浜田省吾 『悲しみは雪のように (ON THE ROAD 2011 "The Last Weekend")』
・・・・・・りこちゃんの話をしなければなるまい。
6
あの頃の亮介たちにはひとつの目標があった。
昔、「街の杜音楽会」と銘打ったライブ・コンサートが存在していた。簡単にいえば野音みたいなライブなのだが、例えばロックインジャパンフェスみたいに規模は大きくないし、開催時期も決まってないし、開催場所も確定されていない。ただ一年に一度、突然各音楽雑誌に、大きく日時と場所と募集要項が載った広告が掲載される。ここではじめていつ開催されるのか、どこでやるのか判明することになるのだが、夏であったり冬だったり、海岸沿いでやったかと思えば、大きな公園で開催したりと様々であった。参加アーチストはインディーズに限り、ただし、将来性があり相当数の集客力が見込めることが条件で、ライブハウス等の責任者の推薦がいる。
そもそもの始まりが或る大物音楽プロデューサーがほんの思いつきでお遊び程度にと企画されたコンサートなのだそうだ。
持ち時間は三十分、参加者十組程度のライブであったが、それでも、千人近くは集客でき、これを契機に本格的にメジャーへと飛躍していったアーチストが多数存在したこともあり、彼らにとっては、そこで演ることは一つの大きな目標となっていたのだ。例え、大御所のお遊びであってもだ。
キンキー・ハウスの長谷さんから推薦の打診があったのは、美奈子がメンバーに加わって、一年が過ぎようとした時であり、彼らのライブが、中規模のハコならワンマンで、常に二、三百人は動員できるといった状況になっていた頃であった。
その日、彼らの単独ライブが終わって、相当数の客が帰っていったあと、カウンター席に陣取り、彼らは彼らだけのささやかな打ち上げをしていた。本来なら、貸切にして人を集め、大規模な打ち上げをすれば店の売り上げに貢献できるのであろうが、亮介たちにその気はなかった。
「君らどう思う?」長谷さんは彼らに近づき、雑誌の広告ページを開いて志村の前のカウンター上に置いてみせた。
「街の杜って・・・、俺ら出れるの?」
志村が目を見開いて起ちあがり、雑誌を手にして皆に見せまわった。公演場所は上野恩賜公園、日時を見ると三ヶ月後だった。
「推薦さ、推薦、出られるかどうかは、主催者側の選考次第、だね」
長谷さんは目尻を掻き、(どうだい、良いじゃないか)という仕草をしていた。
志村のみならず、皆一様にこの申し出に驚いていた。勿論、彼らもいちアーチストである限りは、いつかは・・、と思っていないでもなかった。しかし、それが今だなんて、そのときが訪れるなんて夢にも思っていなかったのだ。
「君らのことは、他のハコからも聞いているよ。最近では、どこでも満員御礼だそうじゃないか。もうプロといってもいい」
長谷さんはまるで我がことのように、満足げに両腕を胸の前で組み、背中をややそらし気味にしていた。
本当に?、と美奈子が機嫌を伺うように言うと、本当だ、と長谷さんは言った。
「他にもここで人気のバンドはいるよね」
とっぺいが訊ねると、長谷さんは視線を落とし、少し考えるようなふりをした。
そして、ゆっくりと視線を戻すと、亮介たちそれぞれを見渡した。
「君らがいいんだ」
長谷さんははっきりと公言した。
「君らの音はぼくの好みなんだよ、そして君らの音はきっと選考委員の耳に止まる。そう信じているんだ」
亮介はやや複雑な感は否めなかったが、初めて漏らした長谷さんのこの本音に、自分たちの音が本当に認められたようで素直に嬉しかった。
「お願いします、お願いいたします、うん、うん、みんないいよな」
志村は、反論もしていない彼らを説き伏せるように、同意を求めた。お互い(どうする?)という顔をして見合わせてはいたが、勿論異論はなかった。
「お願いします」
亮介が言うと、そうか、じゃあ店長にも許可をとってあるし、後の手続きはこっちでやるからさ、と長谷さんは腕組みを解き、カウンター席から離れていった。
「乾杯!」
降って沸いたような幸運に亮介たちは祝った。(ともかく、階段に片足が掛かった)彼らはみなそう信じて疑わなかったからだった。
十一時を相当過ぎ、スタンディングの客の邪魔にならないようにと、ホールの後方に寄せられた二十席程ある小型のテーブル席もほとんどが空席だった。ライブが終われば、貸切でない限り、ここはフリーのカフェ&バーと化すのであるが、一部の席では、女の子たちが、時々亮介たちのほうに目を向けながら、異様に騒いでいた。
「なあ、ふたり、帰ったのか?」
先ほどまで左頬をカウンターテーブルの上に押し潰すようにして、酔い潰れ、おまけにいびきまでかきだしていたはずの志村は、ムックと起きだして、はああ、と両腕を後方へ大きく反らすようにして、眠たそうな涙目で隣にいる亮介を見つめた。
「ああ、ほんの二十分程前かな、美奈子もとっぺいも、門限があるってそそくさと帰っていったよ、時計を気にしてさ」
「門限?美奈ちゃんは分からないでもないけど、とっぺいが、か?」
「はは、冗談さ、本当はバイトだ。音楽出版社のね」
こんな時間にかあ、出版社って不規則なんだな、と志村は自ら勝手に納得し、神妙な顔つきで転がっていたグラスを片手にし、生温くなってしまったビールを注ぎ込み、ご苦労様と杯を掲げ、一気に飲み干した。
「美奈ちゃん、送ってかなくてよかったのか?もしかして、今頃とっぺいと乳くりあってるかもしれないぜ」
小馬鹿にしたような志村の言葉が心臓にキリきりと突き刺さった。そしてすぐに、知っていたのかと思った。亮介は少なからず動揺した。
「いつから・・・」
「うん?」
「いつから気づいていたんだ?」
亮介の顔に戸惑いが表れていたのか、志村はぷっと吹き出しそうになり、くっくっくと必死に笑いを堪えていた。
「そりゃわかるさ、ライブでの美奈ちゃんの視線、頼るような安心しきった視線の先にはいつもいたのだよ、亮介君がさ」
「・・・・・」
「まあ、もっとも最初に気づいたのはドラムのとっぺいだがな。三ヶ月程前だったか、美奈ちゃんのお前を見る目がどうもヤバイ、あれは恋する女の目だときやがった。奴は一番後ろで俺らをいつも観察しているんだ、いち早く気づいて当然さ。で、悪いが、ライブの最中俺もそれとなく観察してみた。結果はクロだ」
