の松山藩など20あるが、幕末の動乱に活躍した藩はほとんどない。ここ黒谷の会津藩士の墓には蛤御門の変にて戦死した人々が眠っている。 この変では長州藩は賊軍、会津藩は官軍であったが、のちの鳥羽・伏見の戦い(新政府軍と幕府軍の戦いで、松平容保率いる幕府側は 小松宮彰仁親王率いる政府軍に敗ける) では逆になる。 

 

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東福寺

2008年11月22日 | 平安時代

 東福寺には東方の山腹から西方へと流れる渓谷が境内の中央にある。これは法性寺の頃からあった渓谷であり、この渓谷は紅葉谷とも洗玉澗ともいい三の橋川ともいう。三つの橋は上流側から偃月橋、通天橋、臥雲橋であり紅葉の季節には絶景となる。 この橋によって東福寺は南北に分かれ、仏殿、方丈、三門、鐘楼などは南の地域にある。 北の地域には月の輪殿のあった即宗院、竜吟庵、開山堂などが点在する。 臥雲橋を渡り東側すぐに月下橋とよばれる桧皮葺の四脚橋があり亀山天皇が一時御所として用いた里内裏の門を移設したと伝えられ平安京の趣きを伝えている。 この月下橋の斜めむかいにあるのが同聚院で法性寺の五大堂にあった不動明王坐像が祀られている。 藤原道長は忠平から4代目の藤原北家の氏長者であるが、この法性寺の修理にあけくれていたという。 五大堂の中尊としての不動明王に心引かれていたのだろう。1013年には北の方とともに参篭し七日間は外に出なかったため政務を粗略にしたとして非難されている。 道長が記した御堂関白記の御堂とは五大堂の建立よりあとに建立した阿弥陀堂のことである。 また道長は摂政にはなったが関白にはなったことはないので御堂関白記という名称は江戸時代の頃からの通称である。 東福寺の開山は円爾弁円、開基は九条道家であるが、二人の財力では完成をみなかった。 東福寺の規模は奈良・東大寺と興福寺をひとつにするようなものであったからである。 道家は1236年建立を思い立ち、九条家の月の輪殿で禅法について教えを受け、8歳年下の円爾を聖一和尚と呼び信仰を深めていった。 円爾は天皇から聖一国師の称号を贈られると、それを継ぐ僧達は聖一派とよばれた。 東福寺のひとまずの完成は道家の死後3年たった1255年のこと、道家の子・一条実経の時である。

 

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善峰寺の文化財

2008年10月31日 | 平安時代

善峰寺・山門

 

 十一世紀の前半、源算上人が十一面千手観音を祀り創建され、1034年に後一条天皇 から「良峯寺」の寺号と聖詠をたまわって以来、門跡寺院となり、五十あまりもの堂塔を有する大寺院となる。 応仁の乱(1467~77)では兵火を受けて焼け尽くされるが、現在の諸堂の多くは、江戸時代に徳川五代将 軍綱吉の母である桂昌院の援助によって再建される。 1621年再建の多宝塔は、現存最古のもので、重要文化財に指定されている。


 多宝塔の前にある樹齢六百年の五葉松は 「遊龍の松」の名で呼ばれ、国の天然記念物に指定されています。

 

 開基である源算上人は、991年9歳の時に比叡山の恵心僧都 源信に徒弟に入りし、13歳で受戒されます。 師・源信は、9歳で比叡山・良源に師事、 横川に隠棲し、念仏による浄土教発展に大 きな影響を与える。  源算上人が剃髪した後、長元二年(1029)後一条天皇在世 の47歳の時、この地に法華院と号する小堂を建てます。 5年後には天皇より「良峯寺」の号を賜り 、8年後には、東山の鷲尾寺の本尊であった千手観音像(安居院仁弘法師作)を当寺に移 して本尊とするようにとの後朱雀天皇の綸旨があり、千手堂を建てて像を安置しています。 1053年後冷泉天皇の時、皇太子尊仁親王(のちの後三条天皇)の后・藤原茂子が懐妊するが、 難産であったため当寺で祈願したところ、皇太子(貞仁親王、のちの白河天皇)が誕生したことから、尊仁親王が報恩のため、本堂、阿弥陀堂、薬師堂、地蔵堂、三重塔、 鐘楼、仁王門、および鎮守七社を建立したと伝えられています。

