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第96代後醍醐天皇塔尾陵

2007年03月27日 | 天皇・皇后陵

第96代後醍醐天皇塔尾陵

 鎌倉幕府滅亡後に足利尊氏は、持明院統の光厳上皇の院宣を受け、1336年に京都を確保すると上皇を奉じて入京する。 尊氏は武家政権の構築に着手するが、後醍醐天皇は叡山に逃れて抵抗しており、8月の豊仁親王(光明天皇)即位は三種の神祇を欠いたままで行われた。 同年11月には講和が成立し、後醍醐は神器を足利方に渡して譲位し、光明天皇が即位。 同年末、北朝は『建武式目』を発布して武家政権の成立を宣言するが、後醍醐は京都を脱出して吉野に逃れ、北朝方に渡した神器は贋物であると宣言し、吉野朝廷を成立させて対抗する。 

 足利政権内部の紛争から観応の擾乱が起こると、1351年に北朝は南朝との和睦を行い、神器も南朝方に返されて北朝はいったん解体される。 翌正平7年、南朝は京都と鎌倉への侵攻と光厳・光明・崇光の三上皇と廃太子直仁親王の拉致を行い、一統は破棄される。 京都を奪還した足利義詮は北朝再建を試みるものの上皇の不在により治天を定めることができず、三種の神器も南朝方に渡っていた。 足利政権では古代の継体天皇の先例を持ち出し、光厳生母の広義門院を治天とし、8月に三種の神器のないまま光厳皇子の弥仁親王の践祚を行い、後光厳天皇として即位させる。三上皇はその後、北朝へ返還された。 1392年、南朝の後亀山天皇との和睦が成立し、神器は返還され南北朝合体が実現する。 

奈良吉野山の如意輪寺近くにある後醍醐天皇陵には孫・長慶天皇の皇子・世泰親王も眠っています。(撮影:クロウ)

 

 

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