クロか・・・、確かに亮介は彼女のその視線に気づいていた。観客には分からないように彼女は、まるでベッドの中で男に腕枕をされている最中の女のような、そんな頼りきった視線を亮介に向けていた。亮介はその都度、微かに笑みを返し、彼女に近づき、彼女の耳元で最高だ、と囁いていた。すると、彼女は本当に最高なパフォーマンスをしてみせた。二人のそんなやりとりに、特別な匂いを志村達が嗅ぎ取るも当り前だった。きっと自分たちは頭足らずの恋人のようになっていたのかもしれない。
「で、どこまでの関係なのさ、あんた達は」
まるでオカマのような志村の口ぶりに亮介は破顔した。
「どこまでっていっても、まだ個人的には、手も握ってない」
「オー・ノー、本当かよ、例えば肩を抱き寄せ合ったり、思わずキッスをしちまったりとかないのかよ」
「うん、まるっきりない」
亮介は変にいばるような調子で言った。
「ないって、そんなお前なあ、中坊かよ、お前らは!」
志村は仕方がないなといったように顔を左右に振った。そして、考えをめぐらすように首を傾け、すると、こりゃ俺が骨を折ってやるしかないかなと、微かに呟いた。
「明日夕方、そうだな五時ごろがいいかな、俺のとこ来い、いいか二人でだぞ、明日は日曜だから彼女も空いているだろう?いいか、必ずだぞ」
志村はそう言い切ると、腕を組み、うーんと何やら考え込み、それから思い出したように、カウンター上の小皿に残されていたアタリメをくちゃくちゃと口に放張りはじめた。
次の日の朝、亮介はいつもより早い時間に目覚め、起きた。志村のところを訪問するのは夕方だし、美奈子に電話するにしても相当早い時間だったので、もう一眠りしてもよかったのだが、妙に頭が冴えてしまって眠ることができなかった。昨日、志村と亮介は、十二時前にライブハウスを後にし、池袋駅で別れた。別れ際、じゃあ、明日ぜったいだぞと志村は亮介に再度念を押した。やつのところに二人で行くことに何の意味があるのだろうと勘繰ったが、亮介はいやな顔も見せず、ああといって彼と別れた。
朝飯もそこそこに、亮介はそこらへんに放ってあった情報雑誌を手にした。四畳半、テレビもない狭いこの部屋の大きな利点は、何処にいても手を伸ばせば望みのものを手にすることができる、ということだけだった。一度、美奈子をこの部屋に招待しようかと迷ったことがあったが、狭く男の匂いが充満しているであろうこの部屋に、彼女を招き入れるのは憚れた。結局亮介は諦め、ああ金があったらなあと自分の境遇に誰に対してもでもなく恨んだ。
亮介の部屋にも入れたことがない彼女を志村の部屋に連れて行くことに、順序が逆だろと変な違和感を感じながら、亮介は情報雑誌のページを捲った。上板橋の駅近くには上板シネマという小さく古びた映画館があった。きっと百人も入らないだろうと思われるその映画館の上映予定を探し当てると、丁度、亮介の好みの監督の作品が上映されていることに気づき、これがいいかなと思った。
その映画の名前は「さびしんぼう」、亮介は志村の部屋を訪れる前に、美奈子とささやかなデートを目論むことにした。
映画館は異常なほど空いていた。日曜日だというのに、空いている席のほうが多い位で恐らく、この映画館もそう長くはないのかなと思った。
映画の内容は、ドタバタのコメディーのようで、所々で感動させられる場面が散りばめられていた。簡単に説明すると、尾道を舞台にした少年ヒロキの淡い恋、そしてそれに絡めて、彼の前に突然現れた白塗りの少女(さびしんぼう)とヒロキとの交流を描いたファンタジーといったところか。ショパンの「別れの曲」が効果的に流れていた。亮介の右隣に座っていた美奈子は「別れの曲」が流れるたびに、今まで耐えていたといったように涙があふれだし、「さびしんぼう」とヒロキの母親とのやり取りにはケラケラと笑っていた。
亮介はそんな彼女を愛おしく感じ、何度も彼女の左手を握ろうと目論んだが、何度も躊躇し、やっと握れたころには映画はラストシーンを迎えようとしていた。
亮介に手を握られた美奈子は少し驚いたように亮介のほうを振り向いたが、すぐに前に向き直った。彼女は心なしか肩を亮介のほうに傾け、いい映画ねと小声で囁いた。彼女の掌はあたたかく、そして柔らかかった。
志村の住んでいる高島平のアパートまでは、映画館から歩くと三十分以上はかかる。電車でいったほうが楽ではあったが、一度池袋を経由しなければならなく、時間もかかる。時計をみると四時過ぎだ。彼らは相談した結果、歩いていくことに決めた。
アパートに着く間、美奈子は映画の感想を、よかった、よかったと繰り返し、亮介が、何処がよかったんだい、と聞くと、全部よと答えた。彼女は白のTシャツにチャコールグレーのスリムジーンズという井出達で、亮介は改めて彼女のスタイルの良さに気づき、歩きながら彼女の左手を握った。彼女は私たち中学生みたいねと笑い、亮介はそれでいいんだと腕を振った。亮介はそれまで、女性と付き合った経験がない訳ではなかった。キスの経験もそれ以上の経験もしている。でもこれでいいんだと思った。俺たちの場合はゆっくりと急がず、愛がそれについて行けばいいんだと考えていたのだ。亮介は幸せだった。それはきっと美奈子も同じことだと信じていた。
四十分程歩き、亮介たちは志村の住んでいるアパートに辿り着いた。築十年という白い壁のアパートは亮介の住んでいる下宿先に比べれば、相当立派な建物だった。時計をみると五時十分前だ。二階の東端にあるはずの志村の部屋を目指して階段を昇り、彼の部屋の前のドアまで来て、呼び鈴を鳴らした。ガタンという何かにぶつかる音がして、続けてはーいという女の声がした。部屋間違えたかなと亮介は訝り、でもすぐにドアは開けられた。
姿を現したのはやはり女性だった。すいません、部屋間違えちゃったようでと、立ち去ろうとする彼らを制して、彼女は亮介君と美奈子さんでしょう、お待ちしてました、と言った。きっと相当変な顔をして驚いていたのだろう、彼女は、ふふと含み笑いをしてから、シムちゃーんと奥にいるらしい志村を呼んだ。
それが「りこちゃん」との最初の(もっともそれが違っていたことに後で気づくのだが)出会いだった。
