前回、ディックには、興味を持ったものが多くあり、その一部は趣味になっていったという話を取り上げました。今回はそれにも関連する話です。
社会人になって、結構経った後に、自分に足りないなと思ったことは、自分には尖ったものがないということでした。
ここでいう尖ったものとは、突き詰めて頭一つ出た状況のものという意味です。
それ以降、それは頭の片隅にずっと居続けることになりました。
例えば、勉学の分野でも、ディックは、ある程度平均的に各科目はできたのですが、社会科では地理や政経の分野は好きだったものの、ずば抜けてできるというレベルまでいきませんでした(ただ、平均的にできるということは、大学の共通一次試験で選択した科目には、逆にできないものはなかったので、こうした面には好都合なことはありました)。
それは趣味の分野でも同じことが言えました、楽しみながら知識や技能も増していくのですが、尖った状態までにはいかなかったのです。
例えば、テレビ朝日系列の「博士ちゃん」という番組では、趣味の領域の尖った小学生が出てきますが(この年でこの深化した状態はすごいと思います。)、自分にはそういったものがないという、もやもや感を抱いた後には、これでいいのかという思いを持ち続けることになりました。
そして、後々のことになりますが、尖ったものになりそうな候補の一番手に上り詰めていったのが写真でした。
写真は趣味として中学生からやってきて、カメラ雑誌も読み、技術も一定程度ついてきてはいました。ただ、自分の枠内から飛び出すため(自分の写真が認められたいという意思がベースにあります)、カメラ雑誌のコンテストに関心を持って、応募しても入選を果たすには至らず、写真も自分の枠内にとどまっている状況が続きました。
ただ、社会人になってある程度のところまでは、楽しめればいいという気分だったので、これ以上の進展は難しかった面はあっただろうと今は思います(もし、盛り上がった状態が大学生のころにあれば、その時点で職業写真家の道に進んでいたと思います。)。
写真が、趣味の枠内でも盛り上がりを見せたのは。一眼レフがAFがメインになりつつある時期で、ディックも導入した(ミノルタのα7700iです!)1989年(平成元年)以降です。
ただ、カメラ雑誌の写真コンテストには応募しても、まだ入選は難しい状況でした。
そうした中で、ディックも取っていたとある業界誌で写真コンテストを毎月やっており、1995年(平成7年)ころからそれにも応募するようになりました。こちらは、カメラ雑誌ほどレベルが高くないので、カメラ雑誌のコンテストに応募して落選したものをセレクトして応募すると、ちょいちょい入選しました。
やはり入選して、その写真が掲載され、選者のコメントをいただくとうれしくなりますし、励みになります。
そうこうしているうちに、CAPAの写真コンテストで、予選のいいところまで何号か続いて残るようになったことがありました。入選までもう少しかなという予感がその時したのですが、その直後の1997年(平成9年)6月号で入選に至りました。この時は少々認められた感じがしてうれしかったです。
当時は選者が秋山亮二さんで、その後も何点か入選を果たしました。この流れで1998年(平成10年)9月号で1席に選んでいただいたときは、天にも昇った気持ちで本当にうれしかったです。
これは1999年までチャレンジしていましたが、この年、ドイツに1年行く機会があり、コンテストの応募は中断となり、帰国後も遠ざかってしまいました。
再開したのは、フィルムからデジタルに移行した後の2009年(平成21年)。久しぶりにCAPAに応募してみようとふと思い立ち、応募したらそれがいきなり入選しました。この時の選者はハービー・山口さんです。それでいい気持ちになりました。
それ以降、また毎月応募するようになり、結構ちょくちょく入選するようになって、これが自信につながりました。
コンテストの入選は、写真に対するモチベーションを上げました。そうすると、いい写真は何かをより考えるようになり、撮影時の視点や撮影した写真を見る目が養われたことは間違いありません。まさにプラスのスパイラルが働いたのです。
また、フィルム時代はポジフィルムを使っていたので、撮影後のトリミングなどでの見直しはほぼ不可能だったのですが、デジタルになって、トリミングを含めた加工も結構フレキシブルにできるようになり、それがディックの写真の完成度を高めることになったと考えています。
こうして、写真熱は相当な盛り上がりを見せるようになりました。
