江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ 昭和36年... ここから江利チエミ 絶頂期へ・・・

2013年02月17日 | 江利チエミ(続編)

http://www.youtube.com/watch?v=dxx6bTGHoLA
    ↑
  昭和36年産経ホール・ライブをUPしてくださった方が... 感謝です。

デルタとのライブ...
このライブ盤は、1961年2月19日/20日 大手町/産経ホールでの録音です!

チエミさんの歌唱の収録は...

1. メドレー  
 
(テネシー・ワルツ/ガイ・イズ・ア・ガイ/セ・シ・ボン/トゥー・ヤング/カモン・ナ・マイ・ハウス)  
2. さのさ  
3. マリーナ  
4. そうらん節  
5. ペーパー・ムーン  
6. 聖者の行進

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3~6はデルタとの共演です。

ソーラン節 チエミ&デルタ
  http://www.youtube.com/watch?v=CSNC936k-SM



残念ながらこのパンフにもあるように...
 チエミさんはほかにも...
 チェンジング・パートナーズ 恋人よ我に帰れ 日曜日はダメよ 虹の彼方に 花笠おどり 奴さん 
 
 ...まず確実に6曲はLP収録曲よりも多く歌っていますね! 

この当時のチェンジング...は映画「サザエさんとエプロンおばさん」での、ゲスト出演の高島忠夫さんとのミュージカルシーンでも豊かな素晴らしい歌唱を残していますし、なんていったってこの時期の「チエミの奴さん」はそれはそれは見事だったに違いない!...と思うのですが。
キングさんに「ライブのマスター」は残ってはいないのでしょうか???
  何度か復刻されCD発売されましたが... 望み薄かもしれません。

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以下の文章はこの公演パンフレットによせられたコメントです...

>藤井肇さん
今から8年前、正確に云えば、昭和28年5月、天才少女チエミちゃんが勉強見学の為、渡米の帰途、同じ旅客機で来日した黒人ヴォーカル・グループ、デルタ・リズム・ボーイズ。私共はこの珍客を迎え、深い感激を味わった懐かしい想い出がある。当時は今日の様なコーラス・ブームもなく、一般の人々の関心もうすかったが、今回は大分事情が違っている。先ず私共が、デルタ・リズム・ボーイズの芸術を味わう前に、むしろ彼等の度胆をぬきたい事がある。それは、チエミちゃんの素晴らしい進境なのだ。日本女性としての美しい成長振り、そして我国ナンバー・ワン歌手としての貫禄の前に、彼等は完全にダウンするであろう。チエミちゃんが「私の今日あるのは、デルタのおじさまたちのお蔭です」と述懐しているのも、誠に奥深しいが、8年前に結ばれた友情又師弟愛がここに見事に報いられた事は、心あたたまる美談として心から拍手を送りたい。
昨年、幸福な家庭生活にゴール・イン。嬉しい事つづきのチエミちゃんにとって、デルタ一行の来日はこの上ない喜びであろう。今度はチエミちゃんが、先生役に廻って、「さのさ節」や「深川くづし」の粋な味を伝授してもらいたいものである。又今来のコンサートの企画構成を進んで買って出た事に内心でも大きな期待がかけられ、ステージの上に展開される楽しい雰囲気。之にまさる日米親善の効果はない筈です。
デルタ・リズム・ボーイズの一行も、前回の時のクリフ・ホーランドが、ネルシー・ファーに代わっただけで、後はおなじみの面々で中でも、大男で愛嬌あるベースのリー・ゲインズに会えるのも楽しみの一つだ。丁度彼等と相前後して、キングストン・トリオやプラターズが来朝するが、そこに新旧対称のヴォーカル・グループの面白さが堪能出来る事であろう。デルタの良さは伝統的なジャズ・リズムの楽しさにある。十八番物の「ドライ・ボーンズ」を始めとしてジャムプ・ナンバーの「A列車で行こう」、「ワン・オクロック・ジャムプ」、「セント・ルイス・ブルース」さてはショウマン・シップを横溢させたヴェルディの「リゴレット」など是非聴かせてもらいたいもの。又ここ8年間に於ける彼等自身の進歩をみせてもらう意味で、流行のリズム・アンド・ブルース、又最新のポピュラーテューン等もたっぷり歌ってもらいたい。特に若いティーンエイジャー・ファンの為にも、又我々オールド・ファンの想い出の為にも、コンサートの大成功を祈ってやまない。

