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待賢門院・藤原璋子 花園西陵

2007年04月05日 | 天皇・皇后陵

花園西陵 待賢門院・藤原璋子

  藤原璋子は、大納言藤原公実を父にその妻・光子を母とし、幼児の時、白河法皇の寵愛を受けていた祇園女御の猶子となり、その縁で法皇の猶子ともなり、院御所で養育された。なんともいえぬ可愛さを秘めた女児で、14歳のころ法皇の愛撫を受けるようになっていた。法皇は、璋子を関白藤原忠実の一男忠通に娶らせようとしたが、法皇とのただならぬ関係を知っていた忠実と妻の師子は、この婚姻を喜ばなかった。それで、法皇は璋子を孫の鳥羽天皇の後宮にしようとした。永久5年12月入内し女御となった。鳥羽天皇15歳、璋子は17歳であった。翌年正月、璋子は皇后になり、三条西殿で立后の儀式をなした。
元永2年、璋子中宮は皇子顕仁を生んだが、明らかに顕仁は法皇の子であった。鳥羽天皇はそれを承知しており、自分の皇子顕仁を、「叔父子」と呼んでいた。新皇子を溺愛した法皇は、保安4年、顕仁親王を皇太子に立てるとともに、鳥羽天皇を退陣させ、皇太子は5歳で天皇(崇徳天皇)の位についたのである。
院御所の三条西殿では、法皇は西対、鳥羽上皇は東対、璋子中宮は寝殿を常御殿としていた。翌天治元年11月、中宮は今上天皇の生母ゆえ女院に列せられ、院号を待賢門院の称した。その後璋子女院が産んだ子は、男女合わせて6人であったが、誰が法皇の子で、誰が鳥羽上皇の子である判らなかった。それ故、大治4年(1129)7月法皇の崩御によって、璋子女院の生活は暗転したのであった。鳥羽上皇との仲は悪くはなかったが、藤原得子(のちの美福門院)が上皇のもとに入待したころから、璋子に寄せる愛は薄れていき、璋子は双ヶ丘の東麓に法金剛院を建立し、そこで暮らすことが多くなったのである。法金剛院は、双ヶ丘の東麓・三ノ丘の五位山を背にして南面して建立され、広い敷地内には大きな苑池を設け、西に阿弥陀堂、東に女院御所がつくられ、のちに北斗堂・三重塔・経蔵・九体阿弥陀堂などが建立された。女院はここで落飾し、まもなく没したのである。(撮影:クロウ)

 

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