江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ 江利チエミ テネシーワルツ 5 (4/30 文面を訂正/追記いたしました)

2010年04月30日 | 江利チエミ(続編)
チエミさんが疎開先の吉祥寺に落ち着き、戦後その家の一間をダンサーさんのお姉さんに貸していて、そのお姉さんに誘われて親御さんには内緒で初めて進駐軍の兵隊さんの前で歌ったのは「戸塚」のキャンプ....

その「戸塚」とは...
 江利チエミさんが話していた内容を私が覚えている限り「新宿区」のはず!
 別にどうだって...
  まあ言われてみればそうなのですが、江利チエミさんのデビュー当時のエピソードは「はっきりとした1冊の本に記載されたりしていない」のです。
戦後60年を過ぎ、チエミさんも亡くなって29年... どうしても書き残しておきたい... ただただそれだけです。また、私のこの説も単なる素人の考察の範囲です。まさに「ひとりごと」です。

◆新宿/戸塚 ウィキペディアより(現在は掲載されていません。)

戸塚町(とつかまち)は、東京府豊多摩郡にかつて存在したの一つである。現在の新宿区高田馬場や西早稲田などに当たる地域。

JR山手線高田馬場駅を挟んで、西は神田川に架かる小滝橋から東は早稲田大学キャンパスまで約2.6km、南は諏訪通りから北は神田川まで約0.9kmの、東西に長い地域である。

地区の面積は1.74km²、世帯数19,005世帯で31,607人が住んでいる(2008年1月1日現在)。

早稲田大学や小学校、中学校、専門学校などが立ち並び、古くから学生街として知られる。また、「福祉のまち」としても知られ、多くの福祉団体が点在している。日本点字図書館など全国的な活動を行っている団体や、アムネスティ・インターナショナル日本支部、国境なき医師団ピースボートなどの国際的な活動を行っている団体の事務所がある。

この地域に東側には、最古の富士塚が存在していて、水稲荷大社では毎年7月下旬の土日に「高田富士祭り」と称して盛大にお祭りが行われる。また、「コミュニティ とつか」というこの地域の情報紙が年4回発行されている。

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◆陸軍戸山学校に関して...
ウィキペディアさん...
  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%99%B8%E8%BB%8D%E6%88%B8%E5%B1%B1%E5%AD%A6%E6%A0%A1

下記は別途HPより引用...

>明治7年2月、戸山学校と改称し、8年5月陸軍省直轄となり、20年5月監軍部に属し、同31年1月から教育総監部に属した。

学生を戦術科・射撃科・体操剣術科の三種とし、各隊から毎年定期的に士官・下士官を召集し、また臨時に佐官を召集してそれぞれの科に応じた学術を研究させ、訓練研究のため教導大隊を置き、譜調学生訓練のため軍楽生徒をおいた。
修業期間は、戦術科はだいたい10ヶ月、射撃科は4ヶ月、体操剣術科は7ヶ月である。構内には陸軍軍楽学校が併置されていた。各軍楽隊の楽生補充のため、生徒を養成したのである。校長は陸軍戸山学校長が兼務し、生徒は、軍楽部出身の志願者から採用した。修業期限は15ヶ月で、その期間中は帰省休暇は許されなかった。

>昭和23年、本校跡地に、東京都が自然動物園と競技場を作る計画で工事を始めようとした。当時日本は米軍の占領下にあり、第8軍東京軍政部司令官は、「東京の大勢の市民は家がなくて困っているのだから至急住宅を建てよ」と、都に指令し建築材料を提供した。そこで東京都は急遽1052戸の水洗トイレ付き木造住宅を作り、戸山ハイツと称し、戦災者や引揚者などを入居させた。ハイツは昭和45年から次第に鉄筋高層アパートに改築され、49年にはほぼ完成した。

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※戸山--->戸塚---戦時中に町が統合されて--->再び「戸山」となっています。
戸塚は戸山の中に昭和18年に組み込まれた地域で、呼び名が戦前派の人々にしっかり受け継がれていた。しかし、戸塚という住所は学校名などには残っていますが現存していない。ゆえに 戸塚=横浜市 と解釈されてしまうことが多く発生するのだと思います。

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江利チエミさんがプロとしての歌手活動を本格的にスタートするのは昭和23年の冬...
ちょうどそのころ(戸山ハイツが建設されるころ)まで、かの地は進駐軍に接収されており、「戸塚キャンプ」という通称で呼ばれていたと思います。
(これは私の亡くなった親からも聞いたことがあります。)
本格的に歌手活動をする前... 時期もぴったりと合うのです。