 

 安元元年(1175)、法然上人が浄土教を開きます。 後年、この年を鎌倉新仏教の起こりと していますが、その翌安元二年、観性上人が当寺境内の蓮華寿院の傍らに法華堂を建て、 一夏九十日間、妙経を読誦されます。  観性上人は葉室中納言顕隆の孫、顕能の子で、 天台座主をつとめた権僧正顕真の弟という名門の出で、観性法橋と呼ばれていました。 ついで、観性上人に親しい天台座主であった慈円和尚が、 上人の招きで当山の中尾蓮華寿院に住んで行法をおこなわれます。     慈円和尚は関白藤原忠通の子で、十一歳の時、覚快法親王(鳥羽天皇 の第七子)のもとで入信、のち法印に叙せられ、名を慈円と改め、のち権僧正、建久三年(1192) に天台座主となり、座主を四度つとめられた名僧です。  慈円和尚は僧として当代の人から崇敬を集めていただけではなく、後鳥羽上皇の信任も厚く、また 歌人としても特に有名でした。 『新古今集』には九十一首の歌が採択され、自身も多 くの歌集を出し、史書の『愚管抄』は神武天皇から仲恭天皇までの歴史を記 し高い評価を得ています。

観音堂(本堂)

 

 観性上人が当寺に住されたことをきっかけに、慈円和尚がこの寺に住されたわけですが、さら に慈円和尚を慕って証空上人善慧(ぜんえ)が蓮華寿院に入られ、また承久三年(1221)後鳥羽上皇による 承久の変後は、難を逃れて西山宮道覚法親王(後鳥羽上皇の皇子)が証空上人のもとを訪れることになります。 これらの人々の入山が、当山の寺格を今日のように高めてきたのです。 証空上人は、やがて蓮華寿院を道覚法親王に譲って自分は北尾往生院に退き、のち浄土宗西山派の 祖となられます。

観性上人墓(左)    証空上人善慧墓(中央)

 蓮華寿院ではその後、青蓮院宮慈道法親王(亀山天皇皇子)、大乗院宮尊円法親王(伏 見天皇皇子)、青龍院宮尊道法親王(後伏見天皇皇子)など、青蓮院関係の法親王が、晩年をここで送 られ、青蓮院の隠居所のようになり、御所屋敷とも呼ばれます。 特に尊円法親王は書道「青蓮院流」の祖で、『門葉記』の著者としても有名。

 『吾妻鏡』によると、源頼朝が鶴岡八幡宮に大塔を建立し供養の導師を天台座主全玄に依頼したが、全玄座主は導師としては善峯寺の観性法橋が適任だとし、観性法橋が導師と決まった。 この後、頼朝は観性上人の応答が懸河(けんが)の如 く堂々としていたため、頼朝は上人を深く崇敬するようになる。 そして、二十八部衆金剛力士な どを善峯寺に安置してほしいという上人の要請にこたえて、頼朝は南都(奈良)の運慶仏師にこれを 作らせ、善峯寺に寄進します。

 慈円和尚も頼朝と親交があり、建久三年(一一九二)、頼朝が征夷大将軍になった年に、和尚は天台座主に就任、鳥羽上皇より慈円のために「良峯寺」を「善峯寺」と改め、自筆の寺額を下賜され、官寺に列せられます。 さらに頼朝より、越前国藤島庄を寺領にもらうなど、朝廷・幕府双方から庇護を 得ることになります。 朝廷・幕府の庇護により五十二僧坊を数えるほどになった善峯寺も、応仁の乱では焦土と化します。 衰微したこの寺を次々に再建し、今日の姿に復興されたのは徳川五代将軍綱吉の母、桂昌院の寄進によるものです。

