~1フィート運動騒動記~ 4
記者会見場を埋め尽くしたマスコミ人の中に錦古里という人物がいた。 錦古里は偏向報道を続けている沖縄の新聞とメディアの状況を憂い、左翼文化人や政治家が沖縄をダメにしている現状を嘆き、赤松嘉次さんと梅澤裕さんの汚名を晴らそうとする上原正稔という一作家を琉球新報の悪徳記者団が言論弾圧を加えているのに怒り、「三善会」を組織し、上原正稔vs琉球新報の裁判を支援してくれている頼もしい人物だ。 しかも、全て無給奉仕で頑張っている今どき、珍しい人間だ。
彼が質問を投げた。 「1フィート運動を創設した上原正稔さんがよく言っていますが、沖縄戦フィルムの中に自分の姿や家族の姿を発見した人たちは、心が解き放たれ、そこに自分の全人生を見て感動する。 反米や反日本軍の無惨な反戦映画を作るのではなく、人を感動させる映画が生まれるのです。 上原さんが制作した映画(『そしてぼくらは生き残った』 2004年)が終わった時、観客は感動して拍手喝采したそうですよ。 そういう映画を作るつもりはなかったんですか?」
これに対し、沖縄大学の新崎盛暉名誉教授が答えた。 彼は明らかに質問を誤解して、1984年上原正稔がアメリカ公文書館から選び抜かれた12本のフィルムを持ち帰り、那覇市民会館で1フィート運動の最初の上映会を催し、超満員の盛況だったことを思い出し、的外れの答えをした。 しかし、上原の名は出さず、「あれは確かに大反響を呼びました。私は運動の成功を確信しました」という旨の発言をした。 知ったかぶりで、新崎が話を続けようとした時、ぼくはツカツカと記者団の中央に歩み寄り、肩から黒いカバンを外し、首に巻いたマフラーをほどき、テーブルの上に畳んで置いた。 そして、仁王立ちしたまま、目の前の7人の悪党をジロリと眺め回した。
ぼくは目の前に座って、エラそうにすましこんでいる偽善者たちの面(ツラ)を見ると、いよいよ怒りが込み上げてきた。
「この運動を創ったのは俺だぞ! 運動を奪って潰したのはお前らだ! 今日は1フィート運動が集団自決するのを見届けにきたんだ。 オイ! フクチ、いや、お前は嘘ばかり並べて、ハクチ(白痴)だ。」
福地はいつものように目を下に向け黙っている。 新崎が「確かに、1フィート運動を創ったのはあなただ。 しかし、今日は記者会見の場だから・・・」と言いかけると、ぼくはいよいよ腹を立て、「オイ、ダマレ! アラサキモリテル、お前は俺が1フィート運動を創ったことを知っているな」 「ハイ、確かにあなたです」 その間、7人の愚男愚女は声もなく、ただオロオロしている。