また「新宿区戸塚町界隈」には、陸軍近衛騎兵連隊(今の学習院女子大/戸山高校/戸塚第一中学...)などなど、多くの日本軍関連の施設があったところで、進駐軍に多くの土地建物が接収されていた...と聞きます。

新宿では「伊勢丹デパート」も進駐軍に接収をされていました。
素晴らしいHPを発見しました。
>米軍接収時代の伊勢丹の眺め(ペギー葉山さんの思い出話より)
 http://www1.c3-net.ne.jp/hamachan/tizu-isetan-6.htm
    ↑
 みなさまもぜひ!!~ハマちゃんのがらくた箱HPさん~の1ページです。

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東京にかつて存在した、現在も地区名で呼ばれている戸塚=とつか

朝日さんがbeで、戸塚を「横浜」として紹介していましたが、深谷(旧横浜ドリームランド近く/箱根駅伝コースの原宿交差点から北~いずみ野駅方面~にはいった地域)及び上瀬谷通信隊(相鉄線・瀬谷駅からほどちかい海軍道路付近)が、現在、深谷は泉区/上瀬谷地区は瀬谷区の区域ですがもとは戸塚区であったために「戸塚キャンプ」=横浜とされたのではと思いますが、深谷の通信隊、上瀬谷通信隊とも「戸塚キャンプ」という通称はなかったと思います。

※深谷通信所
   http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%B1%E8%B0%B7%E9%80%9A%E4%BF%A1%E6%89%80

また横浜は中心部には多くの接収地域がありましたが中区、西区、神奈川区といった市街地の中心部に集中していましたし、通信隊は厚木/座間や横須賀/横浜/横手を繋ぐための施設だったのでは... 通信隊のある場所は横浜と藤沢/横浜と大和・町田の市境地域で「戸塚の中心部からはかなり離れた場所」です。
なによりJR戸塚駅近辺には接収地区はありませんでした。

※横須賀線について...

かつて東海道線は戸塚を通過していました。同じ線路を横須賀線が運行していたのです。現在の横須賀線の鉄路は貨物専用路線だったと思います。
昔は東戸塚はありませんでしたので保土ヶ谷/戸塚を東海道は通過をしていました。(駅も改装されて今の形になりました。)横浜駅では東海道線と同じホームに横須賀線も発着していました。運行本数も今のように頻繁ではなかった昭和の話です。
横須賀線沿線は、横浜を過ぎてからは逗子(池子弾薬庫/米軍住宅)~横須賀(ベースキャンプ)まで「キャンプ」は存在しなかったはずです。
もともと横須賀線の生い立ちは「軍用路線」ですが、それは逗子/田浦/横須賀のこと。先に書いた通りで東海道(湘南電車)は今も保土ヶ谷/東戸塚に停車しないように戸塚も横須賀線のみが停車していましたが、それは東海道は長距離列車/横須賀線は中距離列車といったような分類でもあったがためと思います。

また、チエミさんは 「とつか の キャンプ」 とTVなどでデビュー・エピソードを話していました。 横浜の戸塚=とづか と発音します。




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9 コメント

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戸塚のキャンプじゃなくて・・・ (う--でぶ)
2010-05-01 08:54:23
対談で「戸塚のクラブ」とチエミさんは語ってました。
米兵専用のクラブ施設が「新宿/戸塚」にあったものと思われます。
クラブ=繁華なところ、横浜なら接収されていた伊勢佐木町「不二家さん」のビルとか、横須賀なら「汐入のクラブ」(現/大型ショッピングセンター)... 戸塚に米軍倶楽部はなかったはずです。
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わたしがこんなに固執する理由... (う--でぶ)
2010-05-01 10:26:34
わたしは年齢的に後発ファンなので、初期のチエミさんを知りません。
ゆえに大宅文庫などなど...あらゆる残された文面を調べたつもりです。

また、私は生粋の神奈川県民でこれもたんなる趣味の域ですが郷土史も趣味でいろいろ調べています。
生まれたのは川崎でその後横浜/藤沢で育ちましたし、大学は金沢八景でした。鎌倉にも10年ほど暮らしたあと厚木飛行場のある大和市に在住しています。
土地勘と歴史にはそこそこの自信があります。

チエミさんの足跡を厚木/座間周辺では探すことができるのですが、横須賀は???

