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ディック スギ の写真の世界(The World of Dick Sugi’s Photos)

📷このブログでは写真全般の話題を取り上げていきます📷

安原一式を語る

2024年08月17日 | ディック スギの写真談義

今ディックの手元に安原一式があります。

本の紹介のシリーズに「安原製作所 回顧録」を取り上げるにあたり、防湿庫から持ってきました。

これは、世の中がデジタルに移行した後に、ネットオークションで手に入れました。ディックは、フィルムはほとんど使わないため、使わないだろうなと思いながらも、頭の片隅に残っていたカメラなので、家に来てもらうことにしました。

トータル4000台程度しか売れていないカメラなので、なかなか市場に出てこず、ディックも実際に触ったのは、この機種が初めてでした。

登場当時はとても話題になりましたが、そうしたカメラで実際に触ったことがない方が多いカメラの筆頭に上がるのではないでしょうか。

 

安原一式は、1998年10月にネットで試作機が発表されて以降(同時に予約開始)、カメラ雑誌だけでなく、マスコミでも多く報道され、大きな話題になったことはディックもよく記憶が残っています。また、安原一式は、ライカLマウントの機械式のレンジファインダーであったことで、ちょうど中古カメラブームでライカが人気になっていたことも盛り上がった原因の一つと考えます。企画が時流に合っていたといえます。

販売方法も定価販売で、5000円の予約金を払って予約し、順番がきたら販売するというスタイルのみで、これも大きな話題となりました。1999年3月の供給開始後も供給がなかなか進まず、バックオーダーを多く抱える時期が長く、実物を持っている人が少なかったことも、人気に拍車をかけた一因だったと思います。

ただ、これはニッチな分野で、もともと需要が多くない上に、競合機種となるフォクトレンダーブランド(コシナ)の登場やフィルムからデジタルへの移行で、フィルムカメラのこの路線だけでは長続きしなかったのも事実だったでしょう。

2号機秋月は、安原製作所のオリジナル企画のフィルムカメラ(レンズ固定式の露出はAE(A又はP)のレンジファインダーカメラ)でしたが、開発が遅れ(専らの原因は工場での遅延)、2003年末の登場となってしまい、時代がデジタルに移行しつつあったこともあり、人気が出ず売れたのは100台以下とのことです。

 

ディックは、安原一式がとても話題になったことは、前述のとおり、ディックは正にリアルタイムの状況で知っているのですが、必ずしも肯定的な見方ばかりでなかったのは事実です。

機種自体が中級機レベルなのに(しかもシャッター膜の遮光性につき、やや難あり)、少量の限定供給(工場の生産能力の問題もあったと思いますが。)のため予約販売の手法を取ったこと、譲渡後は届け出が要請されていたことなどは、プレミアムが付く高級機の売り方だと思い、そのギャップに違和感を覚えたものでした。

フォクトレンダーから同様なコンセプトの機種(ベッサR 2000年3月)が登場すると、次第に話題に上らなくなっていった記憶です。

日本のOEMメーカーと提携して高級機路線で展開していたら、もっと違っていたかもしれませんが、それが安原さんの意向と合致していたかどうかは分かりません。

秋月は、フィルム派の方が今欲しいカメラではないでしょうか。フィルム撮影を楽しむには理想的なスベックだと思います。

突然の業務終了は、時期に遅れない撤退だったと思いますが、アフターサービスも一気に終わってしまったので、この点は物議を醸したということがありました。これだけ潔くできたのも、技術者出身ということも大きかったのかもしれないと感じました。

 

安原さんはディックと同年代ですが(写真関係の時代背景は同じなので、より共感できるものがありました)、今回この話題で調べたところ、2020年3月に逝去されていたことがわかりました。早すぎます。ご冥福をお祈りします。

※安原一式は改めて紹介したいと思います。

安原一式は、思っていたよりもしっかりとした作りでした。これは触ってみないと分からないところです。

カメラジャーナル77号で取り上げられました。長徳氏は予約したものの、順番がまだ先。たまたま中古カメラ屋で委託品が出ていたのを購入したので、この号で取り上げたというストーリー付です。

 

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作品作りの必要性を外れて、多くのカメラ、レンズを使うと写真はうまく撮れなくなるか

2024年02月16日 | ディック スギの写真談義

写真の楽しみ方の一分野に、好きなカメラやレンズを収集し、かつ、それで実際に撮影してみるというものがあります。収集だけにとどまらず、撮影をも楽しむパターンです。

特にレンズについて、写りの違いを撮影するために、同じ焦点距離のレンズを集めて写している方は、通常の撮影と併せて行っている方を含めれば、一定の層が存在するのではないかと思われます。

この分野が写真活動の多くを占めるようになると、写真はうまく撮れなくなるということを聞きますが、それは何故そう言われるのかを考えてみたいと思います。

このテーマでディックが思い浮かぶのは、田中長徳氏です。20世紀末に日本で起きた中古(クラシックカメラ)ブームをけん引した一人として、ディックもその影響を受けたので、今もよく覚えています。中古カメラブームにはまった人には、長徳氏は、中古カメラ、レンズを自己の撮影した写真とともに解説してくれる、写真機家としてのイメージが強いです。一方、長徳氏は写真家としても早くから頭角を現し、シリアスフォトグラファー(※)としても活躍をされています。