六畳と四畳半、1Kトイレ付の部屋は清潔感に溢れ、見事なまでにきっちりと片付けられていた。六畳の部屋には隅に最新型のテレビが台の上に設置され、その横には白い花瓶に正体不明の黄色く小さい花が適度に生けられていた。向かいの隅には志村が中古で買ったレスポールが立てかけてある。辺りの空気は、亮介の部屋と違って男臭さの欠片もなかった。
「さあさ、飲みなさいよ」
りこちゃんは冷蔵庫から冷えたバドワイザーの350ml缶を数本出し、プルトップを引いた。それから、テーブルの上に伏せられていたグラスを手に取り、彼らの前に置くと、亮介のグラスにとくとくと注ぎ、続いて美奈子のグラスにも、飲めるのよね、と注ぎ始めた。長方形の茶色いカジュアルテーブルの真ん中には、白菜やきのこ類、豚肉や大根などがごった煮にされた鍋がカセットコンロの上に載せられていた。それぞれの前にはポン酢が入れられた深底の小皿と割り箸がある。
「そろそろ暑くなろうって頃に鍋なんてな。
まあ、でも何人かで集まるときは季節がなんであろうと鍋が一番だ。まっ、食え食え」
志村はそう言うと、真っ先に鍋に箸をつけた。
「なあ、・・・その前に、さ」
亮介はビールの入ったグラスに目をやった。
「ああ、そうだな、乾杯だよな、乾杯、そうそう、当たり前のことなのに」
志村は、摘んだ豚肉をまた鍋に戻し、箸を置いた。
「いや、それもあるけど、なんていうかこの状況、俺はさっぱり飲み込めない」
先ほどから言おう言おうと思っていたことをやっと亮介は口にすることができた。志村の隣に座っている彼女、彼女が何故ここにいるのか、どこの何者なのか、いきなり顔をあわせてからここに座らされ、彼女が鍋を用意し今に至るまで、志村からまるっきり詳細が語られることがなかったのだ。
「あれ?何も言ってなかったっけ?そうか、そうだよなあ、初対面みたいなもんだもんなあ、おまえらが訝るのも無理もない、ええとそうだな、まず名前は東条るりこだ。ただし、本人はこの名前が好きじゃないらしく俺は(りこ)と呼んでおる」
志村が早口で捲くし立てると、彼女は立ち膝になり、りこです、よろしくお願いいたしますと彼らに挨拶した。初対面みたいなもの?亮介は訝り、あらためて見ると、顔の丸い娘だなと思った。目もくりっとして、櫛どおりのよさそうなロングの髪がすうと伸びていた。
「・・で、俺と彼女は付き合っておる。出会って半年、で、これはどうでもいいことだが、今現在は同棲中の身だ。ほら、これでいいか?これ以上何を言わせんだい。・・・・いや、俺が勝手に喋っているのか」
志村の様子にりこちゃんは、馬鹿ねえとけらけらと笑っていた。
隣にいる美奈子と顔を見合わせ、同棲だと?同棲、いきなり志村に告白され、どういう顔をすればいいんだと思った。
「二人はどうやって知り合ったんですか?」
美奈子は彼女に話しかけた。
「キンキー・ハウスの隣、喫茶店があるでしょう?」
「ええ」
「私、そこで働いているのよ」
キンキー・ハウスの隣には「ブロンクス」という名の喫茶店があった。コーヒーが旨く隣ということもあって、彼らはたびたびそこを待ち合わせの場所にしていた。そういえば、と思ったとき、
「やっぱり!私何処かで会った事ことあるとさっきから思っていたの」
美奈子はわーと顔を紅潮させ言った。
「私のシフトのとき、ね、このひと一人でいてそのときにね、誘われたんだ。あなた達のライブ観にいったこともあるし、ものすごくきれいなギターを弾く人だぁ、って思っていて、バンドの人は手が早いよ、気をつけなって店長に言われていたんだけど、まあそれならそれでいいやって思ってね、うん、思ってたらこうなっちゃったのよね」
まだ何事か聞きたそうな顔をしている美奈子を尻目に、まっそれはともかくさ、とりあえず乾杯だ。志村は頭を掻き、みんなで乾杯した。
亮介は同棲という言葉に憧れを抱きながら、でも志村の告白に一種の悔しさを感じ、鍋を必死に突いた。それから、美奈子とりこちゃんが昔からの友人のように仲良く話をしているのを眺め、そこで初めて‘そういうことだったのかと気づいた。
7
女の笑い声で目が覚めた。その笑い声があまりに甲高かったので、うーんと亮介は不機嫌そうな声をだし、カウンターから身体を起こした。ああ、ここは「キンキー・ハウス」だったと微かに思い出していると、
「ごめんね、起こしちゃった?」
美奈子は亮介に声をかけ、りこちゃんは、ごめんなさいと両手を合わせていた。どうやら自分は酔い潰れていたようだ。りこちゃんの隣にいるはずの奴がいないので、志村はどうしたと聞くと、店の外よ、外・・・、いい空気を吸いたいんだって、ちょっと気持ち悪くなったみたいと、りこちゃんは仕方がないわよねぇという顔をした。とっぺいは例にもれず、バイトに行った。時計を見ると、十一時を過ぎていたので、時間だぜと美奈子に訊くと大丈夫よと平然と亮介に返し、またすぐにりこちゃんと話し始めた。
あの日以来、りこちゃんは許可を得たとばかりに、“くれよん”のライブがある度毎に顔を出し、さすがに楽屋には顔をださなかったが、それ以外は亮介たちといつも行動を共にするようになっていた。あまりに顔を出すので、最初、彼らは少し引き、志村も仲間の手前、わざと邪険にするような態度を取っていたが、彼女が意外と音楽に造詣が深く、ザ・スミスのファンだということが判明すると、彼らは彼女を歓迎するようになった。彼女は、ジョニー・マーのギターセンスに魅了されていて、特にスティル・イルが最高だと語った。そして彼女はとても明るい性格で、ビートたけしのまねをしたりと、時に彼らを大いに笑わせてくれた。
そんなりこちゃんの田舎は山梨だと聞いていた。美奈子が葡萄と富士山ね、と言うと、うんそれだけが自慢のちっちゃな県よと、りこちゃんは自虐的に笑った。信玄堤の傍に建てられた施設で育ち両親の顔はまったく記憶がないらしい。高校卒業後、しばらくは地元の工場で働いていたが、会社の経営が悪化し、その工場が山梨から撤退することになったため、二十二歳のときに工場を辞め、山梨から東京に出てきたのだそうだ。三年の間に貯めた貯金で部屋を借り、アルバイト情報誌の片隅に載っていた「喫茶ブロンクス」の「ウェイトレス求む」という募集広告をみて応募したら、面接でそこの店長も山梨県出身だということが分かり、即時採用された。山梨県人は仲間意識が強いのよと、りこちゃんは複雑そうな顔をして、ブロンクスでお金を貯めたら美容学校の入学金にするのだとおどけてみせた。