>いソノてるヲさん
私は昔から大の江利チエミ・ファンでした。ですから彼女がデビューして間もなくから常に彼女の唄を聞き続けて居ります。日本の軽音楽界で私が“最高の人”と何時も信じているのが彼女です。数年前、ある週刊誌が日本の十人という投票を集めました。政治家、学者、芸能人と十の項目があり、その音楽家の所へ五冊も十冊もその雑誌を買って“江利チエミ”と書いては投票しました。友人にもジャズ界の意気を示そうと言うわけで彼女一本の応援をしました。私の微力はあるいはほんの少ししか役に立たなかったかも知れませんが彼女が数ある古典音楽の指揮者、作曲家や歌謡曲、民謡の人気歌手を抜いて首位を占めたのです。ほんとうに大きな喜びでした。
かくして江利チエミ・ファンたる事すでに10年。その間に大きな思い出が3つあります。1つは彼女の結婚式に招いて頂いた事。彼女は芸能界でもっとも幸福な第2の人生を歩んでいます。2つは彼女の独身最後のリサイタルに中村八大トリオ、リリオ・リズム・エアーズ、ブルー・コーツと共に司会として約10日間一緒にすごし労音の会員を数千名ふやした事。そして3つは彼女がジャズ歌手として大成する上に力を尽くしてくれたカール・ジョーンズをふくむデルタ・リズム・ボーイズと一緒に彼女の唄を聞いた事です。
チエミのアメリカ遊学のおみやげがこのデルタだったわけで本格的なジャズ風のヴォーカル・コーラスに聴きほれたものです。あれから幾星霜、日本も真にジャズを理解する人が増えてこのような唄が非常に好まれる傾向が出ております。一昨年のゴールデン・ゲイト四重唱団、昨年のミルス兄弟と黒人の合唱団が相次いで来ているわけですが、何と言っても日本の音楽会に最初に刺激を与えてくれたデルタ・リズム・ボーイズに対する期待は大きいものです。私もチエミの構成・演出するショウの一員としてデルタの唄をより深くより広く聞いて頂けるよう努力するつもりです。
学校に設置されていた戦前の戦争道具が野球用具や楽器に置き換わった時に若い人達が和声にめざめました。それまで合唱と言うとユニゾン専門の日本人がハーモニィに興味を抱き、一時はコーラス・ブームと言う現象までマスコミが作りあげ全く“良い世の中”になったものです。
チエミのジャズ開眼に大きな影響を与えたこの本場のジャズ・ヴォーカル・ティームに皆さまも是非心からの拍手を送って下さるようお願い申し上げます。

