昭和61年4月7日初版発行
編者 NHK“ドキュメント昭和”取材班
発行所 株式会社角川書店
1919年、第1次世界大戦後のパリでの講和会議に参加した日本代表団のドキュメント。
パリのバンドーム広場にあったホテル・ブリストルに日本全権団事務所、宿舎が設けられた。
日本代表団64人、タイピスト、運転手などのスタッフを加えると総勢106人。
しかし、会議において日本代表は沈黙し、事態の推移をながめた。なぜか。
随員堀内謙介はその実情を次のように吐露している。
「講和会議中、痛感したものがある。たとえ日本にとってはじめての檜舞台であったとはいえ、
いかにも準備が不充分であったことだ。直接利害関係のある問題――山東問題とか南洋群島
問題とかだけに没頭して、世界全般に関係する平和機構の問題とか、国際労働の問題とかに
ついては、まったく研究が行き届かず、いかにも視野が狭い。 ヨーロッパの諸問題等について
は、ぜんぜん無知識といっても言い過ぎでないほどで、会議の出席の全権にしても、専門委員
にしても、だいたい沈黙の美徳を守るほかなく、実に情けない状態であった」(『ベルサイユ講和会議の回想』)
(134頁)
小牧アルバムより
左上 新聞課の窓辺で。右端: タイピストのルフェーブル女史。 右上 日本代表団新聞課の部屋で。
左下 当時のパンドーム広場。 右下 フランス人のスタッフか。
左から小牧近江、伊藤真一書記官、本野盛一書記官。日本事務所で
講和会議のなかで数十の委員会が発足した。その委員会に対応するためにパリ、欧州にいた多くの日本人が
日本代表団に動員された。
その一人に小牧近江がいた。後のプロレタリア作家・社会運動家であり、雑誌「種蒔く人」「文芸戦線」の
主宰者として知られる。
小牧は当時二十五歳。十六歳でフランスに渡り、苦学してパリ法科大学に学んでいた。かねてパリの
日本大使館に出入りしていた関係から、急遽日本代表団事務所の呼び出しを受け、そこで働くことになる。
(125~126頁)
小牧は、この新聞課で働いていたころの貴重な写真アルバムを、今にのこしている。日本代表団の日常を
記録したものとしては、私たちが知る限り、おそらく唯一のアルバムである。小牧が没したのは昭和五十三年。
作家としての道を歩んだ彼にとっても、バンドーム広場で過ごしたつかの間の日々は、忘れがたい若き日の思
い出であったかもしれない。このアルバムは昨秋、遺族から鎌倉文学館に寄贈されている。 (129頁)
日本政府は講和会議は短期間で終了すると考えていたのでしょうか。そのため準備不足の状態で出発したのではないでしょうか。
しかし、そのおかげで小牧近江のような「部外者」が代表団に加わることになり、貴重な小牧アルバムが残されることになりました。
政治家、官僚だけではこのようなアルバムは作られなかったでしょう。
このアルバム、ぜひ出版してほしいですね。
編者 NHK“ドキュメント昭和”取材班
発行所 株式会社角川書店
1919年、第1次世界大戦後のパリでの講和会議に参加した日本代表団のドキュメント。
パリのバンドーム広場にあったホテル・ブリストルに日本全権団事務所、宿舎が設けられた。
日本代表団64人、タイピスト、運転手などのスタッフを加えると総勢106人。
しかし、会議において日本代表は沈黙し、事態の推移をながめた。なぜか。
随員堀内謙介はその実情を次のように吐露している。
「講和会議中、痛感したものがある。たとえ日本にとってはじめての檜舞台であったとはいえ、
いかにも準備が不充分であったことだ。直接利害関係のある問題――山東問題とか南洋群島
問題とかだけに没頭して、世界全般に関係する平和機構の問題とか、国際労働の問題とかに
ついては、まったく研究が行き届かず、いかにも視野が狭い。 ヨーロッパの諸問題等について
は、ぜんぜん無知識といっても言い過ぎでないほどで、会議の出席の全権にしても、専門委員
にしても、だいたい沈黙の美徳を守るほかなく、実に情けない状態であった」(『ベルサイユ講和会議の回想』)
(134頁)
小牧アルバムより
左上 新聞課の窓辺で。右端: タイピストのルフェーブル女史。 右上 日本代表団新聞課の部屋で。
左下 当時のパンドーム広場。 右下 フランス人のスタッフか。
左から小牧近江、伊藤真一書記官、本野盛一書記官。日本事務所で
講和会議のなかで数十の委員会が発足した。その委員会に対応するためにパリ、欧州にいた多くの日本人が
日本代表団に動員された。
その一人に小牧近江がいた。後のプロレタリア作家・社会運動家であり、雑誌「種蒔く人」「文芸戦線」の
主宰者として知られる。
小牧は当時二十五歳。十六歳でフランスに渡り、苦学してパリ法科大学に学んでいた。かねてパリの
日本大使館に出入りしていた関係から、急遽日本代表団事務所の呼び出しを受け、そこで働くことになる。
(125~126頁)
小牧は、この新聞課で働いていたころの貴重な写真アルバムを、今にのこしている。日本代表団の日常を
記録したものとしては、私たちが知る限り、おそらく唯一のアルバムである。小牧が没したのは昭和五十三年。
作家としての道を歩んだ彼にとっても、バンドーム広場で過ごしたつかの間の日々は、忘れがたい若き日の思
い出であったかもしれない。このアルバムは昨秋、遺族から鎌倉文学館に寄贈されている。 (129頁)
日本政府は講和会議は短期間で終了すると考えていたのでしょうか。そのため準備不足の状態で出発したのではないでしょうか。
しかし、そのおかげで小牧近江のような「部外者」が代表団に加わることになり、貴重な小牧アルバムが残されることになりました。
政治家、官僚だけではこのようなアルバムは作られなかったでしょう。
このアルバム、ぜひ出版してほしいですね。
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