第91代後宇多天皇 亀山天皇皇后・佶子蓮華峯寺陵(れんげぶじのみささぎ)
第91代後宇多天皇 蓮華峯寺陵は京都・右京区の大覚寺の北東0.5kmくらいのところ、直指庵の東に位置します。 今回訪れたときには、御陵の改修工事の最中で、御陵の周りの濠を固める工事をしておりました。 大覚寺平岡線からやっと車が通れるような脇道からすぐで、ゆっくりと当時を振り返ることが出来ます。(撮影:クロウ)
後嵯峨上皇の意志により1268年に立太子し、、1274年亡き上皇の意向を継いで亀山天皇から譲位を受けて8歳で即位したときは、亀山上皇による院政が行われた。 治世中には、文永・弘安の両役が発生した。 1287年、後深草上皇が、自分の血統(持明院統)ではなく、弟亀山上皇の血統(大覚寺統)が天皇になったのを不満に思っていたので、幕府の斡旋により、後深草上皇の皇子・伏見天皇に譲位した。以後、持明院統と大覚寺統による皇位の争奪、皇統の分裂が続くことになります。 長子である後二条天皇(94代)の治世、正安三年(1301年)から徳治三年(1308年)まで院政を敷き、持明院統の花園天皇を挟んで、もう一人の皇子後醍醐天皇(96代)が文保二年(1318年)に即位すると再び院政を開始。 1321年、院政を停止し隠居した。以後、後醍醐の親政が始まる。 晩年は後二条天皇の長子(自らの嫡孫)である皇太子邦良親王の即位によって大覚寺統が早期に一本化する事を望んでいたと言われ、中継ぎに甘んじない後醍醐天皇との父子仲は次第に疎遠になっていった。
(持明院統:足利氏が京都に擁立 北朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━┓
藤原立子(東一条院) ┃
修明門院藤原重子 ┣85仲恭天皇 ┃
憲仁親王80代高倉天皇1161-1181 ┣84順徳天皇 ┃
┃ ┣高成親王(82代後鳥羽天皇)1180-1239 平棟子 ┃
┃ ┣守貞親王(後高倉院)1179-1223 ┣83土御門天皇┣宗尊親王 ┃
┃ ┃ ┣86後堀河天皇1212-1234 ┃ ┣88後嵯峨天皇1220-1272 ┃
┃ ┃ ┃ ┣87四条天皇 ┃ 源通子 ┃┣89後深草天皇┛
┃ ┃ ┃ 藤原竴子 ┃ ┃┣90亀山天皇━┓
┃ ┃北白河院・藤原陳子 承明門院源在子 ┃西園寺姞子 ┃
┃ ┃持明院基家┛ ┃ ┃
┃藤原殖子(七条院) ┣宗尊親王 ┃
┣言仁親王トキヒト(81代安徳天皇1178-1185) 平棟子 ┃
徳子1155-1214(建礼門院) ┃
┏━(大覚寺統:吉野朝廷 南朝)━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┛
┃藤原嬉子1252-1318(今出河院) 不明
┃ ┣- 姈子内親王(1270-1307)後深草皇女(遊義門院) ┣海門承朝
90亀山天皇1249-1305┣- 阿野廉子 藤原勝子 ┣世泰親王
┣世仁親王(後宇多天皇)1267-1324 ┣成良親王 ┣98長慶天皇
洞院(藤原)佶子┃┣邦治親王(後二条天皇)1285-1308┣恒良親王 ┣99後亀山天皇
1245-1272 ┃堀河(源)基子┃┣- ┣義良親王(後村上)1328-1368
(京極院) ┃(西華門院) ┃藤原(徳大寺)忻子 ┣祥子内親王
┃ ┣邦良親王1300-1326┃
┃ ┣邦省親王 ┃
┃ 藤原(五辻)宗子 ┃
┣尊治親王 (96後醍醐天皇) 1288-1339
藤原忠子 ┣懽子内親王 ┃┃┣護良親王1308-1335
西園寺実兼┃(光厳上皇妃、宣政門院) ┃┃源師親娘
┣西園寺禧子(礼成門院) ┃┣尊良親王
┣左大臣公衡 ┃┣宗良親王
┣太政大臣兼季 ┃二条為子
┣西園寺金章子 藤原実俊┣世良親王
┗西園寺瑛子 ┃┣静尊法親王
┗遊義院一条局