平安時代の歴史紹介とポートレイト (アフェリエイト説明 / ちょっと嬉しいお得情報を紹介)

古代史から現代史に至る迄の歴史散策紹介とポートレイト及び、アフェリエイト/アソシエイト登録方法と広告掲載説明

第55代文徳天皇陵

2007年04月10日 | 天皇・皇后陵

第55代文徳天皇田邑陵

 鳴滝駅のすぐ西の住宅地の中にある文徳天皇陵にたどり着くのに苦労を致しました。 だいたいの場所はわかっているのに、道が狭くて近くまでいけません。 途中、見事な桜を鑑賞しながら到着した御陵の参道はとても綺麗で、気持ちのいいものでした。 現在では御陵の清掃などは、宮内庁に登録されたボランティアの方々によって行われているそうですが、山の中の御陵ですと毎日というわけにはいきませんが、ここ田邑陵ですと、近所の方々がこまめに手入れをしているのでしょう。  このあたりは太秦三尾古墳にあたり、皇后の藤原明子も眠っているそうです。 (撮影:クロウ)

 文徳天皇は承和の変(淳和上皇の子・恒貞親王を廃して仁明天皇と良房の妹・順子の皇子・道康親王を立太子させようとした良房の陰謀)によって廃された恒貞親王に代わって立太子した。 文徳天皇は紀名虎の娘・静子との間に惟喬親王をもうけ、その立太子を願っていたが良房を憚って諦めた。 やがて良房の娘・明子と文徳との間に惟仁親王(後の清和天皇)がうまれると立太子とした。 これらにより、藤原良房と文徳天皇との確執は深まる中、文徳天皇は858年に23歳で突然死する。 これは、明子が生んだ清和幼帝を即位させ外祖父として政権を掌握しようとした藤原良房の陰謀説がある。

 ここで紀貫之が選んだ六歌仙と文徳天皇との関係を見てみると、やはり六歌仙が藤原良房の陰謀に関わっていることが窺われる。在原業平は清和天皇がまだ幼少であった頃に婚約者である高子と恋愛に落ち、問題を起こした。 僧正遍昭は仁明天皇崩御の際に身の危険を感じて出家した。仁明の宮廷に使えていた頃、東宮に勤務していたがその頃は惟仁親王(後の清和で、第四皇子)は誕生していないので、彼の管轄は紛れもなく惟喬親王(第一皇子)であった。 文屋康秀は文徳天皇即位直後に理由不明の左遷を受けている。喜撰は陰陽道を得意とする隠遁者である。喜撰は紀仙と当てて、紀名虎の子であるという伝承があるらしいが、ほんとうとすると文徳妃の紀静子が名虎の子であるから両者は兄妹ということになる。小野小町は云うまでもなく絶世の美女と称されているが正体は全くといっていいほどわからない。 ただひとつ、文屋康秀が三河掾(三河守に次ぐ三等官)に任じられたときに、任国への視察に誘っている。そのとき小野小町は受け入れているのである。小野小町に都落ちをしなければならない事情があったのかもしれない。

 惟喬親王に加担したこれらの5人はある意味で謀反人であるが、寛大な処分の末六歌仙に選ばれるという名誉を得ている。この理由として文徳天皇は5人の処罰によって怨霊を恐れたことは間違いない。なぜなら桓武(早良親王の祟り)、平城(伊予親王の祟り)、仁明(橘逸勢の祟り)と先の天皇が悩まされていたことを知っており、今度は自分に降りかかると信じていたからである。ところで惟喬親王はというと後継者争いの末敗れて都を去り出家して素覚法師と名乗り隠棲する。その隠棲の先が比叡山麓小野の里である。ここは小野氏発祥の地で小野妹子の墓、小野篁を祀った神社もある。つまり小野は惟喬親王が選んだ地でわかるように小野小町は惟喬親王派でありかなり高い地位にあったと思われる。そこで小野小町は惟喬親王の父である仁明天皇の更衣だったのではないかとも云われている。これが小野吉子という女性である。そして小町は惟喬親王の乳母であった可能性もある。

 

  

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
« 平野神社 | トップ | 第58代光孝天皇陵 »
最新の画像もっと見る

天皇・皇后陵」カテゴリの最新記事