上原正稔日記

ドキュメンタリー作家の上原正稔(しょうねん)が綴る日記です。
この日記はドキュメンタリーでフィクションではありません。

暗闇から生還したウチナーンチュ 2

2013-04-12 09:17:41 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

前回の続き

~我如古の井戸編~ 2

 比嘉ツル子さんに案内されて筆者と新城良一さんは我如古のに入った。比嘉さんの自宅からほんの二、三キロ離れているだけだったが、比嘉さんは六十年ぶりどのことだった。

 我如古公民館に車を預けて、僕らは歩き始めた。だが、フィルムで見た我如古の景観はなかった。すべてが変わってしまっていた。比嘉さんはあの井戸の場所が分からず、戸惑っていた。狭い通路を行きつ戻りつしている内に、比嘉さんの表情が真剣になり、子供のように足早に歩き始めた。いつも四拍子で歩いている筆者はどんどん離されてゆく。比嘉さんの目には誰のことも入らない。あのころの自分の世界に入ったのだ。
 それでも井戸は見つからない。ある屋敷の後ろで僕らがウロウロしている姿を見た家主がどうしたのか尋ねてきた。説明すると、「この屋敷の井戸かもしれないね」と言った。その人が呉屋盛一さんだった。呉屋さんは大きな駐車場に案内し、「ここですよ」と言った。そこには大きな鉄板が置かれていた。石囲いは壊してしまったそうだ。鉄板を外すと、そこには底が見えない井戸がぽっかり口を開けていた。比嘉さんは顔を上気させ、言葉を詰まらせて、うなずいた。とうとう「井戸」を見つけたのだ。
 呉屋さんの説明では井戸の底には東西約二百メートルの自然洞窟が横に延びているということだ。これで二つの謎が解明された。井戸の底から二十数人の住民が次々、姿を見せるフィルムを見て、井戸の底はどうなっているのか、想像がつかなかったからだ。そして、宜野湾市文化課が調査した洞窟の図面はこの井戸を示していたのだと気がついた。筆者はすぐに山里孫存ディレクターに電話した。「やったぞ。井戸を見つけたぞ。後は君の出番だ」
 数日後、山里さんはすべてをテキパキ手配して、テレビ・クルーを伴って取材に向かった。筆者もついて行くことになった。取材現場の井戸の入り口には呉屋盛一さんとご家族が迎えてくれた。呉屋さんは井戸にはしごを下ろし、電線を延ばし、先頭に立ち、取材クルーを奥で待っている。照明係の金城さんが取材クルーの先頭を切り、いつも重たいカメラを担ぎ、肩が右に傾いてしまったカメラマンの赤嶺さんが続く。
 筆者がはしごを降りると、底には水がたまっている。やはり井戸だ。だが、呉屋さんが張り出してくれた横板の先に大きな口を開けた洞窟が続いた。洞窟の奥は照明が届かず、真っ暗だ。横二、三メートル、縦一メートル足らずの空間だから、体をかがめながら進む。筆者の後から来る山里さんと顔を見合わせ、溜息をつく。 「よくもこんな暗黒の世界に二カ月近くも潜んでいられたものだ。大したものだ。世間にはイヤなことも多いが、太陽の下が一番だね。さあ、戻ろうか」。僕らは深くて暗い井戸の底から再び太陽の下に出た。身体は泥だらけになっている。気分はほっとする。だが、戦争の時、救出された者たちの気持ちが分かるはずもない。僕らはわずか一時間足らず洞窟にいただけだ。この井戸の奥の洞窟には老人だけではなく、物心もつかない子供たちもいた。いや、物心もつかないと言っては失礼だろう。子どもたちは外界で何が起きているか、よく知っていた。だから、二カ月間も暗黒の世界にいられたのだ。つまらない物欲に振り回されている現代の大人たちの方が物心がついていないのだ。
 井戸の外に出ると、一人の老人が静かに微笑を浮かべて立っていた。ピンときた。フィルムの中で井戸から住民を救出したあの白いハットの"青年"だ。その人がやはり宮城盛英さんだった。そして宮城さんのそばに立っていたのは、比嘉さんと一緒に井戸から救出された仲宗根千代さんだった。

