第88代後嵯峨天皇嵯峨南陵 第90代亀山天皇亀山陵
土御門上皇が土佐に流された後は、母方の大叔父である土御門定通の許で育ったが、土御門家の没落に伴って苦しい生活を送り、中途半端な状態に置かれていた。 四条天皇が12歳で急死したため、皇位継承の問題が持ち上がった。 九条通家らは、順徳上皇の皇子を擁立しようとしたが、 執権北条泰時は、承久の乱の関係者への擁立には反対の立場を示し、中立的立場であった土御門上皇の皇子の邦仁王が擁立することとなった。 邦仁王は1242年即位し、在位4年で後深草天皇に譲位し、以後、院政を敷いた。 1259年には後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である亀山天皇への譲位を促した。 後嵯峨上皇の時代は、鎌倉幕府による朝廷掌握が進んだ時期であり、後嵯峨上皇による院政は、ほぼ幕府の統制下にあり、鎌倉幕府の将軍は天皇家より出ることになる。 後深草天皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子(後の後宇多天皇)を皇太子にした事が、後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなった。
両天皇陵は、嵐山すぐ東にある天竜寺内にあり、四季折々の美しさに囲まれて大変美しいところです。
天竜寺までの参道周辺も落ち着いた雰囲気がいっぱいで、
天皇陵の参拝だけであれば入料は不要です。
天皇陵の入口の竹竿をくぐると
手入れされた見事な両御陵が並んでいます。
天竜寺内ではかわいい庭桜、主役の枝垂れ桜が多くの観光客の目を引いていました。
今が見頃の天竜寺・枝垂桜
左は庭桜といいましてもバラ科です。葉と同時かそれより早く,大型の八重の花をつけます。 また右は”ぼけ”といって、これもバラ科です。因みに織田信長の家紋はこの木瓜紋です。
私が大好きなバラ科の”山吹”です。平安時代には山吹色の十二単が一際内親王様を引き立てたことでしょうね。
左は連翹 (れんぎょう)といってモクセイ科です。
右は梓辛夷”しでこぶし”という、絶滅が危惧されているモクレン科に属する日本固有の遺存種で特異な分布型の植物だそうです。 花期は、里のサクラがちらほら咲き始めた3月下旬ころ、一足早く、満開になります。
天竜寺の入り口近くの庭に。