CAPAの写真コンテストの後半の応募の時期に4回1席に選ばれたことは、ディックにとってとても大きな自信になりました。自分の写真が自分の枠内を超えて通用するという確信が芽生えたのでした。こうした自信をつけさせていただいた選者のハービー・山口さんにはとても感謝しています(※ ハービー・山口さんが担当されていた、CAPA写真コンテスト「スナップの部」の選者は、2022年12月号をもって終了となりました。)。
CAPAの写真コンテストは、2017年(平成29年)3月に寫眞家となって自主卒業するまでに、トータルで(選者が秋山亮二さん(「チャレンジの部」)とハービー・山口さん(「スナップの部」)の両方の時代を含め。また選者が別の「生き物の部」での入選も含め)、1席5回 2席1回 3席1回 入選(佳作)27回という結果になりました。
こうした過程で、写真が自分の突き抜けるものになるという確信を得て、寫眞家宣言に至りました。
やっと自分にも突き抜けるものができてきたということはとてもうれしいことでした。これまでのもやもやがはれた感じがしました。
なので、写真の分野は今後も大切にしていきたいと考えています。あとは、寫眞家として安定的な収入を得ることが最大の目標となっています。

「夏2010」(CAPA 2010年12月号掲載。入選)
CAPAの写真コンテストで入選した写真の中で、特に気にいっている写真の一つ
選者の「ハービー・山口」さんのコメントは次のとおり
「つい見逃してしまいそうな都会の日常ですが、興味の尽きない1枚です。画面右に約半分白い壁を写し込んでいて、作画のセンスが素晴らしいと思います。はがれかかったポスターを意識したところなど、作者の非凡な才能を感じます。撮れそうで撮れそうにない作品です。」
恐縮してしまうくらい、うれしいコメントをいただきました。
この写真では、はがれかったポスターが主題ですが、画面右半分の壁は意識的に入れたので、これに着眼して(ディックの撮影の意図と同じ着眼点を持って)評価いただいたことで、とても自信がついたことは今も明確に覚えています。
ハービー・山口さんは、撮影者のモチベーションが上がるとても暖かなコメントを書いてくださいました。ディックも半ば乗せられて、CAPAの写真コンテストに毎月応募しました。ディックを寫眞家になろうと決意するまでに育ててくれたのは、CAPAの写真コンテストの影響力が大きいです。
📸【無断転載禁止です(Unauthorized reproduction prohibited.)】📸
社会人になって、結構経った後に、自分に足りないなと思ったことは、自分には尖ったものがないということでした。
ここでいう尖ったものとは、突き詰めて頭一つ出た状況のものという意味です。
それ以降、それは頭の片隅にずっと居続けることになりました。
例えば、勉学の分野でも、ディックは、ある程度平均的に各科目はできたのですが、社会科では地理や政経の分野は好きだったものの、ずば抜けてできるというレベルまでいきませんでした(ただ、平均的にできるということは、大学の共通一次試験で選択した科目には、逆にできないものはなかったので、こうした面には好都合なことはありました)。
それは趣味の分野でも同じことが言えました、楽しみながら知識や技能も増していくのですが、尖った状態までにはいかなかったのです。
例えば、テレビ朝日系列の「博士ちゃん」という番組では、趣味の領域の尖った小学生が出てきますが(この年でこの深化した状態はすごいと思います。)、自分にはそういったものがないという、もやもや感を抱いた後には、これでいいのかという思いを持ち続けることになりました。
そして、後々のことになりますが、尖ったものになりそうな候補の一番手に上り詰めていったのが写真でした。
写真は趣味として中学生からやってきて、カメラ雑誌も読み、技術も一定程度ついてきてはいました。ただ、自分の枠内から飛び出すため(自分の写真が認められたいという意思がベースにあります)、カメラ雑誌のコンテストに関心を持って、応募しても入選を果たすには至らず、写真も自分の枠内にとどまっている状況が続きました。
ただ、社会人になってある程度のところまでは、楽しめればいいという気分だったので、これ以上の進展は難しかった面はあっただろうと今は思います(もし、盛り上がった状態が大学生のころにあれば、その時点で職業写真家の道に進んでいたと思います。)。
写真が、趣味の枠内でも盛り上がりを見せたのは。一眼レフがAFがメインになりつつある時期で、ディックも導入した(ミノルタのα7700iです!)1989年(平成元年)以降です。
ただ、カメラ雑誌の写真コンテストには応募しても、まだ入選は難しい状況でした。
