第5回はコニカC35EF(1975年)を取り上げます。

このカメラの名称を聞いても分からない人でも、ピッカリコニカと聞けば、1970年代半ばに物ごごろがついていた方なら、ああそれかと思い出す方が多いと思います。
当時は爆発的にヒットしたので、知名度は抜群でした。
このカメラの特徴は、世界初のフラッシュ内蔵のコンパクトカメラという点です。
暗い場所(日の当たらない室内なども該当します)を手持ちで撮影するためには、少し前まではストロボを発光させる必要がありました。
現在のデジカメのセンサーは高感度域でもノイズが出にくくなったため、多少暗い状況でもストロボなしで撮影できるようになりました。しかもストロボをたかない方が自然な雰囲気で写るので、見た目にもこちらの方が優れていることが多いのです(ストロボを使っても自然な雰囲気で撮ることは可能ですが、それは少々勉強が必要ですし、関連機材が必要になる場合もあります)
暗い場所で撮るために、わざわざストロボを購入し、必要に応じて持参してカメラに取り付けて使用することは、カメラに詳しくない人にとっては、とても敷居が高いものでした。
このカメラが登場する前には、暗い場所でも手軽に写せることができたらという需要が結構あったのでしょうね。
写真自体の見えはすごくよくなくても、とにかく手軽に写るということが求められていたのだと思います。
そしてこのカメラの登場です。このカメラさえあれば、暗いところでの撮影は、ストロボスイッチをオンにして撮影すればよくなったので、ヒットするのが当然だったと思います。
このカメラの出現までは、コンパクトカメラのジャンルにおいて、光量が多少少ないところでも、できるだけ手持ちでとれるように、レンズのf値を明るくすることを競っているようなところがありました。この流れは普及機クラスにも及んでいました。当時は結構レンズにコストがかかっていたのではないかと思います。
ただ、1975年(昭和50年)にこのカメラが出現したことにより、その競争は終焉し、このカメラのようにf2.8クラスのレンズがノーマルになっていきました。
このカメラは普及機らしく、ピント合わせは、だいたいの距離感が分かる絵をみてあわせる、4段階のゾーンフォーカスを採用しています(距離指標も付いていますので目測で合わせることも可能です)。人一人のマークは1m、人二人のマークは1.5m、人3人のマークは3m、山のマークは無限大に対応しており、距離指標の1.5mと3mにはクリックがついており、セットが容易になっています。露出はAEオンリーです。
レンズは38mmf2.8が付いています。広角寄りなので、この点は使いやすいと思います。レンズ名はヘキサノンになっており、よく写りそうな気分にさせられます。
とにかく失敗しにくいカメラという評判でした。
このカメラは前期型で、後期型になると、セルフタイマーが付きます。
1977年(昭和52年)には、初のAF搭載カメラ「コニカC35AF」が登場し、「ジャスピンコニカ」の愛称でこれも大ヒットしました(ピッカリコニカ登場からたった2年後なのです)。これで、コンパクトカメラのAF搭載に弾みがつき、1985年の一眼レフで初めての本格的なAF搭載カメラであるミノルタαの登場にもつながっていきます。
なお、1976年には、普及型の一眼レフである「コニカ Acom-1」が「愛情コニカ」のネーミングで登場し、これもまずまずヒットしました。
この当時のコニカのネーミング戦略はとてもさえていました(キャッチーですが、そのカメラの本質を一言で表現していました)。このころがコニカのカメラ部門の黄金期(売れ行きという面において)といっていいのでは思います。
コニカのカメラが売れれば自社のフィルムも売れるわけです。
その後、ミノルタと合併し、さらにカメラ部門から撤退してしまった今では、そのようなコニカの歴史も若い方にはピンとこなだろうなと思います。
ところで、「ピッカリコニカ」の使い手といえば、当ブログの「写真集の紹介③」(9月4日)で取り上げた増山たづ子さん(1917-2006年)が真っ先に思い浮かべます。
故郷の德山村を、ダム建設が本格的に進められそうになったころから、廃村後も亡くなるまでピッカリコニカで撮り続けた、「カメラばあちゃん」です(詳細はブログをご覧ください)。
増山さんは、ピッカリコニカの開発者である内田康男さんとお付き合いがあったそうです。
内田さんのインタビュー記事が掲載されている「カメラメーカー 勝ち組 負け組」(山縣基寄志 著 2004年12月刊 学研)という本には、次のような増山さんにかかるエピソードが記されています。
増山さんは。今でもピッカリコニカを使っていて(ディック注 この本は増山さんの生前に発行されています)、時々壊れたから直して欲しいと電話がかかってくるという。
「使い込んでいるから、もう寿命なんですよと言うんですが、他のカメラは使えないから直してくれと。もう部品はないのですが、きれいなものを中古カメラ店で探し、部品を取って直しています。これほど使ってくれれば、開発者冥利に尽きます。カメラもきっと喜んでいるでしょう」(P140)
ここまで使ってもらえたというのはこのカメラは幸せだったとディックも思います。