ゆえに「意地になって」反論記事を連載しています。

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ええっ!!!! (磯貝たかあき)
2010-05-03 08:52:23
戸塚キャンプって新宿区の戸塚だったのですか!!
ビックリです!!
私事ですが、僕がチエミさんのファンになったころ、3年間だけ都電の早稲田駅のすぐそばに住んでいて
通っていたのが戸塚第一中学校で戸山ハイツのすぐそばの学校でした
(いまは他の学校と合併して早稲田中学校になりました)

近所の文京区の音羽のそばにはチエミさんの歌にも出てくる「胸突き坂」もあります


それにしても、まだレコードデビュー前のお写真なのでしょうか?
とてもあどけない可愛らしい少女の写真ですね~
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RE:ええっ!!!! (う--でぶ)
2010-05-03 13:39:36
嘘!東京っ子の磯ちゃんまで...
っていったって磯チャン若いもんね。

東京の戸塚=とつか 横浜=とづか です。
戸塚はだんだんと「その地名の存在」「痕跡」が消えていったから、新聞社さんだってそう思うわな~ 磯ちゃんがそう思ってたんだから仕方がない...とあきらめます(笑)

胸突き坂... キングは都電の駅おりて「音羽の坂の高いところ」だったから和田プロデューサーがペンネームを「音羽たかし」にしたんですよね!
私は護国寺の坂を池袋方向上がった昔の大塚坂下町都電停車場ちかくの雑司ヶ谷霊園にお墓があります。ツイの安住地だけがすこしチエミさんゆかりの地に近い?かな??(笑)
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磯ちゃん江(追伸) (う--でぶ)
2010-05-03 13:43:35
デビュー前の写真です。

昔の雑誌... 右下は「水之江滝子」さんと一緒に踊ってる(たぶん浅草国際)と書いてあるのですが、米兵さんとの写真には何も注釈がないのです。この人が「ケネス・ボイドさん」なのかもしれませんね。
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都電といえば... (う--でぶ)
2010-05-03 13:53:07
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/6e/Tokyo_toden_map.png

この地図でクリックすると画面拡大します。
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都電 2 (う--でぶ)
2010-05-03 14:05:58
今の残ってる荒川線(旧/早稲田線)の高戸橋の分岐から高田馬場駅に向かう路線こそ「戸塚線」という名前でした!!

荒川線は学習院下-->面影橋--->終点 ですよね。
楽曲「面影橋」は大阪淀川に架かる架空の橋ですけどね。
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Unknown (磯貝たかあき)
2010-05-04 10:56:40
なるほど~ ありがとうございます!
うーーでぶさんも音羽には縁があるのですね
僕も人生の最後にはまたあの辺りに住みたいな~なんて思っています

音羽といえば、今はもう無くなってしまったけど、昔の講談社の中にあったキングレコード、外も中も、とても厳格?な雰囲気だったのを覚えているのと
護国寺の隣の「天風会館」という小さなホール壁には「キングレコード」の文字が。
ああ、ここでチエミさんやペギーさんもレコーディングされたのかな?なんて思いました

・・・またまた私事ですが、私たちのグループが初めて自分達のリーダーアルバムを出していただいたのはキングレコードでした
もうその頃には昔のスタジオはとっくに無くなっていて、関口台スタジオという名前の江戸川橋駅近くの坂の途中にあるスタジオで
入り口には、あのテレフンケンのラッカー盤吹込み用の立派な機械が飾ってあったのを覚えています

さかのぼりますが、中学生の頃、都電の早稲田駅の隣の駅「面影橋駅」まで歩いてそこから長い坂を上って学校へ行ってました
よく帰り道には、周りに人がいないのを確認しながら「面影橋から」なんかを口ずさんでいました、ヘンな中学生でした(笑)
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たまたま今日 (う--でぶ)
2010-05-04 17:17:47
母の一周忌だったもんで雑司ヶ谷の夏目漱石さんと同じ通りなんですが、おもいっきり小さい私名義のお墓にお参りしてきました。
ひと駅ですが、雑司ヶ谷--->鬼子母神前まで、メトロ副都心線「雑司ヶ谷駅」を利用するために(かえって遠回りですが)都電乗りました。

私も住んでみたいけど...
ロトかなんか大当たりしないと無理だ!(笑)

そうそう。都電/戸塚線ってのは、高田馬場--->面影橋--->早稲田 っていう運航形態だったと思います。
今残ってる都電/荒川線は「王子軌道」っていう私鉄会社が設路して「専用軌道」が多く道路を早稲田周辺/王子駅前/もともとの荒川線の熊の前のあたり...しか併用で走らないから奇跡的に残ったのだとか...
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