そうした中で、ディックも取っていたとある業界誌で写真コンテストを毎月やっており、1995年(平成7年)ころからそれにも応募するようになりました。こちらは、カメラ雑誌ほどレベルが高くないので、カメラ雑誌のコンテストに応募して落選したものをセレクトして応募すると、ちょいちょい入選しました。
やはり入選して、その写真が掲載され、選者のコメントをいただくとうれしくなりますし、励みになります。
そうこうしているうちに、CAPAの写真コンテストで、予選のいいところまで何号か続いて残るようになったことがありました。入選までもう少しかなという予感がその時したのですが、その直後の1997年(平成9年)6月号で入選に至りました。この時は少々認められた感じがしてうれしかったです。
当時は選者が秋山亮二さんで、その後も何点か入選を果たしました。この流れで1998年(平成10年)9月号で1席に選んでいただいたときは、天にも昇った気持ちで本当にうれしかったです。
これは1999年までチャレンジしていましたが、この年、ドイツに1年行く機会があり、コンテストの応募は中断となり、帰国後も遠ざかってしまいました。
再開したのは、フィルムからデジタルに移行した後の2009年(平成21年)。久しぶりにCAPAに応募してみようとふと思い立ち、応募したらそれがいきなり入選しました。この時の選者はハービー・山口さんです。それでいい気持ちになりました。
それ以降、また毎月応募するようになり、結構ちょくちょく入選するようになって、これが自信につながりました。
コンテストの入選は、写真に対するモチベーションを上げました。そうすると、いい写真は何かをより考えるようになり、撮影時の視点や撮影した写真を見る目が養われたことは間違いありません。まさにプラスのスパイラルが働いたのです。
また、フィルム時代はポジフィルムを使っていたので、撮影後のトリミングなどでの見直しはほぼ不可能だったのですが、デジタルになって、トリミングを含めた加工も結構フレキシブルにできるようになり、それがディックの写真の完成度を高めることになったと考えています。
こうして、写真熱は相当な盛り上がりを見せるようになりました。
CAPAの写真コンテストの後半の応募の時期に4回1席に選ばれたことは、ディックにとってとても大きな自信になりました。自分の写真が自分の枠内を超えて通用するという確信が芽生えたのでした。こうした自信をつけさせていただいた選者のハービー・山口さんにはとても感謝しています(※ ハービー・山口さんが担当されていた、CAPA写真コンテスト「スナップの部」の選者は、2022年12月号をもって終了となりました。)。
CAPAの写真コンテストは、2017年(平成29年)3月に寫眞家となって自主卒業するまでに、トータルで(選者が秋山亮二さん(「チャレンジの部」)とハービー・山口さん(「スナップの部」)の両方の時代を含め。また選者が別の「生き物の部」での入選も含め)、1席5回 2席1回 3席1回 入選(佳作)27回という結果になりました。
こうした過程で、写真が自分の突き抜けるものになるという確信を得て、寫眞家宣言に至りました。
やっと自分にも突き抜けるものができてきたということはとてもうれしいことでした。これまでのもやもやがはれた感じがしました。
なので、写真の分野は今後も大切にしていきたいと考えています。あとは、寫眞家として安定的な収入を得ることが最大の目標となっています。

「夏2010」(CAPA 2010年12月号掲載。入選)
CAPAの写真コンテストで入選した写真の中で、特に気にいっている写真の一つ
選者の「ハービー・山口」さんのコメントは次のとおり
「つい見逃してしまいそうな都会の日常ですが、興味の尽きない1枚です。画面右に約半分白い壁を写し込んでいて、作画のセンスが素晴らしいと思います。はがれかかったポスターを意識したところなど、作者の非凡な才能を感じます。撮れそうで撮れそうにない作品です。」
恐縮してしまうくらい、うれしいコメントをいただきました。
この写真では、はがれかったポスターが主題ですが、画面右半分の壁は意識的に入れたので、これに着眼して(ディックの撮影の意図と同じ着眼点を持って)評価いただいたことで、とても自信がついたことは今も明確に覚えています。
ハービー・山口さんは、撮影者のモチベーションが上がるとても暖かなコメントを書いてくださいました。ディックも半ば乗せられて、CAPAの写真コンテストに毎月応募しました。ディックを寫眞家になろうと決意するまでに育ててくれたのは、CAPAの写真コンテストの影響力が大きいです。
📸【無断転載禁止です(Unauthorized reproduction prohibited.)】📸