江利チエミファンのひとりごと

江利チエミという素晴らしい歌手がいた...ということ。
ただただそれを伝えたい...という趣旨のページです。

◆ Come on a my house

2016年08月12日 | 江利チエミ(続編)

チエミ・10周年記念アルバム盤バージョン
  

   それををカバーするアーサー・キット  

         
デビュー盤(笠置シヅ子さんテイストな昭和27年)


           昭和32年日活映画「ジャズ娘誕生」
               相手役はデビューしたばかりの石原裕次郎さん。

一番有名なジョージ・クルーニーの伯母様「ローズマリー・クルーニー盤」そのまま継続して聴かれると「エラ・フィッツジェラルド盤」も現れます。

       チエミさんが一番影響を受けた「ケイ・スター盤」:歌詞もこれに忠実かと思います。

カモンナ・マイ・ハウスは進駐軍時代からのレパートリー... あの小柄だったチエミさんが、まして小学生から中学生の時期にいろいろなレコードを聴いて自分の唄を作っていったことが想像されます。

お色気たっぷりの「ジュリー・ロンドン盤」もあります。

   2008年貴重なアーサー・キットのライブでの歌唱。この年、江利チエミが多くの曲をチャンポンで日本でヒットさせた元歌を歌ったアーサーは81歳で波乱の生涯を閉じました。

>アーサ・キットは国際的なスターです。 彼女は映画、劇場、音楽とテレビそして上のキャバレーでその才能をいかんなく発揮しました。
キットはトニー賞(3回)、(二度)グラミー賞、およびエミー賞(二度)に選ばれた、たぐいまれないパフォーマーのひとりです。

キットの特徴のある声は新しい世代を魅了しました。

アーサ・メイ・キットは幼少期に多民族の混血であるのためにさまざまな差別にあいました。
8歳のときに、、彼女は生まれ故郷のサウスカロライナの北部の綿花農場から追い出され、ニューヨーク・ハーレムのおばさんのもとに預けられます。
ニューヨークのショービジネスの世界で彼女のたぐいまれな個性と能力が発揮されました、
10代の時に友達のいわばつきそいで行った有名なKATHERINE DUNHAM DANCE TROUPEのオーディションに受多くのライバル出し抜いて合格しました。
※この1948年がデビューと言えると思います。しかし、不遇な時代は続きトルコ~フランスまで出稼ぎをしている時期があります。

パリでの修行時代、キットは、ナイトクラブのオーナーによって見いださられて、専属歌手の職を得ました。
彼女のユニークなキャラクターによって、すぐに彼女は人気を得ました、
オーソン・ウェルズ(彼女を「世界一おもしろい女性」と呼んだ)も早い時期から彼女の才能にほれ込んでファンになったひとりです。

ニューヨークに戻ったキットは、ブロードウェイのプロデューサーによって見いだされました。 彼女が出演した舞台「NEW FACES」の成功は、全米ツアーと20世紀フォックス映画での出演化につながりました。(NEW FACESは1年間上演しました)。

ブロードウェイからスターダムにのし上がった彼女はラヴ・フォー・セールなど数々のヒットを飛ばしました。

テレビシリーズ/バットマン:BATMANでは1967年に、悪名高いキャットウーマンを演じ話題になりました。

10ケ国語にもわたる言語で歌って、100以上の国で仕事をした彼女は名声を得ました。
※カモンナ・マイハウスを江利チエミスタイルでの日本語でレコーディングしたり、「SHOJYOJI」なども吹き込んでいます。

1968年に接待されたホワイトハウス昼食会で、ベトナム戦争に対してはっきりとした反戦思想からの発言をして、キットは窮地に追い込まれました。
その後しばらく、キットは、米国内でブラックリストに載せられて、やむおえず活動の場を海外に求めた時期も長くつづきました。
(In 1968, however, Kitt encountered substantial professional setback after she made anti-war statements during a White House luncheon. It was reported that she made First Lady Lady Bird Johnson cry. The public reaction to Kitt's statements were much more extreme, both for and against her statements. Professionally exiled from the U.S., she devoted her energies to overseas performances)

(2006年12月にようやく彼女は公に復権します。大統領ジョージ W. ブッシュ夫人と並んでワシントンの公邸のクリスマスツリーに点灯しました。)

1974年に成功を収めたカーネギー・ホールコンサートをきっかけにアメリカに帰国、1978年にミュージカル、ティンブクトゥの彼女の主役により2回目のトニー賞候補にもなりました。・・・自伝も発刊されました。・・・

ライブ/実演こそが命...はキットの信条です。・・・(彼女のHPより省略&下手な翻訳文で失礼しました。)


2007年1月17日に、80歳のお祝いのコンサートがカーネギー・ホールで開かれました。晩年は娘と孫に囲まれ幸せな生活を送られたそうです。




アーサー・キット ウィキペデイア

※「家へおいでよ」 (Come on-a My House) は、ロス・バグダサリアンウィリアム・サローヤンにより1939年の夏に作詞作曲された楽曲である。この曲は1939年の夏にロスとウィリアムにより作詞作曲されたが、最初にヒットしたのは1951年6月6日にリリースされたローズマリー・クルーニーのアルバム『Come On-A My House』によってである。同年夏のビルボードでは、8週に渡り1位を記録している。日本では1952年に当時15歳の江利チエミが歌い、テネシーワルツとカップリングされたシングルは大ヒットした。


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1 コメント

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CDつきマガジン (秋桜)
2017-01-11 18:46:05
お久しぶりです。
チエミさんが表紙になっていて、思わず手に取り、迷わず購入してきました。
【ジャズ・ヴォーカル・コレクション18 昭和のジャズ・ヴォーカルvol.2】
この音源のチエミさんの“ビギン・ザ・ビギン”を、私ははじめて聴きました。素敵でした。
取り急ぎお知らせまで。
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