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平康頼

2008年04月16日 | 平安時代

平康頼

大徳寺にある平康頼の碑 

 平康頼は阿波出身・平頼季の子で、「鹿ケ谷の陰謀」に加担したことで平清盛によって鬼界ヶ島に流されたが言仁親王誕生の恩赦によって帰京し、1186年に源頼朝の進言によって阿波国麻殖保司に任ぜられている。 墓所は野間大坊の他に、京都東山区下河原鷲尾町の雙林寺に供養塔があり、仏教説話集・『宝物集(康頼宝物集)』の作者として知られている。  平康頼は、「今様狂い」の後白河上皇の今様(当時の流行歌)の弟子のひとりで、熊野御幸にも従い、後白河院から高い評価をされていました。 

 1177年、大納言藤原成親を中心とする後白河上皇の近臣たち(俊寛僧都、西光法師、平康頼ら)の平家打倒の企みは平清盛に知られ、計画の首謀者たちは捕らえられ処罰された事件が鹿の谷事件です。 西光法師とその子らは拷問の上、斬殺されます。 首謀者の藤原成親と嫡男・成経は、死罪になるところを成親の妹を妻にしている平重盛の説得によって備前の児島流罪となったが、後に飢えにより死亡しています。  成経は、平康頼・俊寛僧都の2人とともに、薩摩南方の鬼界ケ島に流罪になります。  やがて、中宮徳子の出産により島の流人も赦免になるが、俊寛ひとりは許されず置き去りとされ、のちに断食してこの地に果てることとなった。

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