中々志村が戻って来ないので、一寸見てくると彼女達に言い残し、その場を離れた。彼女達は自分達の話題に夢中で、完全無視だった。まったく女って奴は・・、と独りごちながら亮介は扉を開け、階段を昇っていった。
志村は、国道沿いのガードレールに寄りかかりながら、何やら空を見上げていた。星でも見えるのか?と聞くと志村が見えると答えたので、亮介も空を見上げた。
「見えないこともないんだな」
志村は独り言の様に言った。
「うん、見えるんだな」
亮介は答えた。確かに微かではあるが、暗い空にひとつ、ふたつと星は光っていた。そして、志村の言葉が何かの歌の歌詞のように思えて可笑しくなった。
「何か可笑しなこといったか?俺」
「いいや」
「じゃあ、なんだ」
「うれしいのさ」
「何が?」
「(街の杜)出場決定がさ」
「ああそうだな、いよいよだ」
「うん、いよいよだね」
吉報をもらったのはライブの前、長谷さんからだった。参加バンド達はそうそうたるメンバーだった。長谷さんは、本当に我がことのように喜んでくれて、打ち上げの代金はいらないから今日はどんどん飲んでってよと大判振る舞いしてくれた。一緒にいたりこちゃんもやったねと言い、大層喜んでいた。
あと一ヶ月。
亮介たちの夢のひとつを適えるまであともう少しのところまで来ていた。そして、それからあとは・・・、と考え始めたときに、おーまえらー、帰るぞーと今頃酔い始めたらしいりこちゃんと、ふふふ、と含み笑いしている美奈子が姿を現した。時計を見ると、長針も短針も十二の数字に近づいていた。日時が変わる前には帰れないなと亮介は思い、志村も呆れ顔で、それぞれ電車に遅れまいと酔っ払いの女二人の手を引き、駅まで走った。途中、亮介が、りこちゃんの手を引き、志村が美奈子の手を引いているのに気づき、違うだろうと亮介はりこちゃんの手を放し、志村は美奈子を乱暴に振り回し、亮介の方に放って寄越した。美奈子はきゃっと叫び、くるっと回りながら、亮介の胸に抱かれた。美奈子は少しビックリしたようだったけど、優しい顔をしてそのままにしていた。亮介はたまらなくなり、ぎゅっと彼女を抱きしめた。
「もうすぐ夢が叶う」
亮介がそういうと、彼女はこくんと軽く相槌を打ち、もうすぐだわと呟いていた。
りこちゃんはそんな亮介たちの様子を見てこれでいいのだー、と「バカボンのパパ」のように叫び、志村はこの酔っ払いがあ、と他人のふりをしていた。
りこちゃんが高熱を出し、救急車で運ばれたのは、それから二週間が経った頃だった。
夜中、志村がりこちゃんの異変に気づき、背中が痛い痛いというりこちゃんの背中を必死に擦ったが、一向に状態は治まらず、熱を測ってみたら、なんと四十度もあったらしい。
慌てて、119番に電話を入れ、近くの大学病院の救急センターに運び込まれるという事態に陥った。
レントゲンを撮ったりしたが、先生の診断結果は原因不明、恐らく風邪をこじらせたのでしょうということだった。
原因不明ということが引っかかったが、病院で診察を終えて、ともかく二、三日検査入院できることが決まったこともあって、志村はほっと胸を撫で下ろした。
志村からの連絡を受け、亮介は次の日の午後、早速板橋区にあるその大学病院へ出向き、りこちゃんを見舞った。りこちゃんは三階の305号室にいた。
「元気そうじゃないか」
亮介がそう言うと、りこちゃんはでもこんな状態よお、と針の刺してないもう一方の片手で、点滴の器具を指差し、力なく笑った。熱も38度に下がったからなという志村の顔は憔悴し切っていて、昨日いかに大変だったのかを物語っていた。
元気だったし、でもあまり長いをするのも悪いので、短い会話だけを済まして、帰り際に、直ったらまたライブには来てくれよな、と亮介は申し送りをして病室を後にした。
途中病院の廊下で、車椅子に乗った年寄りのじいさんとぶつかりそうになり、怒りの含んだ目を向けられ、ああここは病院なんだなとそれほど医者にかかった経験のない亮介は、少し焦った。ごめんなさいと亮介はじいさんに向かって謝り、一階の待合室のうしろを駆け抜け、病院の外にでた。
死人の匂いがした、と亮介は思い、深呼吸をしながら何もなければいいんだが、と不安になった。病院の周りに植えられた木々は青々と茂り、柔らかな風にざわざわと小さな音をたてているような気がした。この不安はなんだろうと思ったが、そのときの亮介には知る良しもなかった。
人間は誰しも小さな頃、死に対する恐怖に怯えた経験を持っているに違いない。それは黒く、暗い穴の底に渦巻状に存在し、時にまだ小さな亮介を巻き込もうとしていた。寝床に入り、暗さに目が慣れ、うっすらと見える天井の木目を眺めるとまるでそうされるような錯覚に陥り、まだまだ小さな亮介は布団を引き被り、よく泣いた。大人になるにしたがってその感覚はなくなってしまったが、恐らく年を重ね、老人になっていくにしたがって、またあの感覚は復活してくるのだろう。ただあの頃の亮介は二十代の若造で、死というものを身近なものとしては感じられなかった。
見舞った夜、突然志村から、りこちゃんが亡くなったとの知らせを受けた。亮介は何が何やらわからなかった。今日会ったばかりじゃないか。電話の向こうにいる志村に向かって、どういうことだと亮介が尋ねると志村は、感情を持たない声で、りこは死んだんだよと再度答えた。電話じゃ埒が明かないと判断し、亮介は電話を切り、美奈子に連絡をし、二人で病院に向かった。途中美奈子は、どういうことよ、と亮介に尋ねたが、亮介は、入院していたんだと返答するのが精一杯だった。
病院に着いて、305号室を目指すと、二人の様子で感づいたのか、化粧の濃い女性看護師が彼らを引き留め、東条さんの近親者の方ですか?と聞いてきた。ええそうですと美奈子が答えると看護師はご遺体は今、地下の霊安室に運ばれましたと言った。彼らは看護師の案内を受け、エレベーターで地下に行き、霊安室のドアを開けた。初めて入る霊安室は意外と広く、それほど暗くはなかった。志村はどこだと思うまでもなく、彼は固いベッドに載せられた、白いシーツと顔に白い布を被せられたりこちゃんの遺体らしき傍で椅子に座り、寄り添っていた。志村!亮介が言うと、彼はゆっくりと顔を上げ、亮介たちを見た。彼の顔にはまったく生気というものが感じられなかった。