※ シリアスフォトグラファー:今は死語かもしれません。広告フォトグラファー(職業写真家)と対極にある、「表現」を追及する人との意味。今は写真家(写真作家)と同意と思われます。

ただ、長徳氏が写真機家としての活動を幅広くやるようになると、「田中は写真が撮れなくなったから、カメラ論評にはしった」「どうせメーカーの手先だろう」「こんなものばかり書いていると写真が撮れなくなる」とシリアスな写真を撮っている写真家や先輩写真家から声が上がったそうです(田中長徳のカメラ評論・カメラエッセイと写真集との関係 中川祐介著(「カメラジャーナル108号」))。これは、執筆活動と連動しての写真撮影をも指していると考えられます。

この話は、実際に撮るべき分野の写真以外の他の分野(の写真)に力を注ぐと、本来の撮るべき写真の質に相当の影響がある、という意味にも取れるのですが、職業写真家と自己の撮影したい写真を両立して行い、後者にも素晴らしい写真を発表されるプロは少なからずいます。時間的な制約の影響はあるとは思いますが、この影響は大きいものではないように思います。

ディックは、これは、多くのカメラやレンズをとっかえひっかえ使っていると、撮影のカンがにぶり、それが本来の撮るべき写真の質の影響を与えるので、すべきではないという趣旨ではないかと考えています。

田中長徳氏のような天才肌の写真家は別にこれで影響を受けることはないでしょうから、一般レベルの話で考えてみましょう。

「写真の目的から改めて写真を考えてみる」で、究極的な写真の趣味(愛好家)の目的は、カメラで撮りたい被写体の写真を撮ることであり、それは、単に撮影するだけでなく、自分がセレクトした写真を納得できる作品として仕上げることまでを包含したものである、という話をしました。

自分がセレクトした写真を納得できる作品として仕上げるところに注目すれば、撮影機材は、それに必要なものがあればよいということになります。

いくつかの分野を撮影している人は、それぞれに必要な機材を用意する必要がありますが、そうでない方は、本来は最小限の機材があればいいわけです。

あえて、別のメーカーのカメラを使ったり、レンズも同じ焦点距離がかぶるレンズを何本も用意する必要はありません。

ディックは、現在一眼はα9を2台使用していますが、操作性が同じというのは、撮影の際に操作を間違えることもなく、撮影に集中できる点ではアドバンテージになります。

また、ディックは、街ネコちゃん撮影の際に、RX10Ⅳをα9と併用して使うこともありますが、RX10Ⅳは一眼タイプであるものの、操作性はα9と微妙にというか、違うところは結構違うところがあるため、いざ撮影という際にどうだったかなと迷って、撮影を逃してしまうこともあったりします。

違う機種やレンズを使用すると、意識が操作に削がれるという面は確かにありえます。それが、作品作りに影響することはないわけではないと思います。ただ、この程度だと写真がうまく撮れない(下手になる)というレベルまでには至らないと思います。

ここで冒頭での話題に戻ります。

レンズの描写の違いを確認するために、同じ被写体を、レンズごとに(一眼以外だと、更にカメラごとに)撮影することも大きな目的になってくると、作品作り自体の目的が希薄になり、それが写真撮影に影響することは、想像に難くないです。

被写体を捉える感覚が鈍ってきて、それが常態化すると、写真がうまく撮れない(下手になる)という流れになっていくのでしょう。

レンズには味があることは(ライカとツァイスの比較、ドイツのメーカーと日本のメーカーの比較など、拘りのある方においては話はつきませんね。)、そのとおりと思います。

ただ、その味が作品レベルでは、不可欠なものというのは、オールドレンズのように、それに特有の効果(フレアが多く発生する、ソフトな描写のように、明らかにその特徴を活かして撮影するケース)があれば格別、そうでなければ、ほぼないのではないかというのがディックの考えです。

天才以外のレベルでは、作品作りとレンズの描写の比較というのは、同じベクトルにはなりにくく、後者を追及しすぎると、写真がうまく撮れない(下手になる)という流れになるのはありうるとディックは考えます。

 

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写真の目的から改めて写真を考えてみる

2024年01月31日 | ディック スギの写真談義

まず、写真とは違う分野の車の趣味(愛好家)の目的は何か考えてみましょう。

好きな車に乗って楽しむ、好きな車を整備したりきれいな状態にする、好きな車をカスタマイズする、好きな車を眺たり写真を撮る、好きな車を集める、興味のある車の歴史を学んだり、スペックを把握するなどが浮かんできます。

いろいろな楽しみ方があるのですが、車自体の究極的な目的に密接したものは、好きな車に乗って楽しむだろう、と思います。

次に写真についても、その趣味(愛好家)の目的を同様に考えてみましょう。

カメラで撮りたい被写体の写真を撮る、好きなカメラやレンズを集める、興味あるカメラを整備する、好きなレンズの描写を確かめる、中古カメラ屋を巡る、興味のあるカメラの歴史やスペックを把握する、などが浮かんできます。