「あなたは私の命の恩人よ」と宮城盛英さん(左)に抱きつく仲宗根千代さん(呉屋盛一さん宅の井戸のそば)

つづく


沖縄をダメにした百人 47

2013-04-11 09:36:19 | 沖縄をダメにした百人

前回の続き

~1フィート運動騒動記~ 20-13

 「未来への墓標」という嘘とゴマカシに満ちた記念誌を閉じる前に、この記念誌に寄稿した人々の氏名を全て挙げておく。 彼らは嘘を嘘と知りながら書いた者もおれば、嘘を嘘と知らずに書いた者もいる。 いづれも1フィート運動をダメにし、沖縄をダメにした者たちだ。 1フィート運動は無惨に壊れた。 しかしその復活を企んでいる者もいる。 とりあえず2013年3月15日を1フィート運動強制集団死の日と受け止めて、ご冥福を祈ろう。

(順不同)

福地曠昭、大田昌秀、中村文子、真栄里泰山、中村節子、大山哲、新崎盛暉、宮城孝子、石原絹子、石川元平、石原昌家、西野浩史、安良城米子、謝名元慶福、山根安昇、まよなかしんや、川端光善、安仁屋政昭、我謝幸男、渡久地昇永、比嘉宏、大浜敏夫、宮城千恵、桑江テル子、田井等啓子、久場千恵、西岡信之、宇根悦子、宇治原睦恵、上地完道、愛川直人、柴田昌平、中松昌次、嶋津与志、大城将保。

編集委員

委員長 石川元平

事務局長 大山哲

委員 山根安昇安仁屋政昭宮城孝子真栄里泰山

題字 大田昌秀

 

合掌


暗闇から生還したウチナーンチュ 1

2013-04-11 09:24:49 | 暗闇から生還したウチナーンチュ

~我如古の井戸編~ 1

 ぼくはいつも「戦争とは人間が試される究極の舞台だ」ということを念頭に置いて戦争の物語を伝えている。 そして「最も醜いはずの戦争」の中にこそ最も美しい人間の物語が秘められているのだ。 今、琉球新報や沖縄タイムスが腐れ切った中で真実を告げるという戦いのど真ん中で「真実を告げる」という作家の真価が問われている。そして、ぼくは恐れることもなく、勇気を持って戦っている。 いつか、いや、まもなく、ぼくの物語は最も美しい物語の一つとして歴史の中に刻まれることになるだろう。

 読者のほとんどはぼくのこうした物語を読んだことがないはずだから、ここでぼくのことを知ってもらうためにもこれまで発表した「戦争の中の人間の物語」を伝えることにしよう。 では、ぼくが2006年12月20日から28日に琉球新報で発表した物語を紹介しよう。