りこちゃんの死体は眠っているようだった。
安らかな顔をして、声をかければ、目覚めそうな感じだ。亮介と美奈子は手を合わせ、りこちゃんの顔に白い布を戻した。
「さっきまで元気だったじゃないか?」
志村に聞いた。
「急変したんだ」
志村は搾り出すような声で言った。
「・・・・最初に、また背中が痛いって言って、擦ってやったんだ。そしたら今度はいきなり眠るように意識がなくなっちまって、俺はすぐに医者を呼んだよ。俺は、病室からだされちまって小一時間ほどかなあ、・・・何やらいろいろやってくれたみたいだけれど、最後には病室に呼び戻されてさ、俺を目の前にして医者はりこの瞳孔を調べて、それから言ったんだ。八時二十二分、残念ですが、ご臨終ですだってさ。ただの風邪だったはずじゃあないか、りこはまだ二十四だぜ。風邪で死んじまうのか?何かふざけてやがるよなあ、おい、亮介、そう思わねえか、なあおい・・・」
志村の悔しさを滲ませた言葉に亮介は何も返すことができなかった。亮介自身信じられなかった。ほんの五時間ほど前、亮介はりこちゃんと会話を交わしたのだ。この遺体がりこちゃんだなんて信じられない。これは何かのお芝居だと思った。
「りこちゃんには親戚の類もいないんだったよな」
亮介はぽつりと言った。
「・・・・・ああ、でも施設には大分世話になったらしい。施設の園長先生は大変な人格者で、丁度二人で今度、挨拶に行こうって話し合っていたんだ。だから施設にも連絡したよ、そしたら園長先生絶句してなあ、今すぐ山梨から遺体を引き取りに来るってよ、三時間はかかるかなあ、ここまでさ、・・・・・本当は俺が見送ってやらにゃならんと思うんだけど、半年だからなあ、たった半年の男だ、長く世話んなった園長先生に叶う訳がねえ」
すると、亮介の隣で話を聞いていた美奈子がでも・・・と言いかけ、少し思案げにしてから言葉を発した。
「でも、りこちゃんはきっと幸せだったはずよ。彼女は私たちとの出会いを本当に喜んでいた、そして私達だってそうだったじゃない?違うかしら?例え短い付き合いだったとしてもね」
そうかもしれないし、真実は違うのかもしれない。でも、彼女と出会ったから、俺たちは「街の杜音楽会」のライブの出場権を得ることができたのではないか?彼女はもしかしたら俺たちに幸運をもたらせる為に遣わされた天使なのかもしれない。そう思った。
「彼女は俺たちに当たりくじをくれた」
そう亮介がなんとなく呟くと、堪えきれなくなった志村は激しく嗚咽した。
それから二時間ほどしてから、園長先生が到着した。彼は五味ですと名乗り、あなた達には迷惑をかけたねと言った。遺体と対面したあと、彼はお別れ会を明日夜行うので、施設にきてくれまいかと、泣き腫らした目で亮介たちに哀願した。志村はそうさせて下さい、と言い、簡単な施設への案内図を書いてもらった。それから園長先生は死亡診断書を病院から受け取ると遺体を載せ、早々に帰っていった。亮介たちはその車を見えなくなるまで見送り、いつまでも立ち尽くしていた。
8
吸殻で一杯になった灰皿から、煙が燻っているのを見て、美奈子はいやな顔をした。吸いすぎよと灰皿を半畳ほどの小さなキッチンに持って行き、水を入れた。亮介は四畳半の部屋は男臭いかいと無性に聞いてみたかったが、美奈子が臭い臭いと窓を開けるのをみてやめた。
「志村さんから連絡あったの?」
美奈子は外を眺めながら、そう聞いてきた。
「いいや、もう二週間も連絡がない」
「アパートにも行ってみたのよね」
「うん、いくら呼び鈴を鳴らしてみても誰も出ないし、ポストに新聞が溜まったままだし、ほとんど帰っていないみたいだ。連絡するようにメモを挟んできたけどね」
志村は施設の「お別れ会」に出席してから亮介の前に現れることはなかった。どこをほっつき回っているのかわからないが、新聞の溜まり具合からみて、最低でも一週間は家にも帰っていないようだった。「街の杜音楽会」まであと何日もない。最愛の人間を亡くしたのだから、精神的にキツイのは分かるとしても、連絡を取りようがないのには少し困惑していた。本当は二日前に練習をしようと貸スタジオを予約していたのだが、約束の時間を過ぎても志村は現れず、とっぺいと美奈子と亮介との三人での中途半端な音あわせに終わってしまった。それから、何度も電話をかけてみたが、呼び出し音が流れるばかりで、いくら待ってみても誰も出ることがなかった。それで昨日、堪え切れずにアパートを訪ねてみたのだが、呼び鈴をならしてもやはり誰一人出てくることはなかった。
美奈子も相当心配していたらしく、でも電話ではそれには触れず、会社の帰りに亮介の部屋に来ると言いだし、亮介は慌てて部屋を片付けるはめになった。
まずいことになったよなと窓辺の美奈子に言うと、電話のベルが鳴った。
「なあ、連絡ついたか?」
あまり期待せずに出ると、とっぺいからだった。
「いいや、駄目だ。昨日部屋に行ってみたが何日も帰っていないようだ」
「そうか、駄目か・・・」
そうとっぺいは言うと少しの間沈黙したが、やがて決心したように喋り始めた。
「・・・もし良かったら最適な奴を紹介出来る」
「えっ?」
「俺の知り合いに志村のようなギターを奏でられる奴がいる。以前から奴は俺らのバンドに興味を持っていて、何とかメンバーに入れないかと考えていたんだ。どうかな、奴の夢を叶えてやってみては」
「いきなりで弾けるのか?」
「大丈夫だ、奴は俺らの全ての曲を耳コピしている。それになんとスタプロさまだ。開演前のリハで合わせてみれば、それがよく分かる」
とっぺいの話は願ったり、叶ったりだった。でも亮介はどうしても志村を見捨てることはできなかった。志村のためだけじゃない、亡くなったりこちゃんを裏切ることにもなるような気がしたのだ。
亮介が逡巡しているのが分かったのか、とっぺいはそうだなと言い、でも念のためそいつは連れて行くぞ、と言って電話を切った。
電話を切ったあと、亮介は何だか泣きたいような気分に苛まれ、涙をださまいと天を見上げた。
志村、お前は何処にいるんだ?