写真自体の究極的な目的に密接したものは、カメラで撮りたい被写体の写真を撮ることとなります。これは、更に、単に撮影するだけでなく、自分がセレクトした写真を納得できる作品として仕上げることまでを包含したものであろうと思います。

自分がセレクトした写真を納得できる作品として仕上げるところに注目すれば、撮影機材は、それに必要なものがあればよく、必要以上にカメラやレンズを増やすことはありませんね。

また、昔よく言われていた、標準レンズを使いこなせ、ズームレンズは使うな、トリミングは不可、プリント用紙のサイズを意識した仕上げ(プリント)、また、デジタル主流後のむやみに加工するな(特に不必要なものを消したりするな)というような事柄は、自分がセレクトした写真を納得できる作品として仕上げる点からみれば、どうでもよいことのように感じます。

フィルムでの撮影でないといい写真が撮れない、このレンズでないといい写真が撮れないといいうのも、その効果がメインで生かした撮影以外は、拘るものではないと考えます。

(※ これらは、上記目的からはずれた、趣味性での拘りにかかる話ではないので、念のため)

このように考えると、様々な制約から自由になり、気楽に写真が撮れるようになりませんか。そうすることにより、作品作りへの作業がより研ぎ澄まされて、完成度が高い作品ができるような気がします。

ディックは、写真を趣味として始める場合は、カメラの最低限の撮り方は把握する必要はありますが、あとは自由に撮ってみることをお勧めしています。

写真教室に通って、初級編を勉強する方法もありますが、講師の撮影スタイルを押し付けるような写真教室はやめた方がいいです。

ディックも寫眞家として有名になったら、単発的な写真教室を開くのもいいかなと思ったりします。

※ 結構前に記載したブログですが、「趣味として写真をはじめてみましょう」(カテゴリーから選択してください。)もご覧ください。

 

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「いい写真」とは何か

2023年06月23日 | ディック スギの写真談義
「いい写真」ときいて、それが何を指すか、そのイメージは人によって違うだろうというのは想像に難くありません。
これはとても多義的な言葉です。

まず、「いい写真」は、「自分がいい写真と思うもの」というのが考えられます。
例えば、自分が撮った写真で、これは素晴らしいと思ったのが、いい写真だというのは、違和感はありません。「いい」というのは主観的なものなので、むしろ究極的にはこれかもしれません。

一方で、自分の考える「いい写真」を見た他者の思いも、「いい写真」を考える上で考慮する必要はないのかとの考えもあります。
撮った自分が、この写真は「いい」と思って、他人に見せても、見た人は、なんだこれ、とか何がいいのかさっぱり分からない、という感想を持つことは、ままあることではないかと思います。
これはディック自身もカメラ雑誌に掲載されている写真や写真展で展示されている写真を見ても、特段の感動も覚えないこともあります。また、写真コンテストの入賞作品を見ても、なんでこれが入賞したのだろうと思うものもあります。
こうしたことからも、自分の思いと他者が見た思いは、一致しないこともままあるのではないかと思います。

さて、ディックが考える「いい写真」とは、「撮影者だけでなく、その写真を見た多くの人が、それから何か心に響くもの(大変感動した、ずっと心に残る、何か考えさせられる)を得た写真」と考えています。
写真展での展示なら、多く人がその写真を少し時間をかけて見入る。また戻ってきて再度見るというような写真がいい写真に該当するのではないかと思います。

今後もディックが考えている「いい写真」を、できるだけ多く発信していきたいと考えています。

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Z世代に古いデジカメが人気に

2023年05月23日 | ディック スギの写真談義
日経新聞の22日(月)の朝刊に「旧型デジカメ、Z世代魅了 風合いやファッション性に脚光 中古流通、前年比6割増」という見出しの記事がありました。
この記事の内容自体は、以前に情報を得ていて知っていたのですが、写真に携わる者として目を引く記事でした。新聞で報道されることは、世間でも関心がもたれやすい事柄になっているのでしょうね。

この記事の柱は、今、10~20代の若者の間で、2000年代の古いデジカメが人気を集めているという内容で、その一つの要因が写真フィルムの高騰にあるというのが面白いところです。

デジタルカメラがメインになるとフィルムの需要は激減しましたが、その一方で、若者が写ルンですを中心に、フィルムカメラを使い出すようになりました。枚数に制限があり1枚1枚撮るところが若者には新鮮に映ったことや、デジタルカメラとは違った少々曖昧に見える写り(写りすぎない写り)や独特の発色が若者の心を掴んだようです。
また、フィルムカメラを構えて撮ること自体が、レトロでお洒落な感覚を若者は持っているのでしょうね。

ただ、最近の写真フィルムの高騰は驚きます。27枚撮りの「写ルンです」で、1700円以上かかります。それに現像、プリント代がかかるので、結構な額です。トータルで3500円から4000円はかかる計算です。ディックでもこれは高いです。