 二〇〇四年六月、筆者は沖縄県平和祈念質料館の島袋記美子館長から依頼を受けて一本の戦争映画を作った。 資料館が保存している二百五十本余の沖縄戦フィルムから四十本ほどのフィルムを選び、台本を用意した。 映像編集を担当したのが映像の魔術師と評判の高い沖縄テレビのディレクター山里孫存さんだった。 「そしてぼくらは生き残った」と題された作品はこれまでの「悲惨な戦争の哀れな生き残り」という既成概念を打ち破るものだった。 生き残った優しくたくましいウチナーンチュの姿を伝える「人間賛歌」だった。 だが、これから語ろうとしているのはその映画のことではない。 その映画の一シーンのことだ。 暗く深い井戸の底に一人の白いハットの青年が降りて行き、子供、娘、母親、老人らが次々、つるべにしがみつき、引き揚げられる。 目が離せない印象的な場面が続く。映画に詳しくなくても見事な、映像だということはわかる。 彼らは一体、どこの誰だろうか。そもそも、この井戸はどこにあるのか。 島袋さんも山里さんも、もちろん筆者も、この井戸の場所を探し当て、救出された人々に巡り合いたい、という気持ちがふつふつとわいてきた。
 その年の慰霊の日に資料館で映画が上映されたが、「井戸」の情報は皆無だった。 それでも、必ず見つかるはずだ、という確信は揺るがない。 三人の思いは執念となった。 救出シーンの映像には一九四五年五月十二日の日付と第77歩兵師団という記述がある。
 山里さんはこのフィルムに映っている通訳が新着の慶留間島上陸のフィルムにも登場していることに気がついた。 慶留間に上陸したのは第77師団だから救出シーンのフィルムが第77師団の撮影班の手によるものであることは間違いない。 五月十二日の時点で第77師団は首里の北側に近づいている。 撮影隊は前線の後方にいるから宜野湾あたりだろう、とおよその見当がつく。
 山里さんと一緒に宜野湾市役所文化課に出かけ、問い合わせたが、確たる情報は得られない。 井戸は無数にあるのだ。 その時には重要だと思わなかったが、文化課の人が一枚の図面を提供してくれた。 我如古内の洞窟の調査図面だった。 だが、僕らが探しているのは、井戸であって洞窟ではない。 その時はそう思った。
 一方、島袋さんは誰よりも核心に近づいていた。 映画を見た知人から、救出された少女の一人は比嘉ツル子さんと言い、宜野湾市に住んでいるという重要情報だった。 だが、比嘉さんは取材を拒んでいるという。 さらに、井戸から住民を救出した白いハットの青年は宮城盛英さんだ、ということを聞き、島袋さんは一人で宜野湾市我如古に出かけ、本人にビデオを見せたが、白いハットの青年は自分ではない、白いハットなどかぶったことはない、と告げた、ということだ。
 島袋さんはこれではどうしようもない、とあきらめ顔だ。 だが、ウチナーンチュ気質を誰よりも知っていると自負している筆者は確信した。 宮城盛英さんが白いハットの青年だ。 そして、比嘉ツル子さんも必ず、取材に応じてくれる はずだ。 山里ディレクターに連絡して、取材の準備をさせた。 ところが比嘉さんに電話するとテレビ取材はイヤだ、というのだ。 だが、筆者だけなら会ってもよい、との返事を得て、やむなく山里さんとテレビ・クルーを置き去りにして、大琉球の英語文献すべてを収集している新城良一さんの車で宜野湾市に向かった。 比嘉ツル子さんは会って話をするうちに、目が輝き出し、我如古の井戸へ案内しようと言った。だが、戦後一度も井戸を訪ねたことはない、という。

60年前の自分の姿を画面に発見して感動する比嘉ツル子さん

深い井戸から救出された可愛い少女は比嘉ツル子さん(1945年5月12日宜野湾我如古)

つづく


沖縄をダメにした百人 46

2013-04-10 09:16:52 | 沖縄をダメにした百人

前回の続き

~1フィート運動騒動記~ 20-12

 2004年3月1フィート運動事務局に連絡が入った。 講談社から中村文子の「平和運動の姿に感銘した」真鍋和子が「命の重さを伝えたい」という本を著わし、同時に吉川栄治文化賞を授与されたというのだ。 ぼくは「また、無知な出版社が賞を与えて、どうするつもりだ」と不快感を覚えた。 後で図書館で「命の重さを伝えたい」に目を通した。 案の定、真相とは程遠い嘘八百を並べた内容だった。それをそのまま紹介しよう。