亮介は初めて神に祈り、それから何故か無性に腹が減ったので晩飯食い行こうと、鍵もかけずに美奈子を連れて部屋から外に出た。
ライブ当日早朝に、電話のベルが鳴った。亮介は志村だ!と飛び起き、時計をみると朝の六時を指していた。電話はワン・コールで一度ぷっつりと切れ、また鳴った。慌てて受話器を取ると、無言の中に、相手の息遣いが聞こえてきた。志村か?と言うと相手は無言のままだった。
「志村じゃないのか?」
再度問いかけると少しの反応を感じ、間違いなく志村だと直感した。そのまま亮介は喋り続けることにした。
「なあ、志村、みんな待ってるぜ、それに長谷さんも期待している。俺達、一緒にプロになるんだろ?りこちゃんだってあんなに喜んでいたじゃないか、裏切るのか?今回のライブに出ないってことは、りこちゃんだって悲しむと思う。なあ、志村だろ、なあ、何とかいえよ、この裏切者の弱虫野郎!なあ、何とか言えよ」
亮介がここまで続けると、無言の相手に一瞬迷いのようなものを感じた。ただ、迷いは一瞬だけですぐに消えてしまった。
「・・・ごめん・・・俺もう無理・・・」
志村はやっとのことで、それだけのことを言うと、電話を切ってしまった。彼は自らチャンスを棒に振ってしまったのだ。悲しみの渦の前に立っていた彼は自らその渦に身を投じ、全てを放棄してしまった。最悪だなと亮介は悲しくなって、受話器を叩きつけた。
ライブはとっぺいの知り合いの影武者君が奮闘してくれたおかげで、何とか無難に済ますことが出来た。ただ、やはりコピーはコピーに過ぎなかった。志村のようにキレのある音はだせず、逆にそれが、彼らの音との僅かなずれを引き起こしていた。最高の音を出せずに終わり、彼らは落胆した。そして終わったね、とやっとの思いで微かに笑った。
彼らがバンドを続けることは、もう何も意味を為さなかった。志村はやはりひとつの重要なピースで、それがなくなった今、バンドは解散するしかなかった。ライブ終了後亮介は解散を口にし、みんなそれに同意した。
それから何日かが経ち、亮介は再度志村の部屋を訪ねていった。彼は大学にも顔を現さず、学生課で訊ねたところ、すでに退学したあとだった。新聞の束が無くなっていたので、今度こそと思って呼び鈴を何回か鳴らしたが、誰もいる気配がしなかった。あまりに何度も呼び鈴を鳴らしたので、隣のおばさんが出てきて、そこのうちは二、三日前に越してったよと腹を立てて話してくれた。志村は完全に彼らの前から姿を消し、亮介は馬鹿野郎と心の中で叫び、悲嘆にくれた。
9
こんばんは、とさびしんぼうは亮介を迎えてくれた。いつもだったら亮介の方がルームで先に待っているところだけれど、今夜は亮介の方が後になった。こうやって迎えられるのもいいもんだなと思う。
こんばんは、今日は早いんだね
今夜は何だかそんなキモチなの
何か良い事ことでもあったの?
別に、でもいい気分よ
そりゃ、よかった
うんよかったの、公園いったのよ
公園?
ええ、家族連れが一杯いて、子供と遊んでいるお父さんなんか見ると幸せな気分にさせられるわ
そうなんだ
そうよ
でも、いかにもマイホームパパしてますっていうのをみせられるとそんなの嘘だって思わないか?
それは偏見よ
この間のこと、聞いてもいい?
何かしら?
何故、君はシムラが裏切ったと?
あてずっぽうよ
あてずっぽうにしては素晴らしい
私、超能力があるのかもね
同じ経験をしたんじゃないかと思った
すると、彼女からの返信が急に途絶えた。彼女はきっと気づいたのだろう。亮介にはある推論があって、試すつもりで聞いてみたのだ。やっぱりと思った。しばらく待っても返答が来ないので、
どうしたんだ?と亮介。すると、
・・あなたにはもう私は必要ないかも、とさびしんぼうは唐突に返信してきた。
何故?
あなたはもう、外の世界に出るべきよ
外の世界?
そう、あなたが本来の自分でいられる場所
シムラとのこと?
あなたはシムラさんと会うべきだと思う
会って、何を話せばいいのか分からない
ただ一緒にいてあげればいいんじゃないかしら
それでいいのかな
それでいいのよ
さびしんぼう・・・
何?
あの映画の何処に感動したの?