そこで、写りが今よりも緩い古いデジカメ(コンデジ)に向かうのが面白いです。これは、デジカメのメーカーの方が聞いたらガクッとくるところでしょうが、確かに今のデジカメのポテンシャルは、スマホの画面で見たり、Lサイズにプリントするだけなら、明らかにオーバースペックです。

フィルムカメラで写真を撮る楽しみを覚え、フィルムカメラの敷居が高くなったら、次に古いデジカメ(コンデジ)というのは、目の付けどころがいいというか、正常な流れというか、ディックもその感覚は分からないわけではないです(といってもディックはその境地にはいたりませんが。)。スマホでもういいやとならないことに好感を抱きます。

2000年台のデジカメだと、中古の値段も安く、あとはメディアを用意すれば撮れますからランニングコストは安いです。それは若者のニーズにも合致します。
これまでなら、二束三文で多くの古いデジカメが破棄への道を進んでいたところ、それを使う一定の需要が出てきたことは喜ばしいことかもしれません。



フィルムパトローネと子ブタちゃん
2018年9月撮影
今はほとんどフィルムカメラで撮影することはないので、フィルムパトローネも懐かしいです
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プロが使うプロ機

2023年02月19日 | ディック スギの写真談義
昨日のコンサートで、高嶋ちさ子さんが、自身がストラディバリウスを使う理由として、これを使うと必ずよい音を出してくれるという安心感があり、演奏に集中できるという話をされていたのが記憶に残りました。

「弘法筆を選ばず」とのことわざはありますが、名人こそ道具はこだわるものと思います(このことわざの持つ意味として、自分の技量の不足を道具の所為にしてはならないという戒めはそのとおりと思います。)。

カメラの世界でも、デジタルになって、プロが使うカメラは多岐にわたるようになりましたが、フィルムカメラの時代には、35mmフィルムを使うカメラは(ここでは、MF(マニュアル フォーカス)の例をあげます)、プロはニコンF、そしてキヤノンがプロ機を出すと、ニコンF2、F3、キャノンF-1、NewF-1を使うのが専らでした。

当時は、いわゆるプロ機というカテゴリーが明確でした。もろろんプロでもニコンならFM2,FE2、キャノンならA-1、T90も結構使われていたと推測しますが、あまり自慢されて話すことではなかったと思います。

プロがプロ機を使っていたのは、高い耐久性、故障が少ないという信頼性がメインの理由と考えられます。
ただ、プロの中でも使用頻度がけた外れに高く、撮影条件が厳しい場合は、プロ機を使う理由は分かるのですが、そのような使用条件ではないプロもいる訳です。故障を心配するのであれば、バックアップ機を持っていけばその心配は軽減されますね。

プロがプロ機を使う他の理由として、クライアントに対するハク付け(プロが普及機や他のメーカーのカメラや使っていては腕を疑われかねないとか、報酬に見合った仕事をしていることを裏付けるためともいわれていました。)というのもあるようです。
そして、冒頭の高嶋さんのコメントにつながるのですが、最高の機種を使えば、よい写真が撮れるという期待感が高まるとか、撮影時に雑念を生じさせない安心感があるとか、うまく撮影できなかったことをカメラのせいにできないという自身に対する自覚を高めるなどの精神的なものも結構大きかったのではと思います。特に写真は、カメラを介在とする芸術ですので、精神性がより影響するように感じます。

デジ一眼になっても、いわゆるプロ向けの最高機種は各メーカーとも出していますが、今はプロがそのような機種を使うのはマストということはないようです。
その理由としては、最高機種は値段が異様に高額なこと(プロは元がとれるかどうかというコスト意識がシビア)、その機種の全体的なスペックが高く、多くのプロにとってオーバースペックになっていることが考えられます(フィルム時代のプロ機は、堅牢面を特に重視しており、スペック的には保守的でした)。
また、昔のようなカメラのヒエラルキーも明確ではないため、そもそも「プロ=最高機種を使う」という雰囲気自体が薄れているということも影響しているのではないかと考えます。

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標準レンズを使うと写真はうまくなるか 【ディック スギの写真談義】 

2022年10月03日 | ディック スギの写真談義
(これは、180629に「ディック スギの写真談義」として掲載し、190806に「写真全般」のカテゴリーで一部修正して掲載。今回さらに一部修正したものを掲載します)

標準レンズは、35mmフィルムサイズでは焦点距離が50mm相当のレンズを指します

50mmのレンズがなぜ標準レンズになったかについては、諸説あります。
注視していない時に肉眼で視認できる視野に一番近いという説も有力ですが、ライカ社が35mmフィルムをカメラに採用した際に付けたレンズが50mmだったというのが、もっとも説得力がある説だとディックは思っています。
ちなみに35mmフィルムカメラの登場は、1913年にエルンスト・ライツ社の開発技術者のオスカー・バルナックが試作したのが始まり。50mm標準レンズの歴史は100年強ということになります。