正面
大きなストロボが印象的ですが、取って付けた感がなく、デザイン的にうまく処理されていると思います。

ストロボを強調して撮影してみました

ストロボをオンにした状態
レンズの向かって右下にある、矢印が記載されたボタンを矢印側に押すとストロボがポップアップします。
オフにするときは、ストロボ上部を押し込みます

ピントリング
サイドにゾーンのマークがあります。ファインダー内でも同様のマークがあり、どのゾーンが選択されているか確認できるようになっています。
上部は距離指標があります。

背面と上面
とてもシンプルです
裏蓋の向かって左側に、裏蓋を開けるレバーがあります。

AE用の電池はファインダーの向かって右側にボタン電池をセットする電池室があり、
ストロボ用はストロボ部分の下部に単三電池2本を入れる電池室があります。
電池は別系統になっています。

裏蓋を開けた状態
ストロボ部分の半分くらいの幅が、ストロボ設置で増えた横幅になっており、サイズをあまり大きくせずにストロボを設置していることが分かります。

裏蓋の裏面に、コニカのフィルムのかつてのブランドであるさくらカラーのシールがはってあります。
懐かしさを感じます。
コニカのカメラはコニカのフィルムを使ってほしいという宣伝ですね。

C35の表示が赤なのは洒落た感じがします

ゴム製のチープなレンズキャップ
でもあるとうれしいアイテムです

このカメラの名称を聞いても分からない人でも、ピッカリコニカと聞けば、1970年代半ばに物ごごろがついていた方なら、ああそれかと思い出す方が多いと思います。
当時は爆発的にヒットしたので、知名度は抜群でした。
このカメラの特徴は、世界初のフラッシュ内蔵のコンパクトカメラという点です。
暗い場所(日の当たらない室内なども該当します)を手持ちで撮影するためには、少し前まではストロボを発光させる必要がありました。
現在のデジカメのセンサーは高感度域でもノイズが出にくくなったため、多少暗い状況でもストロボなしで撮影できるようになりました。しかもストロボをたかない方が自然な雰囲気で写るので、見た目にもこちらの方が優れていることが多いのです(ストロボを使っても自然な雰囲気で撮ることは可能ですが、それは少々勉強が必要ですし、関連機材が必要になる場合もあります)
暗い場所で撮るために、わざわざストロボを購入し、必要に応じて持参してカメラに取り付けて使用することは、カメラに詳しくない人にとっては、とても敷居が高いものでした。
このカメラが登場する前には、暗い場所でも手軽に写せることができたらという需要が結構あったのでしょうね。
写真自体の見えはすごくよくなくても、とにかく手軽に写るということが求められていたのだと思います。
そしてこのカメラの登場です。このカメラさえあれば、暗いところでの撮影は、ストロボスイッチをオンにして撮影すればよくなったので、ヒットするのが当然だったと思います。
このカメラの出現までは、コンパクトカメラのジャンルにおいて、光量が多少少ないところでも、できるだけ手持ちでとれるように、レンズのf値を明るくすることを競っているようなところがありました。この流れは普及機クラスにも及んでいました。当時は結構レンズにコストがかかっていたのではないかと思います。
ただ、1975年(昭和50年)にこのカメラが出現したことにより、その競争は終焉し、このカメラのようにf2.8クラスのレンズがノーマルになっていきました。
このカメラは普及機らしく、ピント合わせは、だいたいの距離感が分かる絵をみてあわせる、4段階のゾーンフォーカスを採用しています(距離指標も付いていますので目測で合わせることも可能です)。人一人のマークは1m、人二人のマークは1.5m、人3人のマークは3m、山のマークは無限大に対応しており、距離指標の1.5mと3mにはクリックがついており、セットが容易になっています。露出はAEオンリーです。
レンズは38mmf2.8が付いています。広角寄りなので、この点は使いやすいと思います。レンズ名はヘキサノンになっており、よく写りそうな気分にさせられます。