  桂昌院は二条家に仕えた本庄宗正の娘であるとされていますが、実は京都の八百屋仁右衛門の娘で その名をお玉といいました。仁左衛門の死後、お玉の母は本庄太郎兵衛宗正のもとへお玉を連れて奉公に出ます。 やがて母は宗正の後妻となり、宗正がお玉の義父となります。 成長して三代将軍家光の側妾お万の方の侍女となり江戸へ下ったお玉は、秋野と名を変えて大奥で 働くようになりますが、やがて家光の寵愛を受けて徳松を安産します。  家光の没後は黒髪を落として桂昌院となり、徳松は綱吉となります。 四代将軍家綱には子供がなかったため、その没後、綱吉が五代将軍となり、桂昌院は将軍の御母堂 として江戸城へ迎えられます。  桂昌院は、幼いころのゆかりの善峯寺のため、住職の願いは次々と実現したことで、建築・仏像・宝物などが今に伝わることとなる。  桂昌院は宝永二年(1705) 七十九歳で亡くなり、遺髪は境内に納められ桂昌院廟として祀られています。

 

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広渡廃寺跡

2008年10月05日 | 平安時代

 小野市に広渡廃寺跡があるのを知って早速行ってみた。  広渡寺は7世紀後半頃に建立されたとされる寺院で、平安時代後半まで続いたと伝えられ、広渡寺が荒廃した後、本尊を浄土寺薬師堂へ移したと浄土寺縁起に記されています。広渡寺跡の遺跡は1973年から1975年、1993年から1995年に発掘調査を実施し、主要建造物の基礎(基壇)が確認され、伽藍配置と寺域規模が明らかとなりました。 広渡寺は本尊を安置する金堂を中央に配置し、その前に東西両塔、金堂の背後には講堂をおき、これらを回廊で取り囲んでいたことがわかりました。金堂、東西両塔、講堂などの配置は薬師寺式伽藍と呼ばれる奈良の薬師寺と同じ伽藍配置で、寺域は東西約100m、南北約150mの規模であったと推測されています。

 ここ 廃寺跡一帯は公園として整備され、入り口には立派なガイダンスホールがあります。ここで多くの展示資料を見たあと広大な廃寺跡の横にある1/20スケールの模型で当時を具体的に思い浮かべることができます。 尚、模型は金網に囲まれていますが、ホールの管理人さんに頼めば中に入れるように鍵を開けてくれます。 駐車場、ホール等無料で混雑もほとんどないようです。

 

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薪能・葵上

2008年09月13日 | 平安時代

 今年は源氏物語千年紀。全国各地で色々なイベントが行われています。 そして中秋の名月が美しいこの頃になると薪能や観月会なども行われます。 今日9月13日は明石の大蔵海岸において源氏物語千年紀・薪能が行われましたので早速行って参りました。 狂言の題目は「膏薬煉」、能の演目は「葵上」です。

狂言 膏薬煉

都方の膏薬煉りと鎌倉方の膏薬煉りが互いに自分の膏薬が強いと膏薬の由来を語り、吸い比べに出かけます。

 

 

能 源氏物語 葵上

光源氏の正妻・葵上(左大臣の娘で頭中将の妹)は何かの霊にとりつかれ病に苦しみます。 (舞台正面先に置かれた装束が病に伏せる葵上をあらわしています。) そこで霊を呼び出す照日の巫女を呼び出し占わせると、源氏の愛人である六条御憩所の生霊が現れます。 六条御憩所は最近源氏の足が遠のいたこと、ひそかに源氏を見ようと訪れた加茂の祭りでも正妻・葵上との車争いに敗れたことなどを述べ、やり場のない辛さを訴えます。 そして嫉妬心に駆られて後妻打に及びます。 あまりの激しさに家臣は恐れおののき、偉大な横川の名僧を呼び出します。 恨みの鬼となった六条御憩所は葵上や横川の名僧に襲い掛かってきますが法力に祈り伏せられます。 

 

巫女が臥した葵上を占うと六条御憩所の生霊が現れます。

 

横川の名僧に襲い掛かる六条御憩所の生霊と法力で説き伏せようとする僧都

 

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