フィルムカメラの時代は、ズームレンズに取って代わったその末期を除いて、一眼レフは50mmレンズ付きで購入するのが一般的でした(メインに使われる焦点距離のレンズだったので、標準レンズと呼ばれることになったのでしょうね)。。
カメラ自体が高級品で、一眼レフはレンズ交換ができるのに、まずは標準レンズ1本から写真を始めるということも珍しくなかったです。
ディックが中学の時に初めて一眼レフを購入した際には、しばらくは標準レンズ1本で撮影していました。

当時は、写真が上達するには、標準レンズを使いこなせるようにならないといけないということがノーマルな教えでした。
標準レンズのみを使っている人が多かった時代なので、その常用レンズでうまく撮りたいという需要も高かったでしょうし、そもそも標準レンズしかない状況では、これを使いこなさないと何ともならないといった状況もありました。
そして、時代が変わってズームレンズの使用がメインになりましたが、写真がうまくなるためには標準レンズを積極的に使うべしという教えを今もきくことがあります(最近は頻度は減ったと思いますが、忘れたころに標準レンズを使ってみようという特集がカメラ雑誌に登場します)。

標準レンズを使うと写真はうまくなるのか、という問いに対し、ディックは、標準レンズは写真の上達の目的のために使うものではないと考えています。
特に初心者の方が積極的に使うレンズではないです。

50mmの標準レンズを使ってみると、やや望遠系のレンズといった印象を持ちます。これは、ディックもそうですが、スナップなどで、より広角域を使う人は、よりそう感じるのではないでしょうか。
標準レンズは、広い範囲を撮ることは苦手ですし、かといって遠くのものは撮れません。よく言うと癖がないレンズであり、悪くいうと中途半端なレンズということになりますでしょうか。

そのため、多くの被写体は、より広角気味か、より望遠気味のレンズで撮った方が撮りやすいだろうと思います(標準ズームでも50mmの付近はあまり利用されていないという内容の文章を以前カメラ雑誌で読んだ記憶があります。)。それらのレンズの方が、狙った被写体をより楽に、自分の思ったとおりに表現できるということです。

標準レンズは癖がない分、使いこなしが難しいレンズだと思います。使いこなしが難しいということは、今や特殊なレンズのカテゴリーに入るのかもしれません。

交換レンズを揃えるのが難しかった時代は、標準レンズで広角的や望遠的に見せるといった、今となっては涙ぐましいと感じるようなテクニックが披露されていました。
人物を撮影する場合、手前に小道具を置き、絞りを開け気味に撮ると、前後のボケで望遠効果が表れる、レンズの最短距離に近づいて撮ると広角効果が生じるといった具合です。ただ、あくまで効果のレベルの話に過ぎません。

ポートレート撮影で名をはせたサンダー平山氏は、50mmレンズ一本で、広角や望遠が撮れる訳がない、工夫して撮れというのは竹やりで爆撃機に立ち向かうのと同じだというようなニュアンスの文章を書かれていて(出典を探しているのですが、現時点では不明です)、ディックもそのとおりと思ったのが記憶に残っています。

今は、求めた画角に合わせてズームレンズを使ったり、又は単焦点レンズを使うことが普通にできやすい環境にあります。
写真上達のために、あえて修行僧のような鍛錬をする必要はないのです。それを自分の意思以外で続けていたら、写真を撮るのが嫌になってしまいますね。

標準レンズは、ある程度写真が分かった段階で、あくまで興味があれば、使ってみるといいレンズだろうと思います。

写真とは関係のない話なのですが、標準レンズのことを考えていてふと頭をよぎったので紹介します。
ディックは少々法律をかじっているのですが、民法を学ぶ時に、最初に総則というのが出てきます。民法全般を理解するための前提の知識にもなっていますが、これが抽象的な内容が多く、とても分かりにくいです。ただ、民法の後の部分を一通り勉強した後に再度復習すると、より理解できる側面があるように思います。

50mmレンズもこれに近いところがあるのではないかと思います。いきなりこれを使いこなすのは相当難しいですが、写真をやって、レンズの画角の特徴が分かると、使えるようになる(使ってみたく)レンズ(このレンズに合った被写体が分かる)といっていいのではないかと思います。大人のレンズということですね。
ただ、ディックは今のところ、そういった境地には至っていません。




ボディ REVUE SOLAR100(リコーXR SOLARと同じカメラ)
レンズ REVUENON(レビューノン) 55mmf1.2  (リケノン55mmf1.2と同じレンズ)
※ 今(2022年)から20年強前に、ドイツに滞在していた時にこのセットで購入
※ コシナのOEM製品(1994年登場)、リコーにも同種のカメラとレンズがラインナップされていました.
※ REVUE はドイツの通販会社のカメラのブランド名

大口径標準レンズ(このクラスでは、f1.4よりも明るいレンズ)ですが、50mmでなく55mmになっています。一眼レフ用のレンズはミラーボックスがあるため、バックフォーカス(レンズ最後端から焦点(フィルム面)までの距離)を長くとる必要がありましたが、日本での一眼レフ黎明期の技術では、大口径でバックフォーカスの長い50mmレンズを作るのが難しかったため、焦点距離を伸ばしたとのこと。
そのため58mmの標準レンズが多く存在します。85mmは中望遠としてメジャーな焦点距離ですが、58mmときくと、そちらに近いような感覚がします。