八〇年代に入り、アメリカへ交換留学した人たちの調査によって、アメリカ国立公文書館に、沖縄戦を撮影した実写フィルムがたくさん保管されていることがわかりました。「このフィルムを私たちが買い取り、全県民の財産にしようではないか。」「なるほど
、それはいい考えだ。原爆を投下された広島では、一〇フィート運動が進んでいるそうだ。原爆で破壊された町のようすをアメリカ軍が写しているんだが、そのフィルムを、一〇フィート一〇〇〇円で買い取ろうという運動だ。」「沖縄県は全県民が戦争被害者
であり、遺族だ。沖縄戦で死んだ人たちと全くかかわりのない人なんていない。親戚だったり、知人、同級生、教え子だったり、とにかくみんな犠牲者とかかわりがある。沖縄は、一〇〇円にしよう。一〇〇円だったら、だれにとっても、身近になる。一〇〇円
で一フィートのフィルムを買い取ろう。」
 八〇年代になると、戦争体験は遠くなり、忘れられようとしていました。テレビや新聞でも、八月十五日の終戦記念日には「戦争はすでに風化」などと言われていました。沖縄でも、戦後世代が多くなり、沖縄戦が何年何月に始まったのか、いつ終わったのか
、どういう戦争だったのか、知らない人たちがふえていたのです。「沖縄戦を経験したわれわれは、どんな戦争だったのか、沖縄戦を知らない世代や子どもたちに伝えていく義務がある。」
 沖縄戦を体験し、戦争にこだわりつづけ、戦後も平和を問いつづけてきた人たちが動きはじめました。そして、沖縄戦のさなかにアメリカ軍が撮影した沖縄戦の実写フィルムを、県民の力で買い取ろうと呼びかけたのです。「いま、世界は戦争への道をたどり
つつある。一フィートは短いが、ひとりひとりの力を合わせると、平和を築く大きな力になる。」
 琉球大学名誉教授の仲宗根政善さんは、くり返しいいました。」
 …
中略
 …
 中村さんは、当時を思いだしながら、赤い表紙の『一フィート運動十周年記念誌』を見せてくれました。「沖縄戦の真実を、一フィート一〇〇円で永遠に語り継ごう。」
 仲宗根政善さんが代表になり、フィルムを購入するための募金活動が始められました。
 この呼びかけに、沖縄県内ばかりでなく、本土の人々にも共感の輪が広がっていきます。「県民の反応はすごかったですよ。貯金箱ごと募金した子どもがいました。ある老夫婦は、ビニール袋いっぱいのカンパを持ってきたり、名まえも言わずに、一〇万円を
置いて帰っていく人もいましたよ。後から追いかけていって、『せめてお名まえをお聞かせください。』と言うと、『長いあいだ、思いつめていたことですから、けっこうです。』とキッパリ言われました。」
 中村さんは目を細めて、会が誕生したころに思いをはせています。 ほとんど語られなかった戦争体験。でも、それはあまりにも悲しすぎたためでした。決して忘れたわけではなかったのです。親、兄弟、親戚たちが、いまだに、どのように死んだのかわからず
、その場所さえもつかめないという現実。遺骨すらもひろえないという苦しみのなかで人々は生きてきました。
 そんななかでも、死者たちの無念の思いを、いつかは語り継いでいかなければ、という痛いほどの思いは、人々の心の奥に、しっかりと抱かれていました。そのこころざしと、一フィート運動の会の呼びかけがようやくつながったのです。
 「一フィート運動の会は、ですから、ひとりの力でできたものではありません。全県民が会員みたいなものです。一フィートずつ、フィルムを買い取っていこうというこの運動は、国からも県からもいっさいの援助を受けないで、沖縄県民をはじめ、日本じゅ
うの人たちからの寄付だけで推し進めてきました。そのために、国民的な運動、草の根の運動となったのです。
 …
中略
 …
  一九八四(昭和五十九)年五月一日に、アメリカ国立公文書館から一二本の沖縄戦未公開フィルムが事務局に到着しました。長さにして九六〇〇フィートです。いずれも保存状態がよく、那覇飛行場が破壊される場面や、日本兵の降伏するようす、戦災孤児を治
療するアメリカ兵などのシーンがあり、四十年前の戦争を生々しく伝えています。
 ところが、買い取ったフィルムというのは、音声は出ない、白黒のラッシュフィルムです。北部のシーンがあったと思ったら、すぐにそのあと、南部を撮影したものなど、だれもがわかりやすいというものではありませんでした。「解説が必要だが、とにかく
、大勢の人たちの力で購入したフィルムだ。すぐに上映会をやろう。」
一九八四年五月十六日、那覇市民会館大ホールで、到着したすべてのフィルムを一気に公開する上映会を催しました。
 真っ暗ななかでフィルムが回りはじめると、会場は水をうったように静まりかえり、かすかにセキの音がひびくだけです。むごたらしい場面には、思わずどよめきが起こり、約三時間、だれひとり席を立つ人はいませんでした。

