江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ 「楽しいなア!ミュージカル映画&アメリカ映画/映画は僕のLIFE TEACHER」

2007年06月17日 | 江利チエミ(続編)

「楽しいなア!ミュージカル映画&アメリカ映画/映画は僕のLIFE TEACHER」
著/中野章三 装丁・デザイン・イラスト・編集/井上貴士 表紙イラスト/きいちろう

この著作は中野先生の歩んだ歴史を「当時観た映画」をからめて展開していく自伝的エッセイです。この本には1961年(昭和36年)までの波乱万丈の歩みが書かれています。続編も書き起こされているのだとか・・・

今日は本題に入る前に、まず『中野ブラザーズさん』のルーツの話から・・・

中野ブラザーズさんの略歴、1961年までを「中野ブラザーズ・ファンクラブHPさん」より引用させていただきます。

>誕生/1935年3月21日、兄・啓介、東京で誕生。
1937年2月8日、弟・章三、同じく東京で誕生。

>デビュー/兄弟それぞれ3歳の時、中野チンピラ劇団で初舞台。長兄・中野カオル(現・南風カオル)、ケー坊、ショー坊の愛称で3兄弟で活躍。
兄12歳、弟10歳の時、京都にてタップダンスを吉田タケオ氏に師事。小雀劇団の子役として映画数本に出演。

>1953年/上京。初めて「中野ブラザーズ」を名乗る。

>1954年/1年間「東京キューバンボーイズ・ショウ」で全国を巡演。バンドマスターの見砂直照氏からショービジネスの何たるか教えられる。米軍キャンプ・ナイトクラブ・劇場など活躍の場が次第に多くなる。

>1955年/「江利チエミショー」日劇に初出演、大好評を博す。その後、江利チエミショーで全国を巡る。

>1959年/「ホリデイ・イン・ジャパン」の一員としてラスベガスのニューフロンティア・ホテルに1年間ロングラン出演。タミー・モリナロ氏についてジャズダンスを始め多くの舞踊テクニックを学ぶ。また、故サミーデイビスJr との友情は氏が亡くなるまで続いた。

>1960年/8月帰国。「江利チエミショウ」と「ジャズショウ」に出演。10.11月の両月、新宿コマ劇場に初出演。12月から翌61年6月まで日劇ダンシングチームと共にスコットランド、イングランド、コペンハーゲン公演に参加。好評を博す。

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この中野チンピラ劇団とは???

中野さんの長兄「南風カオルさん」の記述から引用します。
『青柳壮六写真集・老優 南風カオルの世界』より・・・中略
 なぜ、南風カオルの顔はまん丸ではないのか?それは子供の頃、お父さんにカナヅチで頭をぶたれたせいでありまして、まん丸い顔がゆがみまして、いつか長方形になってしまったんだそうな。風船じゃあるまいし、ホンマかいな。でも、カナヅチでぶたれた、これは本当の話です。
 お父さんというのが義士廼家由良之助という役者さんでありまして、どういう役者さんかというと、明治末期、日露戦争の頃、大阪に曾我廼家兄弟劇という、日本にようやくそれまでと違う新しい喜劇が生まれました。その喜劇の開祖に刺激されてその人気にあやかろうと、多くの喜劇団が大阪の地に続々と生まれました。そんな中に曾我廼家の名前に対抗して、曽我兄弟に並ぶ仇討ちといえば赤穂義士ではないかと、劇団員全員、忠臣蔵お馴染みの名前で義士廼家勘平とか義士廼家平右衛門とかつけた、義士廼家劇という、そんな旅回りの劇団が生まれました。その劇団の座長格が代々、義士廼家由良之助を名乗りました。といっても喜劇に限らず、昭和に入ってからは、三派合同国劇座と名乗って、歌舞伎、新派、剣劇、レビューとなんでもござれ、いろんな芝居、舞台を幕なしで見せるというので評判となった大所帯の一座となっていました。
 その大一座の売り物の一つに子供芝居があって、戦後、カオルさんが浅草の松竹演芸場でいっしょに活躍した蝶々座の女剣劇の異端児、中野弘子も、実は幼くしてこの一座の子供芝居のスターでした。その中野弘子の時代は中野児童歌舞伎といってましたが中野弘子が独り立ちして、国劇座を解散し、新たに中野弘子一座で再出発をしたのが昭和13年年頃、そのときに中野児童歌舞伎に代わる子供芝居が生まれ、それを「チンピラ劇」といいました。その幼き座長が、当時7つぐらいかな、中野カオルこと南風カオルでした。
 中野カオルの名は、はやもう5つのときに、当時の都新聞の劇評に載っています。昭和12年の2月に(奇しくも2.26事件のちょい前)、浅草の公演劇場で、中野弘子13歳の丹下左膳に、チョビ安の役ででていて、はやくもその愛嬌、達者ぶりが人々の目にとまったようです。そしてはや7つで「チンビラ劇」の座長となり、『国定忠治』などの剣劇を堂々と演じてみせ、大喝采大評判となったのですが、その本を書き、指導したのが誰あろう、父である義士廼家由良之助でした。そしてこのお父さんは芸に対しては厳しかった。「チンピラ劇」、子供芝居だからといって、半端なものではなく、本格的にきちっと教えた。そして他の子供はともかく、座長である中野カオルにはとりわけ、いい加減は許されなかった。ちゃんと出来ないと、ほんと、カナヅチでぶたれたのである。それがまた恐いから、一生懸命、やるっきゃないのです。
 だがそのかいあってか、この「チンピラ劇」は大当たり、どこへいっても人気沸騰。その人気に目をつけた吉本興行と、ついに昭和14年に専属契約を結ぶことになり、主に、関西方面の花月劇場を回ることになりました。実は中野カオルには弟が2人いまして、この2人も終戦近くまで、この「チンビラ劇」で活躍していました。次男が啓介といい、主に敵役で、中野カオルが例えば月形半平太なら、近藤勇をやっていました。三男が章三といい、こちらは女形専門で、雛菊といった役どころではありました。この弟2人が戦後は、タップを踏んで一躍人気を博した、あの中野ブラザーズなのです。・・・