ただ、1994年当時はもう50mmで大口径レンズを作ることは可能で、それが普通でしたが、あえてクラシックな焦点距離にしたようです(これでコストダウンがかなりできたのかどうかはわかりません)。



子ブタちゃんの記念撮影
ボディ KONICA FP(1960年)
レンズ HEXANON 52mmf1.8
※ 当時は一眼レフの標準レンズを50mmの焦点距離で作るのが難しかったため(50mmで作ろうとすると、よりコストがかかるということだと思います)、52mmという微妙に長い焦点距離になっています
〇 今(2022年)から4年前のころは、子ブタちゃんの記念撮影シリーズも手掛けていました。これで記念撮影は現実無理というシーンで撮影してしまうというのが、このシリーズの面白いところ。このシリーズも復活させたいです

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ズームレンズを使うと写真がうまくならないのか?【祝!ディック スギの写真談義 復活】

2022年10月02日 | ディック スギの写真談義
「ディック スギの写真談義」シリーズ。写真に関するいろいろな話題を、ディックの見解で忌憚なく記します。
リニューアル前(2019年4月以前)にこのシリーズは展開していました。当時の投稿を再録しつつ、新たな話題に切り込んでいきます。また、リニューアル後の投稿で、このシリーズにかなう過去の投稿はこのカテゴリーに入れていきます。


(これは、180510に「ディック スギの写真談義」として掲載し、190807に「写真全般」のカテゴリーで一部修正して掲載。今回さらに一部修正したものを掲載します)

ディックが写真を始めたころ(1970年代後半)は、当然ながらフィルムカメラの時代でした。
そして、一眼レフには単焦点レンズの使用が一般的であり、今からはとても信じられないことですが、ズームレンズは日陰者の扱いでした。

当時もズームレンズは出回っていましたが、写真を始めるにあたって、いきなりズームレンズを購入する人はほとんどいなかったと思います。
ディックも最初に一眼レフを購入した時は、ズームレンズを買おうなどどいう発想は全くありませんでした。
まずは50mmの単焦点レンズ(標準レンズと呼ばれていました。)を揃えるというのが当時は一般的で、カメラ店での価格表示も、標準レンズ付きのセットでいくらというのも普通に表示されていた記憶です。
ディックも1979年に初めて一眼レフを購入した際には(「ディック スギのカメラ遍歴(その1)」参照←カテゴリー欄から入ってください)、当然最初の1本は標準レンズという考えでした。
標準レンズは当時もっとも売れるレンズということもあって、普及版のレンズであれば値段も他のレンズと比べると安い設定でした。値段的にも揃えやすいという状況にありました。

その時代のズームレンズは、今ほど性能が高くないこともあって、特に周辺部分の解像度の劣化や被写体が直線なのにゆがんでしまう(樽型や糸巻型)状況が出やすく、カメラ雑誌やノウハウ本では単焦点レンズとの比較の画像を示して、画質の点から単焦点レンズを使うべきという話がよくされていました。
また、開放f値が暗いため、フィルム感度とのかねあいで(常用感度がISO(当時はASA)100が普通の時代だったので)、撮影対象が限られるという点(暗めのシーンは手持ち撮影が難しい、速度が速いものの撮影が難しいなど)や背景をボカした撮影も単焦点レンズに比べてボケないため限界がある、さらには、レンズ自体が重い(対象の焦点距離の数本分と考えれば、一概にそうとも言い切れないですが)というのもデメリットとされました。

これらの話(前段 性能面、後段 ズームレンズのそもそもの特質)は、当時では、そもそもズームレンズの使用が否定的という考えがベースにあるものの、ズームレンズの弱点としては一理あるものであったと思います。

でも、前者の性能面の話は、デジタルになって、PC上で等倍に拡大して、解像度が甘いとか論じているのと似ている面があります。
そもそもレンズの性能を判断するために作品を見るわけではなく、作品としてその写真がいいかどうかを見るべきであって、拡大した画面の一部を捉えて解像度が問題だとかいうのは、通常の写真の見方からすると違和感を覚えます(そうだとするともっと昔のカメラやフィルムの性能が現在と比べて今ひとつの時代の写真は、すべてダメな写真ということになってしまいます。)。
作品の鑑賞において、ズームレンズの性能のデメリットの面によって、作品の表現に問題をきたすため使えなかったというような例は、通常の撮影の分野では、当時でも少なかったのではないかと推察されます。

今はズームレンズの性能自体よくなり、画質も単焦点レンズと比べてほとんど遜色はありません。そのため、ズームレンズを使ったから、写りに問題があるという議論自体意味のないものになっています。
また、ズームレンズの開放f値が暗いという点も、標準ズーム(24-70mmなど)や望遠ズーム(70-200mmなど)では開放f値が通しで2.8のものもあり、単焦点との差があまりなくなってきています。
スナップであれば、もともと開放f値は暗くてもいいですが、人物のポートレート撮影を行うのであれば、全域f2.8のズームレンズがほしいところです。