>志摩夕起夫さん
 ♪思い出 なつかし あのテネシー・ワルツ 今宵も ながれくる...
チイちゃんの「テネシー・ワルツ」が巷に流れ出してからもう丸7年の歳月が経ってしまいました。日本の生んだ類い稀な天才歌手、江利チエミのプロフィルを総めて書いてみる時機でもあるようです。折も折、彼女にとっては忘れられないデルタ・リズム・ボーイズの来日。
江利チエミは、東京下谷でピアニストの父、久保益雄と女優の母、谷崎歳子の間に生まれました。両親の血を受けて音楽的な素質に恵まれ、特に人まねが上手で、よくまわりの人たちを笑わせたそうです。面白いことには幼い時に唱歌が嫌いで、音楽の時間になるといつもユウウツな顔をしていました。それには理由があったのです。彼女は他の友だちよりもずっと声が低いので、歌う時まわりの子と合わないので、一人で歌うのは好きでも、大勢いっしょの教室では小さくなっていなければならなかったわけでした。後にこのハスキー・ヴォイス(かすれ声)が日本中のファンを沸かせることなど誰も想像しなかったでしょうから。それにハスキーが受けるご時世でもなかったのです。
母親を失って傷心の彼女を慰めた唯一のものは歌でした。また歌の才能を信じた、たった一人の人は、彼女の父益雄氏でした。それ以来現在まで、父と兄とは彼女の仕事と私生活の両面にわたるよき理解者であり協力者です。
歌手の誰もがそうであるように、チエミもまたそのスタートは先輩歌手のイミテーションからでした。米軍キャンプでステージに立っていた12・3才の頃の彼女は笠置シズ子そっくりだったのです。ジェスチャをまじえて「東京ブギウギ」を歌う江利チエミは「笠置そっくりの妙な少女歌手が現われた」というので日本人の間でもちょっと評判になりました。昔気質の笠置シズ子は自分の真似をする少女歌手を痛々しいと思ったのでしょう。作曲者・服部良一と相談して「東京ブギウギ」をこんな少女に歌わせないでほしいと申し入れ、そのためにチエミにとっては最初のチャンスであった日劇出演がお流れになるという結果まで生まれました。この笠置シズ子の親心が、チエミを発奮させたかどうか、彼女は、ますます歌に精進を重ね、昭和26年暮れにはキングレコード会社に入社。デビュー盤を吹き込むはこびになりました。それが「テネシー・ワルツ」と「家へおいでよ!」の両面です。前者はアメリカでも再流行していた古いヒルビリー・ワルツ。後者はヒット・パレードのトップを占めていた最新の歌で、この二つの重要な歌を無名の新人少女歌手に一枚両面のレコードに吹き込ませるとは、キングとしても並々ならぬ気の入れようであり自信満々だったのだと思われます。
バラードとスイングとこのレコードはチエミの持つ二つの面を発揮させたものであり、少女らしい優しさと笠置ばりのパンチの強さとを兼ね備えてキングにとっても驚異的な40万枚という大々的なヒットを記録してしまいました。かくて江利チエミはレコード界での幸運なスタートを切ったのです。
以後は多少の曲折はあってもまずトントン拍子に人気が上がり、昭和28年第1回の渡米後は完全に第一線のスター歌手になってしまいました。そのときのおみやげ的な発表となった「思い出のワルツ」「サイド・バイ・サイド」も大当たりをとり、一作ごとに確実な進歩を見せて、2度目にアメリカから帰って来たときの「ラヴアー・カンバック・トゥ・ミー」「ダンス・ウイズ・ミー・ヘンリー」にいたってはある種の貫禄さえ感じられました。第一回におけるデルタ・リズム・ボーイズ、第二回におけるレス・ブラウン楽団などアメリカ一流のジャズ・グループと一緒に直接に歌うチャンスを得たこともよい勉強になったでしょう。チィチャンは今でも「私の今日あるのは、デルタ・リズム・ボーイズのおかげです。先輩であり良い先生でした」と言っています。こうした恵まれた条件によった真の意味がジャズを歌える数少ない歌手として江利チエミは貴重な存在となったのです。
江利チエミのヒット・レコードとしてはこの他に「ガイ・イズ・ア・ガイ」「ウェディング・ベルが盗まれた」「裏町のお転婆娘」「ロックン・ロール・ワルツ」「ウシュクダラ」「お転婆キキ」「キャリオカ」「ババルー」等々数え切れないほどですが、そのどれを聴いても江利チエミでなければ歌えない独自の境地が感じられます。笠置シズ子の物真似から出発した彼女が今や江利チエミ自身のスタイルを確立したのです。いや「テネシー・ワルツ」のデビュー盤さえすでにその感じはあったのです。誰の真似でもない自分だけのスタイルで歌うという、この簡単なことが如何に至難であるかは、一時名をあげても、やがていつとはなく消えてしまう多くの歌手の例を見ればすぐ判ることです。
チエミはまだジャズのフィーリングを肉体的に備えている日本人には珍しい歌です。身体全体から湧き出す強烈なパンチ、アドリブの良さ、こればかりは何年勉強したからとて体得出来るものではありません。天才とはそこのことを言うのです。これあればこそジャズ・ソングの中でバップイキャット(言葉でない音を繰り合わせる即興的な歌い方)をやっても、少しも借り物に聞こえないのです。
彼女は最近さらにレパートリーの巾を広げて「チエミの民謡集」というLPを出し、早くも2万枚売れました。これもLPとしては空前のことでしょう。
チエミより一足先に名をなした美空ひばりと今は映画で活躍中の雪村いづみと少女歌手が三人組んで「うたう三人娘」などと騒がれた時代もありましたが、この三人の中ではもとより、日本ジャズ界の女性陣を見渡しても本格的にジャズを歌わせたらテクニックでも、うま味でも江利チエミの右に出る人はまずあるまいと思います。しかしチエミが本当のジャズを歌う機会は意外に少ないのです。そういう意味でデルタ・リズム・ボーイズの来日は彼女の今後について画期的な出来事であります。しかも彼女の構成・演出という別の面の才能も試す絶好のチャンスともいえるのです。
映画界では「サザエさん」シリーズを始め朗らかな少女役で成功したチエミはその映画界での交際から31年のクリスマス以来のロマンスが実を結んで高倉健との結婚へゴールイン。私生活でも幸福そのもの。チイちゃんは、軽音楽界にとってますます得がたい存在となってゆくようです。