※青柳壮六写真集・・・「老優 南風カオルの世界」 モノクロ写真・A5版・76頁 定価2千円+税  お問合せ 〒160-0005東京都新宿区愛住町16-3 TEL..FAX 03-3359-6092

中野チンピラ劇団=少年座長はお兄さんのカオルさん。脚本/演出はお父様・・・
中野ブラザーズさんのルーツも「根っからの芸人」。
バンドマンの父、女優の母の家に生まれた江利チエミさんとは「運命の糸で繋がっていたのだ」と思います!!


(こぼれ話)昭和20年代後半...ちょうど江利チエミさんのテネシーワルツがヒットし、ペギーさん、いづみさんがデビューを果たしたころ、中野弘子率いる蝶々座は浅草の松竹演芸場 を根城として、大江美智子、不二洋子、そして浅香光代らと『女剣劇』で、ひとつのブームをつくりました。このとき、しっかりと中野弘子さんを脇で支えていたのが南風カオルさん。
のちに独立して南風カオル一座を立ち上げます。

南風さんとチエミさんの話は ここ もご参照ください。
さて、次回から興味深いところを『恐れ多くも』引用させていただきます。

※トップ画像は、章三先生と同い年のチエミさんの『七五三』のショット。





 


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6 コメント

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そういえば・・・ (う--でぶ)
2007-06-20 13:19:00
台詞はトチらないのに歌はトチル...というエピソード多いですね。
わたしも数度その場にいましたが...
拍数を間違えて歌いだしても、ビシっと最後に帳尻をあわす...という「見事な技」を持っていました。
天性のリズム感...ですね。
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Unknown (たかし)
2007-06-20 08:35:41
どうも、ありがとうございます!

そうです。出演の合間にはロビーにおりました。章三先生から「踊りはいいから本を沢山売りなさい」と指令が出ておりまして(笑)。

本番は楽しくてしょうがなかったです。章三先生と一緒に踊れる幸せ、大好きな音楽に合わせて踊れる幸せ。もう最高でした。
ただ、一緒に踊った役者の中学生(「中野ブラザーズ物語」では章三先生の子供時代の役でした)の彼が言ってましたが、楽しく踊れても間違ったらタダのバカ。次回はこれを肝に銘じます(笑)。

チエミさんのタップのお話は私もよく聴きます。「チエミサンは間違えるんだけど、音がちゃんと合ってるから、すました顔をしてるんだよね、もうあの人ったら!」と。それからご冗談がお好きで、よく舞台袖から野次られたとも(笑)。
章三先生・啓介先生の義理の通し方、筋の通し方と言いますか、何があってもまず恩師そしてチエミさんがあって自分たちがあるという、そういう謙虚な姿勢は、非常に勉強になります。

師匠、お客さまともに、芸に厳しい方々にご指導いただけて、ありがたく思います。これからもがんばります!!
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お疲れ様 (twig)
2007-06-20 00:20:06
はい、覚えております。井上さん、ロビーではDVDやプログラム販売担当もされていました?