そう、亮介が切り出すと彼女はすぐに返答を返してきた。
全部よ
全部か、そう独りごちたとき彼女は、楽しかった、またいつか会うことがあったらよろしくね、さようならと言って、ルームから出て行った。
彼女が何処の誰なのかこれではっきりした。
でもだからと言って、何かをするつもりもない。あとは、このまま本来の自分に戻っていけばいい。まずは志村と会うことから始めようと思った。
二十五年ぶりに降り立った甲府駅は、相当様変わりしたように感じた。あの当時は構内にコンビなどなかったし、階段だけでエスカレーターもなかった。改札を出て、南口方面に向かうと正面にあったはずの信玄公の銅像が駅前広場西側に移設され、以前あった場所はバスの停留所になっていた。
タクシー乗り場でタクシーを拾い、県立病院までと告げると、お客さんお見舞いけ、と地方の方言で尋ねられ、自然に笑みがこぼれた。タクシーは渋滞の道を少しずつ進み、病院に近づいて行く。途中運転手が何やら武田信玄に関する薀蓄を垂れていたが適当にうんとかはいとか言ってやり過ごした。
病院に着き、入り口からロビーまで突っ切ると、亮介は辺りをせわしなく見回し、病棟へと通じるエレベーターを探し当てた。上へ行くボタンを押そうとしたら、タイミングよく、すーとドアが開いたので、急いで駆け込み、5の数字のボタンを押した。エレベーターが五階で止まると、亮介はそこから出、確か504号室だったなと、今度は病室を探し始め、それは容易くみつかったが、しばらくの間、病室に入るのを躊躇った。心臓の鼓動がいくらか早く感じられた。
しばらく深呼吸・・・。そして覚悟を決め、ええいとばかりにドアをノックして、病室に入った。
正面を見ると、窓際にベッドが設置され、その上で、志村は半身身体を起こして本を読んでいた。ベッドの背は斜めに立つようになっている。
「久しぶりだね」
亮介がそうぎこちなく笑うと志村は、読んでいた本を、テレビが置いてある横の台の上に伏せ、嬉しそうな顔を亮介に向けた。
「二十五年ぶりだ、久しぶりだなんてもんじゃないよなあ。お前白髪目立つなあ、それに一寸太ったな」
さあ、そこの椅子に座れと促され、ベッドの横にある椅子に腰掛けると、志村が身体の位置をややずらし、彼らは向かい合った。二十五年ぶりに会った志村は痩せ細り、腕は細く干からび、顔は骸骨のようだった。会わなかった年月分を差し引いても、彼が重篤な病人なのは確かだった。
訝しげな亮介の視線に気づいたのか、志村は少し笑い、亮介が訊ねる前に、癌なんだと言った。亮介は予想していた答えを突きつけられ、少しうろたえた。
「ここにはどの位?」
そう亮介が訊ねると、志村は二ヶ月位かなと言った。
「町の定期健診を受けたら、肺に影があると言われたんだ。精密検査後癌だと宣告されたよ、ステージ4の末期だとよ」
「ステージ4・・・」
最近癌で亡くなった隣人を思い出した。隣人も同じ進行度合いだった。放射線治療を受けながら、一年程生き延び、最後には全身転移し終末医療の施設に入れられ、一ヶ月後に亡くなった。
「美奈ちゃん元気か?」
「ああ、元気すぎて困ってしまう」
「子供は?」
「高校三年の息子が一人いる」
美奈ちゃんとお前の子供じゃ、イケメンだろうなあ、きっと、と志村は空を見るような目をして、はははと軽く笑った。
それを見て、亮介はそんな話をしにここまで来たんじゃないぞと、
「お前は、あれからどうなんだよ」
やや非難するように言った。
「俺か?俺は適当な人生歩いて来たよ。・・・・お前らと会わなくなってから、山梨に来て、パチンコ屋やらライブハウスのマネージャーやら果ては肉体労働まで、何でもやって来た。ひとりだから、その点は気楽だな、いくらかの老後用の蓄えも出来て、これからどうしようって考えていたら、いきなり癌だなんて、ざまーねーよな、なあ、おい」
志村が自虐的に笑ったので、亮介も口の端を少し上げた。
「これからどうしたい?」
亮介は訊いた。
「バンドをやりたい」
志村は哀願するように言った。
「・・・バンドって俺達は当の昔に解散したんだぜ、それにもう年を食いすぎている、お前だってそんな状態じゃ無理だろ。そもそも何処でやるんだ?」
「年も、解散も俺の身体も関係ない。一度限りだ。場所はもうキンキー・ハウスで演ることに決めている。長谷さんに連絡取ったんだ。長谷さん、オーナーになったんだってな。夜は無理だが平日の昼だったらいつでも空けておくって言ってくれたよ」
亮介は、彼に対する過去の鬱憤を晴らしたかったが、痩せ細っている志村を前にして、それをいうのは憚れた。それにもう答えは決めていたのだ。
「分かったよ、で、お前はいつこっちに出てこられるんだい?退院できるのか?」
「もうすぐ退院出来ると医者は教えてくれたよ、ってことは俺もそう長くはないってことだが、そうなる前にライブをしなければならない。・・・一ヶ月以内だ」
「よし、それなら段取りは全て俺が組んでやる。長谷さんとこに頼めばいいんだな、あととっぺいにも連絡するよ。お前は愛用のレスポールと一緒に一日だけ上京すればいい」
と亮介は言い、「お見舞い」と書いた熨斗袋を志村に手渡し、じゃ、帰るぞ、お大事にと言った。帰り際、志村が「りこ」は喜んでくれるだろうかと訊いてきたので、今頃言うなよと亮介は返答し、それから当り前じゃないかと続けた。
そして今夜にでも早速とっぺいに連絡しなきゃなと思い、亮介は病院を後にした。
それから、一ヶ月の間、亮介の身辺は急に忙しくなった。とっぺいを電話で家に呼び出し、事の成り行きを話すと彼は、二つ返事で承諾してくれ、それなら俺の知り合い全部に声をかけてやるとまで言って、協力してくれた。彼にも彼なりの思いがあったのだろう、帰り際に、志村は大丈夫なのか?と亮介に訊き、亮介は一瞬考えたが、すぐに、大丈夫さ、奴は閻魔様に嫌われているんだ、と笑った。
長谷さんは本当にやるの?と目を丸くし、じゃあ、昼間のライブなんてけちな事言ってられないと、夜の部を丸々空けてくれることになった。
ライブチケットも急いで準備し、あらゆる知り合いに電話しまくりただ同然でチケットを押し付けた。