※このデルタとの共演時のこぼれ話は...
http://blog.goo.ne.jp/udebu60827/e/be60285cf1df9227094851f0e109e53b

当時の話は...
http://blog.goo.ne.jp/udebu60827/e/190be685c8bde782ba1e588cca734587

マルチ・タレントとして活躍の場をこのころから広げていった話は...
http://blog.goo.ne.jp/udebu60827/e/5eb73304191607b009383f42c3cf0fee

過去のこれらの記事も読み返していただけますと幸いです。



さて一番下のパンフの写真に島津貴子さんご夫妻が...
 当時ご近所に住まわれており親交もあったようです...
当時の記事から...


◆昭和35年7月、若い女性 江利チエミ・島津貴子対談「今だから云えますけれど」

島津貴子さんは今上天皇の末妹で、宮号は「清宮(すがのみや)内親王」。この年、薩摩藩主の末裔で山階鳥類研究所院(現・会長)である島津久永氏と結婚したばかり。
『わたしの選んだ人を見て下さい』というコメントで有名でした。
この当時、
 島津邸---->五島美術館---->江利チエミ・高倉健邸 を見物しながら通るひとが多かった...そうです。
>江利:上野毛ハイキングコースといったところですよね。
  島津:お宅は瀬田ですか。
  江利:ええ、これだけしか離れていないのに、もう瀬田になるんです。
  島津:この前、お宅の前を通ったんですよ。それでお宅の構えをみたら、ぜんぜん厳重なんですね。
         どこから入ったらいいのかわからないくらいで・・・
  江利:はじめのうちはそうでもなかったんですけど、だんだん厳重になってしまったんですよ。
      塀も高くなるし、空き地には木を植えたりして。玄関のところにインターフォンがあるでしょう、
      あれを押していただくと、うちの中にある鐘のピンポーンが鳴るんです。
      そこでインターフォンで「どなたさま」「ファンでございます」「はぁはぁ、お留守でございます・・・」って。
      理想としては、塀だって半分ぐらいの高さで、朝なんかお隣や近所の方と、
                 おはようございますといえるぐらいのほうが、よかったんですけど・・・

※昭和35年=1960年... だんだん世の中もノンビリのほほんとはいかなくなってきた様子が汲み取れます。(ちなみに私はこの雑誌発売の時は、まだ生まれていません!翌月8月に未熟児でオギャ--と生まれました。)