とにかく失敗しにくいカメラという評判でした。
このカメラは前期型で、後期型になると、セルフタイマーが付きます。
1977年(昭和52年)には、初のAF搭載カメラ「コニカC35AF」が登場し、「ジャスピンコニカ」の愛称でこれも大ヒットしました(ピッカリコニカ登場からたった2年後なのです)。これで、コンパクトカメラのAF搭載に弾みがつき、1985年の一眼レフで初めての本格的なAF搭載カメラであるミノルタαの登場にもつながっていきます。
なお、1976年には、普及型の一眼レフである「コニカ Acom-1」が「愛情コニカ」のネーミングで登場し、これもまずまずヒットしました。
この当時のコニカのネーミング戦略はとてもさえていました(キャッチーですが、そのカメラの本質を一言で表現していました)。このころがコニカのカメラ部門の黄金期(売れ行きという面において)といっていいのでは思います。
コニカのカメラが売れれば自社のフィルムも売れるわけです。
その後、ミノルタと合併し、さらにカメラ部門から撤退してしまった今では、そのようなコニカの歴史も若い方にはピンとこなだろうなと思います。
ところで、「ピッカリコニカ」の使い手といえば、当ブログの「写真集の紹介③」(9月4日)で取り上げた増山たづ子さん(1917-2006年)が真っ先に思い浮かべます。
故郷の德山村を、ダム建設が本格的に進められそうになったころから、廃村後も亡くなるまでピッカリコニカで撮り続けた、「カメラばあちゃん」です(詳細はブログをご覧ください)。
増山さんは、ピッカリコニカの開発者である内田康男さんとお付き合いがあったそうです。
内田さんのインタビュー記事が掲載されている「カメラメーカー 勝ち組 負け組」(山縣基寄志 著 2004年12月刊 学研)という本には、次のような増山さんにかかるエピソードが記されています。
増山さんは。今でもピッカリコニカを使っていて(ディック注 この本は増山さんの生前に発行されています)、時々壊れたから直して欲しいと電話がかかってくるという。
「使い込んでいるから、もう寿命なんですよと言うんですが、他のカメラは使えないから直してくれと。もう部品はないのですが、きれいなものを中古カメラ店で探し、部品を取って直しています。これほど使ってくれれば、開発者冥利に尽きます。カメラもきっと喜んでいるでしょう」(P140)
ここまで使ってもらえたというのはこのカメラは幸せだったとディックも思います。

正面
大きなストロボが印象的ですが、取って付けた感がなく、デザイン的にうまく処理されていると思います。

ストロボを強調して撮影してみました

ストロボをオンにした状態
レンズの向かって右下にある、矢印が記載されたボタンを矢印側に押すとストロボがポップアップします。
オフにするときは、ストロボ上部を押し込みます

ピントリング
サイドにゾーンのマークがあります。ファインダー内でも同様のマークがあり、どのゾーンが選択されているか確認できるようになっています。
上部は距離指標があります。

背面と上面
とてもシンプルです
裏蓋の向かって左側に、裏蓋を開けるレバーがあります。

AE用の電池はファインダーの向かって右側にボタン電池をセットする電池室があり、
ストロボ用はストロボ部分の下部に単三電池2本を入れる電池室があります。
電池は別系統になっています。

裏蓋を開けた状態
ストロボ部分の半分くらいの幅が、ストロボ設置で増えた横幅になっており、サイズをあまり大きくせずにストロボを設置していることが分かります。

裏蓋の裏面に、コニカのフィルムのかつてのブランドであるさくらカラーのシールがはってあります。
懐かしさを感じます。
コニカのカメラはコニカのフィルムを使ってほしいという宣伝ですね。

C35の表示が赤なのは洒落た感じがします

ゴム製のチープなレンズキャップ
でもあるとうれしいアイテムです
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