随分動き回ったせいか、亮介の身体は本調子に戻ったようだ。高峰医師は、もう復帰してもいいんじゃない?と診断書を書こうとしたが、亮介はあと一ヶ月待ってくださいと頼み込んだ。美奈子はそんな亮介をみて人生たまにはズルをしてもいいのよとケラケラと笑い、それから私歌えるかしらと間抜けな顔をした。
当日のライブは大盛況、とはいかなくて、七十人ほどの観客だった。ほとんどがとっぺいの知り合いばかりで、亮介は彼の人柄の良さに感謝した。
志村は、体力の消耗度を考えて、椅子に座ってのプレイだったけれど、往年のキレの良い音は健在だった。ベースの亮介とドラムのとっぺいはさすがに久しぶりで緊張し、無難に纏めることに終始徹底したが、意外だったのが、美奈子のボーカルだ。彼女はジーンズにTシャツと至って普通の格好だったが、ハスキーな高音はまだまだ伸びがあり、昔より色気を増していた。彼女が歌い出すと観客が異様にもりあがっていた。
ライブ終盤の志村のギターソロは圧巻だった。鬼気迫るようなリフが、終わりが来ないと思わせるほどキレ良く続き、、どこにあんな体力が残っていたんだろうと感じさせた。長谷さんはその音を聴いて、後で亮介に、ロックは彼の人生そのものだね、彼はやっぱり生粋のギタリストだったんだよ、と言った。そして、ずっと苦しんでいたんだなあ、とも・・・。
ライブが終了したあと、志村はこれで思い残すこともねえと呟き、椅子の上で愛おしそうにギターを抱えて眠り、そこからそのまま昏睡状態に陥り、慌てて病院に搬送されたときにはすでに帰らぬ人となっていた。
亮介たちは病院で志村の亡骸を眺め、最後まで世話の焼ける我儘な奴だったなあと静かに涙を流したのだった。
10
三月も後半になり、息子の浩樹の受験結果も完全に明白になっていた。二月に受験した二つの私立大学は全て受かったが、三月に受けた国立のH大学とD大学は、後者だけが合格した。
本命を逃した浩樹は、合格した三校の入学手続きを拒否して、結局浪人することに決めた。美奈子はあーもったいを繰り返したが、本人は、何処吹く風と勝手に予備校も決めてしまっていた。亮介は金を出すのは結局親なんだよと思ったが、自分も東京に出たいが為に合格した地元の大学の入学を拒否したことを思い出し、遺伝かなと諦めた。
十一月から仕事に復帰して四ヶ月、亮介は軽微な仕事から始めて、やっとそれなりの仕事を与えられるようになっていた。ただ、役職は戻してもらえず、退職までこのままなのかなと半ば諦めていた。
何とはなしにテレビを眺めていると、桜の開花が報じられており、今年は暖冬なので、満開になるまでそれ程時間を要しないと女性アナウンサーは結んでいた。桜かぁ、近くの公園も咲いているのかな、と夕飯の後片付けをしている美奈子の後姿に向かって言うと、咲いているわよ、と美奈子は返答した。
咲いているのかと思っていると、何だかむずむずして来て、急に今から見物しに行こうかという気になった。公園まで、歩いて十分だ。ねえ、公園に桜、見に行こうかと美奈子に言うと、今から?と美奈子は目を丸くしたが、すぐに思い直したらしく、夜桜もいいかもねと言った。そうだよ、そう、夜桜は最高だと、亮介がすぐにでも出かけるといった仕草をすると、彼女は仕方がないわねえ、と言い、エプロンを外した。
まだ春浅いせいか、意外に風は強く冷たかった。
公園に着くと桜の木の下のベンチに二人で腰掛けた。見上げると、ベンチ横の街灯でライトアップされた夜の桜は、綺麗な薄紅色を浮かべ、微かに柔らかな匂いがするような気がした。桜の木は包み込むようにして公園の周辺に植えられていて、みな同じように桜の花を咲かせていた。
「はいこれ」
美奈子は、コンビニの白いビニール袋からカップ酒を二本取り出すと、一本を亮介に寄越し、亮介が蓋を引き抜くと、彼女も続いてプルトップを引き、蓋を外した。
「乾杯!」
亮介と美奈子は、チンとお互いのカップを軽く触れさせた。
「桜、八割方だな」
「もう少し経ってから、来たほう良かったかもしれないね」
「いいや、この位がいい。満開になっちまったら、逆につまんないな。腹八分目っていうだろう?満開だと腹いっぱいだよ」
屁理屈を述べながら、亮介はひとくち、ふたくちと酒を口に含んだ。
辺りは静かで、人一人としていなかった。
砂場も鉄棒も滑り台もある小さな公園は昼間東側にみえる団地の小さな子供達の遊び場だった。ひとつ、ふたつ、数えたが団地の部屋の明かりが点っているのは極僅かだった。みんな、寝てしまったのだろうか?と思ったが、時間を考えるとそれも考え難かった。
美奈子を見ると少し酔ったのか鼻の頭と頬を赤くしていた。亮介はその色を見て、桜色だと思った。
「なに人の顔じーっと見ているの?顔になにか付いてるのかしら」
「花見さ」
亮介が言うと彼女は、何馬鹿なこと言っているのよ、と右手の指先で顔を撫で回していた。
亮介には先ほどからある考えが頭をもたげている。いままでは、決して口に出すことはなかったが、今なら言い出せると思った。
「なあ、多分これから先も、俺は暇が出来ると思う。土曜日も日曜日も休日出勤なしで、六時過ぎにいつも家にいるマイホームパパさ、・だから・・・」
「だから?」
「纏まった休みが取れたら、一緒に尾道に行ってみないか」
亮介がそう言うと美奈子は目をまんまるにして、えっ、と微かに呟き、ほんの少しの間驚いていた。
「期待していていいのかしら」
「もちろん」
「何時行くの?」
「秋がいいのかな」
「それなら、尾道の階段、坂道で海を見渡したいな」
「そうだな」
「船着場にも行ってみたい!」
「いいね」
「ヒロキの家、お寺探しをしてみようよ」
「賛成!」
「それから・・・」
美奈子は言いかけ、小首を傾げると亮介に近づき、亮介の頬に軽くキスをした。気紛れな春の風は強く、その風にさらわれた無数の桜の花びらが、螺旋状の軌跡を描きながらゆっくりと舞い落ちてきて、彼らを優しく包み込んだ。それから亮介は、桜のカーテンの向こう側に、志村とりこちゃんが仲睦まじげに笑っているのが一瞬垣間見えたような気がして嬉しくなった。
幻想の風景だ、亮介が思わず口にすると、美奈子は落ちていく桜の花びらに手を差し伸べ、中学生みたいねえ、私達、と呟き、楽しそうに笑っていた。
了