他興味深い部分を抜粋します...
>江利:・・・婚約前の神経の使い方と、違ったんじゃございません。私などは、発表して結婚してからは、大いばりになれましたけれど・・・

 島津:私もそうです。発表する前は、神経がピリピリしてしまって・・・(笑声)

 江利:結婚する前、高倉にうちに遊びにきてもらうときなど、私が車を運転してうしろの座席に横になってもらって門の中に入ったり・・・(笑声) ずいぶん神経を使いました。帰ってきて家の傍に社旗を立てた自動車がとまっていたりすると、見つかったのかとドキンとしたりしました。私が免許をとったのも実はそのためだったのですけれど・・・ そんなご経験はありませんでしょ。

 島津:そうでもないです。会う度に見つかるのじゃないかと大騒ぎ。ですから新聞社の車が追い抜いていくと、わかったんじゃないかと、すごく木をつかったものです。


※また、この対談に江利チエミさんは「時代劇映画の扮装のまま」に駆けつけた...とあります。
おそらくこれは主演の「唄祭りロマンス道中」か、
     森繁久弥さん・原節子さんと共演した「ふんどし医者」のどちらかでしょう。

東宝作品「ふんどし医者」
>中野実の原作を菊島隆三が脚色し稲垣浩が監督したもので、清貧に甘んじながらも庶民のためにつくした一人の医者を主人公にした物語。東宝作品。

あらすじ:幕末の東海道大井川の島田宿に小山慶斎(森繁)という蘭法医がいた。貧しい人々のための医者だった。美人の妻いく(原)は丁半と勝負ごとが大好きだったため、慶斎はたびたび賭場でスッテンテンになってしまう女房の借金のかたに着物を脱がねばならなかった。最後にはふんどし一本になった慶斎がいくを伴い悠然と歩く姿に、人々は彼を「ふんどし医者」と呼んだものであった。
遊び人半五郎(夏木洋介)が仲間の争いから瀕死の重傷でかつぎ込まれた時、慶斎は“腎臓摘出"という日本最初の大手術をして成功した。こんな片田舎の宿場にこんな名医がいるのは不思議だった。さかのぼること15年前、長崎で和蘭医学を収めた慶斎は親友池田明海とともに徳川家御典医の考査のため江戸に登る途中、大井川の川止めに会った。病に苦しむ貧しい人々の姿に接した慶斎は、一将軍より多くの市井の人々のためにつかえる道を選んだ。川止めは解け、明海は江戸に発った。明海を追って来たいくは、慶斎の姿に感動し、二人は結ばれた。御典医となった明海は、たびたび島田に立寄り慶斎を江戸に誘ったが、慶斎の決意は変らなかった。この慶斎の思想に感動した半五郎は弟子入りを志願したが、慶斎はすげなかった。
チンピラ時代から彼を支え、結婚の約束をした駿河屋の娘お咲(江利チエミ)をおいて半五郎は、修業のため長崎にたった。
それから八年、維新を経た明治の始め、伊東半五郎は新進気鋭の医師として島田の宿に帰って来た。いくやお咲の驚きと喜びをよそに、慶斎は淋しかった。見るも新しい器具類は取り残された思いを抱かせるばかりだった。折から疫病の疑いを持つ子供を中に、単なる腹痛だという慶斎と、チフスだという半五郎の意見は正面から対立した。三百両の顕微鏡は、いくの体を張った勝負のおかげで手に入った。しかしその助けを待つまでもなく、三十年の経験から生れたカンは敗北した。絶望にひたる間もなく、「隔離」という言葉すら解さぬ人々の怨みから、慶斎の家は打ちこわされた。これを契機に新しい医学を学び直そうとした慶斎を訪れたのは、医大教授となった明海だった。が、その明海に招へいを受けたのは半五郎だった。師弟の縁を切るという慶斎の怒りをあとに、半五郎は新妻のお咲と東京に向かった。打ちこわしをした人々も慶斎の前に頭を下げた。家は再び建てられ、慶斎といくの田舎医者の生活も、再びはじまった。


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