 ぼくのブログを読んでいる読者はこれがどうしようもない本であることを既に知っているはずだ。

 ぼくは講談社の野間佐和子社長と著者の真鍋和子に事実を簡単に記した抗議の手紙を出した。 二人から返事はなく、出版社の得意技知らんふり」で通している。 だが、この本の再販はなかったことを記しておこう。

つづく


沖縄をダメにした百人 45

2013-04-09 09:48:54 | 沖縄をダメにした百人

前回の続き

~1フィート運動騒動記~ 20-11

 「未来への墓標」のもう一人の編集委員が真栄里泰山だ。 この男も大田昌秀福地曠昭石川元平まよなかしんやに負けず劣らずの良心のマヒした「嘘つき」だ。 編集委員の特権を活かして4つの論説を載せて、「オレはエラいんだ」と威張り腐っている。

 「初代事務局長の外間政彰さん」というタイトルのユクシ(嘘)はオモシロク読ませてもらった。 

外間さんが那覇市立図書館長の定年を迎える頃、沖縄戦フィルムを沖縄で購入する運動をしようとの話が持ち上がり、その事務局長人事の相談があったわけです。 その頃、琉球大学の我部政男さんから当時那覇市編集担当だった私に相談がきたわけです。 即座にこれは外間さん以外に適任者はいないということで一致し、外間さんの事務局長就任を前提に、1フィート運動の会が1983年12月8日発表することになったわけです。」

といかにも自分が主導して1フィート運動を創ったようなことを言っている。

 上原正稔が組織の全てを決定したのであり、事務局長は上原ただ一人であり、後は大泥棒軍団にすぎないことを指摘しておこう。 真栄里沖縄大学の理事であり、共産党員だ。 こういった腐り切った男が沖縄をダメにしたのだ。

 上原正稔が創り上げ、奪われたことについては一言も述べず、全く無関係の男が平気で嘘を並べて、「知識人ぶる」。 ぞっとするばかりだ。 ぞっとする怪談の続きの中で詳しいことを述べることにして、真栄里泰山の嘘とハッタリの世界を覗いてみよう。

 彼は全く英語も話せず、アメリカ公文書館に1991年に訪ね、フィルム調査したことを延々と語り、戻ってきたらアメリカについて全てを知ったようなことを書いている。

 「1フィート運動騒動記 20-1」で指摘したが、3月14日の沖縄タイムス社会面は1984年5月16日の那覇市民会館ホールを埋め尽くした観衆の写真を大きく載せ、次のように報じた。

「歴史研究者有志が沖縄戦を考える会を結成した頃、”アメリカ公文書館に沖縄戦のフィルムがある”との情報が入り、『考える会』の真栄里泰山さん(68)は映像を有志で集めよう。 と1フィートの会を1983年に結成し、翌年がフィルムが届き、初の上映会が開かれた、と語る。」

と報じている。

 さらに3月16日の琉球新報

「1983年の会発足後、初の上映会で映像解説した理事真栄里泰山さんは”集まった人は皆、肉親を捜そうと必死に映像を見ていた。 あの光景は何と表現していいのか分からない”と振り返る」

と報じた。

 上原正稔がその上映会を企画し、宮里千里らが協力し、上原が映像を解説し、上原は超満員の観衆の前で挨拶をしたのだ。 1フィート運動の立役者としてそれはテレビの映像に残されている。 新聞紙上でも、記念誌でもこれだけ嘘を並べて、読者を騙しているのだが、この完全に良心のマヒした男は大田昌秀福地曠昭石川元平らと共に精神病棟に閉じ込めるべきだ。 いや、沖縄は既に精神病島(棟)になっているから、その必要はないのか。

つづく

 


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