
李鄭屋漢墓 LEI CHENG UK HAN TOMB
漢墓発見の経緯 MTR(香港地鐡)の長沙灣站(尖沙咀から6つ目の駅)A3出口を出ると長沙灣道と東京街
(Tonkin Street)の交差点に出る。東京街は街(Street)と言えど片側3車線の広い道路だ。北東に10分ほど歩くと左に「李鄭屋漢墓
博物館」が見える。漢墓の発見の経緯は次の通りだ。1953年末に石尾地区で大火(写真・左)があり58,000人が焼け出された。香港政府はこの対策としてこの李鄭屋地区に住宅の建設を始めたが、1955年8月造成工事中に漢墓が発見された。右の図を見て頂くと分かるがこの地域
は北東方向に急な斜面になっており、山を切り開く作業中に発見された。直ちに政府に報告され、調査委託を受けた香港大学の林仰山 (F.S.Drake) 教授を中心とした調査団が現地に入り、後漢王朝時代(AD25-220・中国では東漢時代という)の漢墓と分かった。李鄭屋の地名をつけて李鄭屋漢墓と名付けられた。ここは今では海岸線より2Kmも入った地域だが、後漢時代ではこの地域近くに海岸線があった。
古墓の形状 漢時代の墓は“十”字形の形状が多い。トップの写真、左は漢墓の全景で隣の公園から見ることが出来る。右は内部を見ることが出来るようになっていて、前室から後室を見たところ。写真の符号については次の通り。
A(羨道・Entrance Passage)
- B(前室・Front Chamber)
- C(左耳室・Left Side Chamber)
- D(右耳室・Right Side Chamber)
- E(單券頂=半円筒天井・Barrel Vault)
- F(Domed Roof)、G(Rear Chamber)
- H(小龕=壁龕・Niche)
それぞれは平均40×20×5cmのサイズの煉瓦で作られている。広州市にある南越王墓は西漢(前漢)時代のものだが形状は良く似ている。多くの出土品があったが人骨は発見されていない。

漢墓博物館 東京街の入り口から入ると漢墓についてパネルで詳しく紹介している部屋がある。そのまま真っ直ぐに進むと、階段の上に漢墓の中が見られる入り口がある。墓の大きさから相応な支配者の墓と見られるが詳細は分かっていない。先の部屋の左奥に出土品が多く展示されている。一部は香港歴史博物館に移されているが内容は豊富である。開館日と日時は月~水と金土は10時から午後6時、日・祝日は1時から6時、休館日は木曜日、12月25・26日、1月1日、農暦新年(旧正月)3日間。

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漢花園 李鄭屋漢墓博物館の隣にある公園、古き時代の中国庭園を模して作られている。最近香港では公園の整備がされており、どこも綺麗である。香港の人たちはよく公園を利用
している。朝早くは太極拳をする人が多い、日中でも熱心な人は練習している。午後からはお年寄りが集まってくる。小鳥を飼う人が多い、公園への散歩に鳥かごを持って集まってくる。ただし鳥かごを持って集まってくるのは男性だけ、未だに女性では見たことがない。しかも鳥愛好家?が集まっている中には女性はいない、不思議に思っている。日本では犬の散歩に公園へはよく見る風景だが香港では小鳥だ。香港の住宅事情はあまり良くなく3DKなどと言っても一部屋が4畳半以下でベッドを置くと何も置けないくらい狭い。下の写真、左から長沙灣の東京街の通りで博物館の奥には漢墓発見のきっかけとなった高層の近代的な住宅ビル・李鄭屋邸(邸=estate)ある。次の写真は長沙灣駅近くの店舗兼住宅ビル、少し古いビルは内部と表から見える外観は多少のメンテナンスがなされているが、裏に回ると消防自動車が入れないほどの狭い道が多い。