ところで、今回の本題につながるところですが、ズームレンズを使うべきではないという主張にはそれらとは別の写真撮影の技術面に関係するものがあります。それは、ズームレンズを使うと写真の上達を阻害するというものです。
これも先ほどのズームレンズの性能の話と相まって、当時、盛んにカメラ雑誌等で書かれていました。また、ズームレンズがメインになった今でも、そのような話をされるプロの方も見受けられます。

ディックが写真を始めたころは、上記であげた理由(ズームレンズの性能面、ズームレンズのそもそもの特質(単焦点レンズと比べて開放f値が暗い、重い)、上達するための技術面)からズームレンズはよろしくないという風潮が写真界の主流であり、ズームレンズを使っているのは、必要性からあえて使っているプロを除けば、写真を分かっていない素人だというような雰囲気だったので、ディック少年も当然単焦点レンズを使うべしという考えが頭を支配していました。今から思うとズームレンズが性能以上に不当に低い扱いを受けていたと思います。

ちなみに、最初にカメラを買う人が標準レンズの代わりにズームレンズ付きを普通のこととして買うようになったのは、本格的なAF一眼の登場(ミノルタα7000が登場して1985年)の少し前くらいからと記憶しています。

話を戻して、ズームレンズを使うと写真がうまくならないとする理由は何かです。
そもそも撮影スタイルとして問題だという精神論的な面(特に単焦点を専ら使用していたプロからすると、ズームレンズの撮影はそもそもが安易で許しがたいという面もあったようです。)からの話もあったと思います。
それは置いておくとして、ディックの理解では、

ズームレンズを使うと、メインの被写体を相当な大きさに入れて撮影するために、フレーミングを、自身が動くのではなく、その場でズーミングして行いやすくなり、そのような撮影をしていると写真が上達しない
というものです。

レンズの焦点距離(画角)によって、写り自体が変わってくるのに、それを無視して、今いる場所からズームして撮ってしまうことがよろしくないということです。
レンズの焦点距離によって、写りが変わってくることはその通りです。例えば人物を撮影する際に、広角側で撮るか、望遠側で撮るかで、たとえ写る人物の大きさは同じでも写真の出来は大きく変わってきます(特に背景のボケ具合が異なるので、両者の写真は全く異なるものになります。)。
ズームレンズを使用していると、その点が理解できないから、そんなことをやっていては写真が上達しないという流れです。

ディックは、ズームレンズを使うと写真の上達を阻害するという説には懐疑的です。
ズームレンズを使っているということのみをもって、画角による写りの違いが理解できないから、安易な撮影にいたるということにはならないと考えます。そもそも画角の違いを理解することとズームレンズの使用は直接リンクしていません。
画角の違いは別途理解するば済むことですし、ズームレンズならではのメリットがあり、それを使いこなすことによって、写真は確実に上達すると考えます。

特に問題となるのは、写真を始めたばかりのビギナーの方です。
最初から単焦点レンズを使ったら写真の上達が早いのでしょうか。
ディックは、むしろズームレンズを積極的に使って、自身に興味あるシーンをたくさん撮ることが逆に写真の上達の近道ではないかと考えています。
画角による写りの違いについては、写真をやっていく上では理解した方がよいに決まっていますが、それはカメラを始めた最初である必要はありません。
撮影のバリエーションを豊かにするには、むしろズームレンズの方が適しています。単焦点レンズでは撮影の機会が極めて限定的になりますし、レンズ交換で対応しようと思っても、レンズ交換に頭を悩ましたり、レンズ交換しているうちにシャッターチャンスを逃すなど、初心者の方にはかえって敷居が高いです。
ズームして遠近いろいろな被写体をまず撮ってみる。いろいろなシーンが撮れるという写真の面白さを体験しているうちに、画角とかという話にも自然に興味を持てるのではないでしょうか。その方が自然な流れだと思います。
 
ズームレンズは、簡単に画角を変えて自由に撮影できることが利点なので、このメリットを活かして撮影すればいいのです。
また、もう少し近づきたいけど物理的に近づけない時もありますが、そうした時もズームレンズなら、きちんとしたフレーミングで撮影できます。
更に、微妙なフレーミングの調整をしたい時に、少し自分を前後することと、それをズームで行うこととで、作品の出来を阻害するようなことは起こりません。

ちなみに、ディックは、一眼(α7系列)では、FE24-240mmf3.5-6.3というレンズをよく使用しています。
開放f値の点はさておいて、広角域24mmからまずまずの望遠域である240mmまで、即座に焦点距離を変えることができ、大変重宝しています。
単焦点レンズだと、広角域のカメラで撮影している時に、望遠域での撮影をしたい場合には、レンズを変えるか、別のレンズを付けたカメラを用意して、カメラをチェンジする必要があります。また、被写体を大きく写したい時に、もう少し近寄りたいけど場所の制約で近寄れない時がままあります。その場合には、望遠側にズームすれば簡単に対応できます。
このように、ズームレンズを使用すると、より撮影の幅が広がるので、汎用的な使用(スナップ撮影が多いですが)ではズームレンズがディックにとって不可欠です。
コンデジでも高級路線では単焦点レンズのものもありますが、ズーム付きでないと撮影の制約が多すぎるため、メインで使用するカメラにはなりえません。もちろんディックも撮影対象によっては単焦点レンズも使用していますが、ディックにおいては、ズームレンズで撮影できる範囲がほとんどです。
 
