宮崎市定 著
昭和51年3月31日 第一刷発行
発行所 朝日新聞社
宮崎市定氏の中国古代史・中世史に関する論文集。
はしがきに曰く、
「 私のいう古代史とは、人類が狭小な血縁団体から出発して、古代帝国と名付けられる
大統一に達するまでの、古代史的発展の時代、古代市民生活の社会をさす。これを西洋
で言えばギリシャ、ローマの都市国家より出発して、ローマがイタリア半島を征服した領
土国家の時代を経て、地中海世界を統一したローマ帝国に至る統一気運の旺盛に現れ
た時代である。中国の古代史はこれと全く相似たる経過を辿る。上代より春秋時代に至
るまでは、都市国家の時代であり、戦国七雄の領土国家対立の時代を経て、秦漢の古
代帝国の出現に至るまでの社会には、市民権を持つ士と、持たざる庶民との対立があっ
たところまで、ローマの歴史と相通ずる点がある。そして著者の最大関心事は中国の
都市国家の問題にあり、これをつきつめて行くと、従来の通説に多大の不安と深甚な疑
問が生じ、敢て既成大家の成説に異見を挟む結果と相なった。」 (1頁)
その異見中、最も画期的なものが「中国上代の都市国家とその墓地 ――商邑は何処にあったか―― 」
「 ところが私は実は、現今普通に殷虚と言われている中国河南省の小屯附近が、果たして
本当に殷虚であるかどうかに疑問を抱いているのである。」 (31頁)
宮崎氏によれば、殷虚――虚は亡びた国の都城の廃址――は史記の記述からすると小屯の東南、黄河に
近い平坦部の中央に地下深く埋没しているという。
小屯において、長年にわたって考古学調査が行なわれたが、城郭の存在を認めることはできませんでした。
それゆえ小屯は都市遺跡ではなく、都市に附属した墓地であるという。
さらに殷の都の跡へ衛という都市国家が建設されたため、小屯は衛の墓地でもあると宮崎氏は論じています。
実に論理的で、スリリングな論文です。
中国考古学の専門家は宮崎説をどのように考えているでしょうか。
「中国古代を掘る 城郭都市の発展」(杉本憲司著・ 中公新書)の中で小屯及び殷虚についての宮崎氏の論
説は「殷虚非殷都説」として紹介されています。(70~72頁) そして次のような記述があります。
「一つの解釈として、偃師商城に対して二里頭遺跡は、墓と建築物が一体となったものを含む宗教的色
彩の濃い、たとえば宗廟のある地区と考えることも可能になってくる。 ・・・(中略)・・・
偃師における城と二里頭遺跡の関係についての仮説をもとにして、宮崎氏の殷虚非殷都説をみると、
今日の殷虚とされる地は宗廟と墓地を中心とした宗教的な地域で、政治を行う王城は今日の殷虚よりや
やはなれた地域にあったとする考え方もできる。」 (74頁)
ところで、「殷虚非殷都説」よりも「小屯非殷虚説」の方がいいと思うのですが、いかがでしょうか。
昭和51年3月31日 第一刷発行
発行所 朝日新聞社
宮崎市定氏の中国古代史・中世史に関する論文集。
はしがきに曰く、
「 私のいう古代史とは、人類が狭小な血縁団体から出発して、古代帝国と名付けられる
大統一に達するまでの、古代史的発展の時代、古代市民生活の社会をさす。これを西洋
で言えばギリシャ、ローマの都市国家より出発して、ローマがイタリア半島を征服した領
土国家の時代を経て、地中海世界を統一したローマ帝国に至る統一気運の旺盛に現れ
た時代である。中国の古代史はこれと全く相似たる経過を辿る。上代より春秋時代に至
るまでは、都市国家の時代であり、戦国七雄の領土国家対立の時代を経て、秦漢の古
代帝国の出現に至るまでの社会には、市民権を持つ士と、持たざる庶民との対立があっ
たところまで、ローマの歴史と相通ずる点がある。そして著者の最大関心事は中国の
都市国家の問題にあり、これをつきつめて行くと、従来の通説に多大の不安と深甚な疑
問が生じ、敢て既成大家の成説に異見を挟む結果と相なった。」 (1頁)
その異見中、最も画期的なものが「中国上代の都市国家とその墓地 ――商邑は何処にあったか―― 」
「 ところが私は実は、現今普通に殷虚と言われている中国河南省の小屯附近が、果たして
本当に殷虚であるかどうかに疑問を抱いているのである。」 (31頁)
宮崎氏によれば、殷虚――虚は亡びた国の都城の廃址――は史記の記述からすると小屯の東南、黄河に
近い平坦部の中央に地下深く埋没しているという。
小屯において、長年にわたって考古学調査が行なわれたが、城郭の存在を認めることはできませんでした。
それゆえ小屯は都市遺跡ではなく、都市に附属した墓地であるという。
さらに殷の都の跡へ衛という都市国家が建設されたため、小屯は衛の墓地でもあると宮崎氏は論じています。
実に論理的で、スリリングな論文です。
中国考古学の専門家は宮崎説をどのように考えているでしょうか。
「中国古代を掘る 城郭都市の発展」(杉本憲司著・ 中公新書)の中で小屯及び殷虚についての宮崎氏の論
説は「殷虚非殷都説」として紹介されています。(70~72頁) そして次のような記述があります。
「一つの解釈として、偃師商城に対して二里頭遺跡は、墓と建築物が一体となったものを含む宗教的色
彩の濃い、たとえば宗廟のある地区と考えることも可能になってくる。 ・・・(中略)・・・
偃師における城と二里頭遺跡の関係についての仮説をもとにして、宮崎氏の殷虚非殷都説をみると、
今日の殷虚とされる地は宗廟と墓地を中心とした宗教的な地域で、政治を行う王城は今日の殷虚よりや
やはなれた地域にあったとする考え方もできる。」 (74頁)
ところで、「殷虚非殷都説」よりも「小屯非殷虚説」の方がいいと思うのですが、いかがでしょうか。
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