浄妙寺跡
1005年10月に道長は宇治・木幡の地に浄妙寺三昧堂を建立している。 木幡は基経以来藤原氏の墓地であり、道長はその供養の願文によれば、若い頃から父・兼家に従ってしばしば木幡の地を訪れ、その荒廃を見て涙を流したという。 栄華物語には道長の思いとして、三昧堂建立の願意が述べられている。 道長は1004年に建立の地を定め、1005年になって藤原行成に鐘銘を書かせ9月28日に鐘を鋳造した。 10月18日には行成は道長の命により南門と西門にかける浄明寺額二枚を書し、具平親王が供養経の外題を書している。 19日の供養当日には月明かりの中、寅刻に出発、巳刻に鐘をうち、 「鐘の声、思ふがごとし」 と満足している。 藤原氏の公卿のほとんどが参会し、天台座主覚慶を証者、前大僧正観修を導師として、供養僧百口という大規模な供養であったという。 この日の願文と呪願文は式部大輔大江匡衡と菅原輔正が作り、藤原行成が書したもので、また堂の仏像を作ったのは仏師康尚であった。 「御堂関白記」にはこの供養の願意は、ここに眠る父母や昭宣公(藤原基経)以来の先祖の霊の菩提のためであり、今後一門の人々を極楽へ導くためであると述べている。 このように浄妙寺を建立することによって道長は摂関家の結束をはかったと考えられている。
木幡小学校の正門横にある浄妙寺跡地の碑(撮影:クロウ)
浄妙寺は平安末まで栄えたが、五摂家の分裂もあり中世に廃絶した。 そのため長い間場所も不明であったが、1990年に宇治市木幡小学校のグランドで三昧堂と多宝塔と思われる基壇が発掘され、陶器なども出土した。 この発掘と、1062年に頼通が浄妙寺の大門から道長墓へ至った記述から、道長の墓の場所を推測することが可能となり、32号墓または33号墓が該当するのではないかと推測されている。
32号墓 (藤原道長墳墓との伝承)
33号墓