やはり男性はあの群舞のなかでは目立ちますが、皆さん大変よく踊ってらっしゃいました。、とくに井上さんは実に楽しそうに踊っておられましたね。見事、見事!!
チエミさんだったら、「にっぽんいちっ!」と大向こうからかけ声を何度もかけたことでしょうね。
かけ声といえば、話しはべつですが、新内の岡本宮ふじ姉さんが、「 チエミちゃんが、一番前に座ってて、よっ、日本一!って声かけてくれるのはいいんだけど、やってる最中にところかまわず、よっ、日本一、よっ日本一ってやるもんだから困っちゃったわよ、唄のきれめってものがあるんだけど」といつか苦笑いしながら話しておられました。
今夜放送の「ロマンス娘」でも、 チエミさんがかけ声かけるシーンがありましたね。

何かの番組で、章ちゃん先生が「 チエミさんとタップ踏むのだけど、ステップは全く間違えてるんだけど、音は完全にあうんだよね」と話していたのを思い出しました。 チエミさんもタップ上手でしたものね。

井上さん、頑張って下さいませ。
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Unknown (たかし)
2007-06-18 10:54:51
どうもはじめまして、twigさん。
出演しておりました井上貴士です。

>章チャン先生のお弟子さん達はしっかりと彼らのダンスの真髄を受け継いでいたとおもいます。

ありがとうございます。そう言っていただけて、本当にうれしいです。

いつも章三先生がおっしゃることは興味深くて、「私のステップだけを真似なさい、膝・足先をよく見ておきなさい。形(振り)にはくせがあるから、そこは真似しなくていいの」と。あれだけ綺麗に踊られる方がそうおっしゃいます。「胸を張って、真っ直ぐ立って、ステップをちゃんとやれば、自ずと様になるんだよ」と。
あとは映画を観なさいと。フレッド・アステアを観なさいと(^^)。
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♪ヘイ ミスター ボ--ジャングル... (う--でぶ)
2007-06-17 20:21:41
やっぱりtwigさん、行かれたのですね!!

>章チャン先生のお弟子さん達はしっかりと彼らのダンスの真髄を受け継いでいたとおもいます。

それは素晴らしい!!(たかしさん!嬉しいですね!!)

ピアノふぉる亭の映像も流れたんですね!
この番組のことは下記もクリックされてみてくださいね。
http://blog.goo.ne.jp/udebu60827/e/3d636895712bc7d5bae8d6cae9a7d6a4
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万歳!中野ブラザーズ (twig)
2007-06-17 14:05:44
観てきましたよ、中野ブラザーズ60thアニバーサリー。とにかく、やはり中野は最高!
いま、どんな話題のダンサーがいようと、彼らにはないものが中野にはあります、それは「エレガンス」。アクロバティックなダンスはもう結構。衣装も今風?普段着?わけわかりませんが、もう結構。

東京キュウバーンボーイズのバンマスの一言、それが中野を替えたといいます。「お客を感動させろよ」。この一言につきると言いますが、まさにその通り。「すごい!」と思わせるダンサーはいるでしょう。今回もNYから特別参加の連中が数人いました。でも、「うまい!」と思わせるのは中野だけ。セクシーを表現するのは客席をにらめばいいのではない!すごいタップをふむのはだれでも出来る、でも、どんな踊りを踊っても、「エレガント」であることは至難の業です。
それは、修行と努力と謙虚さです。
だって、サミーディビスJrやドナルド・オーコマンが中野を絶賛したのですから。
それに、もう一つ、MCのあなうんさーが最悪。衣装は普段着。60周年のお祝いなのに。それにセリフは台本みながらとちってばかり。なんなんだ!と。プロだろう、てめえは!と言いたかったです。客席から、「ご両人!」とかけ声が飛び、それに章チャン先生が「は~い、 チエミさ~ん」と答えて、「コマにもどこにも駆けつけてくれた方なんですよ、あの方は」と言っても「はい、はい、はい」とだけ。「僕らは チエミさんのお陰でいまがあるんです」と言っても反応ゼロ。せっかくのいんたびゅーなのに全然からまない。アンケートには書きましたが。
で、 チエミさんはといえば、「青春航路」の下駄タップ、「三人よれば」からTVスタジオでの三人でのダンス、そして「ピアノフォルテッシモ」の映像がでました。
ここに、 チエミさんがいたら特別出演でそれはもう盛り上がったでしょうね。
ラストに、啓介さんが歌って、章チャンが踊る「ミスターボージャングルス」。これが最高でした。歌も踊りも。
でも、章チャン先生のお弟子さん達はしっかりと彼らのダンスの真髄を受け継いでいたとおもいます。
次回70周年を楽しみに!
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