ディックも、写真を始めたころにズームレンズを使っていたら、もっと写真を楽しめ、よりスキルも向上したのではないかと思ったりします。






ズームレンズは懐かしのタムロン80-210mm f3.8-4 (130A)(1981年~87年販売)

ディック少年も、当時は、ばりばりのズームレンズは否定派でしたが、全く興味がない訳ではありませんでした。当時鉄道写真をメインに撮っていたので、あると便利だろうなとは心の片隅に思っていました。
当時密かに注目していたのが、このタムロン80-210mm f3.8-4 (130A)です。
これが出始めのころ、まだ創刊間もなかったカメラ雑誌CAPA(創刊号は 1981年10月号)に、高校の写真部の紹介とともにこのレンズが紹介されていて、このレンズがまぶしく感じたことが今でも思い出されます。

マニュアル時代のタムロンは、マウント部分を交換して(アダプトール2という名称です)、ほとんどのカメラに使用できました。これもタムロンの売りでしたが、そもそもいろいろなメーカーのカメラを同時に使っている人はアマチュアでは少数派だったので、どの程度のメリットがあったかは不明です。ただ、複数のタムロンのレンズを持っていて、このマウントが一つあれば使い回しはできますが、これも面倒そうです。
当時ズームレンズの値段はそこそこしました(このレンズは当時52,000円、これに別売の自分のカメラにあうマウント(5000円)が必要)。ただ、買えるお金が当時あっても、やはり買わなかったでしょうね。

これは後年、ほぼジャンク扱いの値段で購入しました。当時メインの直進式ズーム(ピントリングを前後してズーミングするもの。今はほとんどズームリングが別にある回転式になっています。)で、被写界深度の色とりどりのラインや数字やアルファベットの独特の書体がおしゃれに感じたものです。
これはペンタックス用がついていたので、Eマウントのアダプターをかませてα7Ⅱにつけています。
撮影したのは、最初にブログに掲載した2018年5月なので、今(2022年)見ると当時活躍していたα7Ⅱは懐かしいです。



子ブタちゃんの記念撮影

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デジタルカメラの利点を改めて考えてみました

2020年07月25日 | ディック スギの写真談義
ディックはフィルムカメラからデジタルカメラに移行して久しく、今ではほとんどフィルムを使う機会がありません。
デジタルの良さは、自分のイメージする写真を撮ることが、フィルム時代と比べて手間をかけることなくできるようになったことです。
すぐに撮影結果を確認できるようになったことは、フィルム時代の撮影スタイルを大きく変えるものになりました。瞬時のスナップ(これは何ともなりませんね)のような一発的な要素があるもの以外は、再生画面を見てイメージと異なっていれば、再度撮ればいいわけですから。撮影結果はすぐに分かった方が、完成度が高い作品を作りやすくなります。

露出の設定にある程度幅を持たせることができることも、ありがたいことです。これはフィルムだとネガカラーに近い点です。ポジフィルム使用の際は厳格な露出が求められ、露出ミスは救えませんでした。これから解放されたことは露出で泣くという失敗の減少につながりました。

ホワイトバランスが自由に調整できることは、フィルム時代では考えられなかったことです。マルチフィルターをそもそも搭載しているのと同様の効果があるので、表現の幅が広がりました。

ISOが高感度でも普通に使えるというのもありがたいです。ディックはこれで、三脚をほとんど使わなくなりました。

ディックは、こうしたデジタルの利点はありがたく利用しています。

写真をやっている方の中には、デジタルによって、フィルム時代と比べて撮影に手間がかからなくなったことについて、前向きにとらえらない、または抵抗感がある方もいるようです。良い作品は手間をかけてこそ生まれるという考えです。
この時代でもフィルムじゃないといけないとか、デジタルでも、撮影後に再生画面をすぐに確認するのは邪道とか、低感度にこだわって三脚を使わないといけないとか、そういった流れのものです。

別にディックはこういった考え方を否定している訳ではありません。
写真は、カメラという機械を介在する芸術の中では独特な存在です。そのため、作品の出来に精神性がより強く発揮されることがあると考えています。それは自分の撮影スタイルに対するこだわりということです。
だた、作品は過程ではなく結果です。手間がかからず自分のイメージする作品ができればそれにこしたことはないとディックは考えます。自分のこだわりで自分を縛りすぎることは作品の幅を狭くすることにつながりかねません。

自分の中でこだわるのは大いに結構ですが、注意すべきは、そのこだわりを一般的なものとして他の方にも押し付けることは控えるべきです。
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